そまのみやのひめみこ〈3〉
朝食の後片付けを終えると、真赫は台盤所へ戻っていった。私は婆とともに糸繰りの仕事に取りかかる。
婆はもともと皇族の衣装を作る染殿で働く
婆からは陰視の心得とともに糸繰りの技も教えこまれた。染殿で働いている宮人たちも、まさか皇女が糸繰り女の真似事をしているとは思うまい。
「昔むかしは、糸繰りや機織りは巫女のお役目でごぜえました。
糸車を回しながら婆は語る。
実際、婆は呪師であると同時に優れた巫女でもあった。豪雨や干魃、疫病の予兆を読み取ったときなど、宮に出入りする真赫たちにそれとなく伝え、大皇の耳にまで届くよう取り計らっていた。
真赫によれば、婆の占は先代の大皇の治世から重んじられているのだそうだ。同時に畏怖嫌厭の対象となり、最下級の奴婢に落とされた。大皇からすれば忌み子の世話を任せるにうってつけの人材だったというわけだ。
染殿に納める糸は、主に天領で飼育されている特別な蚕の繭から取れる絹糸だ。
淡い翡翠色を帯びた繭からは、萌黄色に照り映える美しい糸が取れる。一般的な絹糸よりも細くやわらかいため、熟練の糸繰り女でなければ仕上げることが難しい。
婆はこの特別な絹糸を取る役目を負う数少ないひとりだった。染殿から運ばれてきた繭を大鍋で煮てほぐし、糸車で丁寧に糸を紡いでいく。
私が糸繰りを任されているのは一般的な白い繭だけだ。「
婆が回す糸車の音、古めかしい糸繰り唄を聞いて育った私にとって、糸繰り女の真似事はすんなりと身に馴染んだ。
ほぐした繭から紡がれる一本の糸によって、私という人間とこの世界が結ばれる。するすると伸びていく糸の先から、言葉でも映像でも音楽でもない情報が波のように打ち寄せる。
宮を囲う森に潜むものたちの息遣い、梢のささめき、風の匂い。
広大な宮城で動き回る人びとの足音、話し声、色とりどりの裳の衣擦れ。
台盤所で真赫がかまどの火を熾そうと息を吹いている。厩から響く嘶き、馬蹄の音。
染殿では年若い機女たちがおしゃべりに夢中になり、機女頭からこっぴどく叱りつけられている。機織りの音色、染料を煮出す大鍋から立ち上る湯気の熱。
宮城の奥へ意識を向けると、てらてらと玉虫色に輝く帳が雪崩れ落ちた。パシンッと鼻先で閉め出されてしまい、帳のむこうを窺い知ることはできない。
呪術による守りは、単なる陰視に過ぎない私では突破は困難だ。破れたところで、大皇に知れれば謀反の疑いをかけられるに決まっている。
糸車を回す手を止めてため息を噛み潰すと、婆がのんびりと口を開いた。
「御心が乱れておりますなあ、媛様」
淀みなく糸を引きながら、皺に埋もれた瞳が私の手元を射抜く。
「仕方ありますまい。姉君がたいそう気がかりでいらっしゃるのだから」
……婆が見て見ぬふりをしてくれているのだと理解したのはすぐのことだ。
杣の宮に囚われながら七洲の端から端まで見晴るかす眼を持つ巫女が、養い子が毎朝こっそり森の外へ抜けだしていることに気づかぬはずがない。
二年間、婆は咎めも諫めもせず私の好きなようにさせてくれた。
だが、いずれ糸の切れ目――片割れとともに紡いだ感傷を断ち切らねばならない日を宣告されることを、私は知っていた。
「……明星は、大切な『姉様』だから」
紡ぎかけの糸に視線を落とし、苦い胸中を吐露する。
「幸せになってほしいの。私では幸せにしてあげられないから」
婆のように、はっきり見えているわけではない。
明星を想えば想うほど感じるのだ。固く縒り合わさっていたはずの私たちは運命の手によって解きほぐされ、まったき一本の糸に戻ることはできないのだと。
流れた時間のぶんだけ明星は遠ざかり、いつか決定的な別れがやってくる。二度と交わらぬ糸の先は、暁闇よりも暗い。
「私にできるのは、この宮で糸を引いて陰りに潜むものを視るだけ。明星のそばにいて、あの子を守ってあげることもできない」
私の片割れ、私の愛子。
同じ日、同じ父母から生まれたのに、私たちが置かれた天は違っていた。
暁天に昇っていく明星を、私は地の底から見送るしかないのだ。杣の宮という牢獄から解き放たれない限り。
「ねえ婆。どうして大皇は私を生かしたのかしら」
糸車の音がカランと止まる。
婆の表情は凪いだ水面を思わせた。皮膚がたるみ、皺が波打つ小さな顔は、どこか人ではないもののように見えた。
「視界に入れることを厭うほど疎んじているのなら、死産なり病死なりと偽って幼いうちに殺してしまえばよかったのに。わざわざ幽閉して飼い殺しにする必要がどこにあるの?」
口にしてしまえば、胸の裡に巣食う真っ黒な感情が噴きだした。
明星への想いと表裏一体の、
大皇を頂点とする完全な封建社会において、二十一世紀の平和な民主主義国家で生まれ育った『私』の人間性には異質で、異端で、無力だった。
そう、無力! 圧倒的に無力!
目が眩むような絶望に溺れ、もがきながら沈んでいく。
――どうしてこんなに苦しいの?
婆ばパチリと瞬き、いつもどおりの気の抜けた笑みを浮かべた。
「はてさて。お聡い媛様ならば、『和多の
「……私を産んで亡くなった母上だわ」
「然様にごぜえます。大皇が白珠媛をお召しになったときの騒ぎといったら、七洲の地がひっくり返った有り様でした。和多の氏長の怒りは凄まじく……白珠媛自ら大皇の暴挙をお許しになるよう訴えられ、ようよう輿入れを承諾したのです」
私は「え」と声を洩らした。
拐かされた母自身が和多氏を説き伏せた――とは初耳だ。
真珠のごとき白皙の佳人であったという母。慕わしさよりも苦々しさを覚えてしまう、朧げな存在。
「大皇と白珠媛は、それはそれは仲睦まじくいらっしゃいました。特に白珠媛は、御子がお生まれになる日を心待ちにしておいでじゃった。……命に替えても惜しまぬほどに」
糸車がゆうるりと滑る。
婆の手元から伸びる糸と意識が接続される。未知のイメージが内側から広がり、感覚のすべてが塗り潰された。
濃い乳の香り。白い手首を飾る翡翠の玉環。
半身とぴったり身を寄せ合い、温かな薄明かりの中でまどろんでいた。水のゆりかごを揺らす、張りのある女性の歌声。
――吾子や、吾子や
――早く
欠けたものなどひとつもない、満たされた幸福。狂おしい感情に胸を掻きむしりたくなり、私は悲鳴を上げた。
「やめて! 私の中に入ってこないで!」
紡いでいた糸がブツリと切れた。
全霊の拒絶に、意識の結び目が引きちぎれる。婆はわずかに目を瞠った。
私は道具を放り投げて立ち上がった。
瘧にかかったように体が震えた。両手を握って歯を食いしばり、育て親を睨めつける。
「……母上の願いだから、大皇は私を殺さず生かしたの? だから母上に感謝しろと?」
「媛様――」
「ええ、そうね。私の母上はとてもおやさしく、慈悲深い方だったのでしょうね」
息を吸いこみ、私は声を張り上げた。
「だからなんだというの!? 母上は死んだわ、私を産んだせいで! 母上が死んだから、私も明星も苦しんでいる。私は母親殺しの汚名を着せられ、明星は父親から母親の身代わりを強いられている。母上の亡霊に取り憑かれた大皇によって!」
「媛様!」
婆の口調が一変した。
反射的に身が竦む。本気で怒っているときの声だ。
普段とは比べものにならないほど、怒った婆は怖い。錐のような視線が突き刺さり、喉が鳴った。
「そのような、死者を貶める呪詛を吐いてはなりませぬ。悪しき言霊は悪しきものを呼びこむ――そうお教えしたはずじゃ」
呪詛――そう、私の言葉は呪詛だ。
どれほど物分かりのいいふりをしても、自分を取り巻く環境を恨めしく思う心が呪詛を垂れ流している。
陰りは新たな陰りを生む。だからこそ異能を持つ者は感情のまま他人に害を及ぼさないよう、己を律しなければいけない。
「……忘れたわ、そんなこと」
私は身をねじ切られるような心地で呟いた。
床に打ち捨てられた糸が千々に乱れて波打っている。枯れ枝のような婆の指が無惨に断ち切れた一本をそっと摘まんだ。
婆はしょぼしょぼとした目で糸を見つめ、悲しげに息を吹きかけた。
糸は一瞬で真っ黒な翅の蝶――いや、蛾だ――に姿を変えると、ふよふよと覚束ない飛び方でこちらへやってきた。
とっさに袖で打ち払うと、蛾はぼろぼろと煤になって崩れ落ちた。
「ゆめゆめお忘れなされるな」
点々と袖に付着した煤の痕に、婆は重々しく唸った。
「なんのお役目も与えられずに天から降ろされた命などありませぬ。七洲の大皇と白珠媛の御子としてお生まれになったあなた様にもまた、今生で果たすべきお役目があるのです」
私はくちびるを噛みしめた。
――明星に会いたかった。
沓も履かず裸足で宮を飛び出した。
婆は引き留めなかった。私は禁を犯すほど蛮勇な子どもではないと、育て親はよくよく理解していた。
薄暗い森の中をめちゃくちゃに走った。袖や裳裾が小枝に引っかかって破けてもかまわず、ひたすら走った。
息が上がるころ、森のほとりまでたどり着いた。木立の切れ間に殿舎の屋根が見える。
私は肩を上下させながら、暗がりの内側で立ち竦んだ。
森のほとりに接する殿舎は使われておらず、普段は見回りの衛士しかいない。
逢瀬のたびに明星と語らった殿舎の縁には、甲冑を身に帯びた衛士が立っていた。
上背のある、年若い青年だ。
金属製の短甲に負けず劣らず、浅黒い肌が鞣し革のように輝いている。真赫と同じ渡来民の混血なのだろうか。
冑の陰に隠れて目元ははっきりとしないが、ぐいと引き結ばれた口に意思の強さを感じる。注意深く周囲を窺っている様子だ。
一陣の風が吹いた。
かぎ裂きだらけの袖と裳裾が棚引く。
思いがけない強さに慌てて髪を押さえるが、りんどうの花が風に拐われてしまった。
「あっ!」
光の中に舞い上がった青紫色の花は、籠手に覆われた青年の手に捕らえられた。
喉が細く鳴った。
りんどうの花を手にした衛士がまっすぐ私を見つめていた。鏃が撃ちこまれたような視線に胃の腑が竦み上がる。
目が合った。
瞳の色など判別できないのに、衛士が下瞼を押し上げたのがわかった。引き結ばれていた口唇がほどけ、何かを呟いたのも。
衛士が階に脚をかけた。
私は弾かれたように踵を返して駆けだした。
森の影が激しくざわめく。陰りに潜むものたちが浮き足立って大気を揺らす。
何度も何度も振り返り、衛士が追いかけてこないことを確認した私は、へなへなと腰を抜かした。
心臓が耳に痛いほど跳ね回っている。
噴きだした汗が目に入りそうになり、忙しなく瞬いた。
――あれはおそろしいものだ。
歯の根が噛み合わぬほどの震えとともに抱いた確信は、やがて予感に変わる。
――私は必ず再会する。
晴天から打ち下ろされた雷霆のような、あの人物と。
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