二 海神の落とし子

わだつみのおとしご〈1〉

「海が見たいわ」

 いつだったか、明星が話してくれたことがある。

 大皇とその一族が暮らすみやこは、山々に囲まれた盆地に位置している。生まれてからいちども京から出たことがない明星は、山並みのむこうの景色に思いを馳せては憧れを口にしていた。

「和多のお祖父様がね、わたくしの瞳は貝紫だとおっしゃるの。巻き貝から採れる美しい紫色の染料で、とても珍らかなのですって」

「貝から染料を?」

 そのころには糸繰りの仕事に励んでいた私は、好奇心で身を乗りだした。

 七洲で用いられる染料は主に草木から採れたものだ。鉱石を砕いて粉末にしたものを使う場合もあるが、糸や布帛を染めるにはあまり適さない。婆によると、鉱石の毒気にあてられて病む職工も多いのだという。

 貝から染料が採れるというのは初耳だった。私は片割れの両目をまじまじと覗きこんだ。明るく澄んだ紫色の瞳がはにかむ。

「不思議よね。お祖父様はお若いころ、大陸から渡ってきた貝紫の錦を見たことがあるそうよ。息を呑むほど鮮やかな紫色をしていて、ぴかぴかと照り輝いていたと教えてくださったわ」

すめらぎへの貢ぎ物だったのかしら?」

「いいえ。貝紫の錦は京へではなくて……南へ運ばれていったそうよ」

 明星の眉がかすかに曇る。

 単に南といえば、七洲の南方に接する島嶼群を指す。

 古くから海上の交易地として栄え、大陸にも七洲にも属さない独自の文化圏を持つ藩王国・伊玖那見いくなみ

 伊玖那見は巫女――かの国では神女エィタと呼ぶ――が支配する呪術の国であるという。いずれの父から生まれたのではなく、いずれの母から生まれたのかが重んじられる母系社会で、歴代の藩王である大神女ウルエィタの位は直系の女子が継ぐ習わしだそうだ。

 藩王国の呼称どおり、伊玖那見は大陸の国々や七洲から従属的な土地として見なされている。というより、伊玖那見の外交戦略そのものが他国に対し従順かつ友好的であるのだ。七洲にも年賀の祝いには必ず朝見の使者が訪れ、四方の海から取り寄せた貢ぎ物を山ほど献上すると聞く。

 くんの閨に南妓なんぎありぬべし――あらゆる君主の臥所に侍らぬ伊玖那見の妓女はいないという意味合いの古い風刺だ。伊玖那見は呪術と同じく音楽や舞踊が盛んで、旅女ウロと呼ばれる女ばかりの旅芸人の一団が遠国まで赴いて巡業している。

 明星は幼いころにいちどだけ旅女の曲芸を宴席で目にしたが、たいそう華やかで楽しいものだったそうだ。色とりどりの薄布を翻して踊り子たちが蝶の群舞を披露し、当時の私たちと同年代の少女が玉乗りや綱渡りをやってのけ、大の男よりも巨大な蛇が笛の音に合わせて滑稽に踊ってみせた。

 私はなんとなく女性だらけのサーカス団をイメージしたが、不意に笑顔を萎ませて口をつぐんだ明星の様子からそれだけではないことを察した。

 あとでこっそりと真赫に聞きだしたところ、旅女は行く先々で芸だけでなく春を売る遊女の側面も持っているらしい。ゆえに、伊玖那見人の女性を指して南妓という蔑称が生まれた。

 大皇の御前で芸を披露したということは、その夜のうちに大皇の臥所へ召された旅女がいるわけだ。ひとりなのかふたりなのかは知らないが(別に知りたくもない)、すでに母の後釜として妃の座に就いていた継母や大皇の寵愛を狙う宮女たち、野心を持って彼女らに群がる人びとはさぞおそろしい顔をしたに違いない。

 残念ながら大皇の臥所に旅女が侍ったのは一夜限りで、明くる朝、後宮の池に女の亡骸が浮かんでいたという記録も残っていない。いっそ大皇のお気に入りになって後宮に居座り、継母たちと足の引っ張り合いを演じてくれれば、明星の不幸が少しは減ったかもしれないのに。

 このとき私は、狭い環境の中で育った明星が少女特有の潔癖さで旅女――伊玖那見人に対して抵抗感を覚えているのだろうと思いこんでいた。

「では、伊玖那見の女王への献上品かしら? かの国は本当に豊かなのね。南の海では美しい珊瑚や真珠がたくさん採れるのでしょう?」

 片割れの表情から翳りを拭い取ろうとわざとおどけてみせると、明星の肩がぴくんと跳ねた。

 祖父が貝紫と称した瞳が不安定にさざめき、下を向いた。

「夕星は……だれからの献上品だと思う?」

「え?」

「貝紫の錦を、だれが伊玖那見へ贈ったのか」

 明星が痛いほど両手を握ってくる。私はきゅっと鼻に皺を寄せた。

「和多氏が……ということ?」

 俯いたままの頭が弱々しく頷いた。

「でも、それはおかしいことなの? 七洲の海運は和多水軍が担っているのだもの。交流が生まれるのは自然ではない?」

「お母様の出自について、ある噂を聞いたの」

 和多の氏長の娘である母は、実は祖父の正妻の子ではない。

 豪族の長は複数の妻を持つが、祖父も例に洩れず正妻以外にも数人の側妾がいた。その中のひとりが私たちの祖母である――らしい。

 というのも、白珠媛の産みの母に関する伝聞はあやふやなものばかりなのだ。氏族の有力者の娘だとか、最下級の奴婢だとか、娘同様にお産で亡くなっただとか、はたまた愛娘を大皇に奪われた悲しみのあまり海に身を投げただとか、何ひとつ確かな情報を耳にしたことがない。

 母が大皇に輿入れする際にも、母方の血筋について大いにつつかれたそうだ。そのすべてを握り潰したのはだれなのか、問うまでもない。

 伊玖那見とは異なり、七洲は父系社会だ。母は和多の氏長の息女であり、掌中の珠と慈しまれた媛だった。それだけで母の身分は保証され、大皇無二の妃として生涯を全うした。

 だが、遺された私たち……特に、継母を頂点とする女の園で育った明星は違う。

 定かでない母の出自は、宮城の女たちにしてみればこの子を傷つける絶好の武器でしかない。謂れのない侮蔑を糞尿のように浴びせられ、片割れがどれほど涙してきたか――私がいちばん知っている。

 私は明星の手を握り返した。

「母上を産んだのは伊玖那見の妓女だった……かしら?」

 一拍の空白を置いて、明星はこくんと首肯した。

 莫迦莫迦しくなった私は鼻を鳴らした。

「好きなように言わせておきなさいな。後宮なんて息苦しいところで長年暮らしていると、自分勝手な妄想に取り憑かれて泥水の詰まった革袋のようになってしまうのよ。ぱんと弾けたあとは、こわぁい地獄耳の主がきれいさっぱり片付けてくださるわ」

「……じごくみみ?」

 顔を上げてきょとんとする明星に、私は首を竦めてみせた。「おそろしく耳聡いひとのことよ」

 大皇のような――とは、さすがに言葉にしなかった。

 宮城において、母の出自は一種のタブーだった。いまなお大皇の心を支配する母を貶める言動は、それこそ首と胴体が永遠の別れを迎える行為に等しい。

 愚かな末路をたどった宮女の噂話なら、真赫たちからいくらでも聞けた。継母ですら、夫の前ではけして母を侮辱するような真似はしないというのだから。

 片割れの耳に余計な『噂』を吹きこんだ宮女に同情はしない。近いうちに明星に仕える侍女の何人かが入れ替わるだろう。

「夕星は、ときどきわたくしの知らない言葉を使うわね」

 不思議そうに瞬いたあと、明星はふにゃりと笑みをこぼした。

 私は安堵して、コツンと頭を寄せた。

「宮に出入りする者たちのおかげで耳年増になってしまっただけよ。姉様のほうが歌も舞もお上手だし、器量もいいし、素直でやさしくてたおやかでいらっしゃるわ」

「まあ、わたくしの妹は褒め上手だこと。……ふふっ、そうね。夕星はどちらも苦手だものね」

 これは本当の話で、明星の歌と舞は素晴らしい。何度か披露してくれたことがあるが、身内の贔屓目を差し引いても神懸っている。

 管弦の類いもちょっと手習いをすればあっという間に覚えてしまうらしく、姉ながらとんでもない才能の持ち主だ。

 一方の私だが……糸繰り唄を口ずさもうものなら、婆からしょっぱい視線が飛んでくる。いちど真赫に聞かせてみたところ、「酔っ払いが歌う子守唄よりひどい」という感想を真顔で返された。

 どうやらリズム感を前世に置き忘れたらしく、舞はブリキの人形の盆踊りにしかならない。運動神経は悪くないはずなのだが。

 ひとしきり笑い、明星は憂いを押し隠すように睫毛を伏せた。

「夕星は強いわね」

「……そんなことはないわ」

 私はしかめっ面で否定した。

 強くなったわけではない。ただただ、悲観するふりばかり得意になってしまった。

「あなたがいるから、強がれるだけよ」

 明星は私の肩に額をこすりつけ、「わたくしも」とささやいた。

「わたくしも、あなたがいてくれるから……朝を数えてゆけるの」

 ――この子は何度、孤独な夜を迎えてきたのだろう。

 闇に怯え、朝が来ることに絶望し、救いのない日々を送り続けてきたのだろう。

「いつか」

 震えるくちびるが甘い希望を吐きだす。「いつか、夕星といっしょに、海が見たいわ」

「ええ……そうね」

 私は瞼の裏に、記憶に滲む海を思い浮かべた。

 この世界の海はどんな色をしているのだろうか。

 やはり青いのか、まったく別の色をしているのか。海風はどんな香りがして、波の音はどんな風に響くのだろうか。

 見てみたいと、心から願った。

 願わくは――つないだ手を離さないまま。

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