そまのみやのひめみこ〈2〉

 かつて私は夕星ではなく違う名前で呼ばれていた。

 七洲を治める大皇の娘として生まれる前――別の世界で別の人間として暮らしていた記憶がある。

 そこで日本という国で、東京という都市で、私は平凡な女子高生として生きていた。

 サラリーマンの父とデイサービスの介護士として働いていた母。中学生の弟は生意気だったが嫌いではなかった。

 友達がいた。部活は茶道部。人数合わせの幽霊部員だ。彼氏はいなかった。気になっているクラスメイトの男の子が――いたような、気がする。

 得意科目は……なんだっただろうか。小学生のころは『まんがでわかる! 世界の歴史』シリーズをよく読んでいた覚えがある。

 ああ、そうだ。日本史や世界史が好きだった。

 文字を読むのは苦手だが、まんがは好きだった。スマホの読み放題アプリで、昔の――母が知っているような古い少女まんが――を読み漁っていた。

 篠原千恵の『天は赤い河のほとり』に、ひかわきょうこの『彼方から』。大長編の『王家の紋章』は一回挫折して、いつかトライしてみようと考えていて……

 私は、なんという名前だったのか。

 憶えているのは全身を殴りつけられるような痛み。衝撃と言ったほうがいいかもしれない。

 ブツッと意識が途切れ――気がついたら四歳の夕星としてこの世界にいた。

 通学途中、乗っていた路線バスがトラックに突っこまれたのだ。車体がひしゃげて、砕け散ったガラス片がきらきらと光っていた。即死だったらいいな、と思う。

 享年十七歳。こちらでの年齢も加算すると三十二歳。立派なおばさんだ。

 覚醒するまでの四年を引いても二十八歳。もうすぐ二十九歳。どうあがいてもアラサーである。

 前世の記憶はどんどん曖昧になっていくのに、精神面では老ける一方だ。七洲では女の子は十四、五歳で結婚するのが当たり前なので、明星が大人っぽいと褒めるわけである。

 ちなみに大皇は四十代手前。おっさんがいつまでも女々しく娘に甘えんなよ、しかも一国の君主だろ! と腹立たしくもなる。

 前世の父だって娘から見ると洋服のセンスのない中年だったが、もっと頼り甲斐があったし父親の責任を果たしていたぞ……外見に関して大皇のほうに軍配を上げてしまうのは許してほしい。

 芽生えかけていた自我と記憶に折り合いをつけ、俗にいう毒親のもとに生まれてしまったがために辛酸を舐めている境遇を理解したのは七歳。このころ前世の名前を忘れ……夕星という人間に生まれ変わった現実を受け容れるしかなかった。

 だって、納得しなければ生きていけないではないか。

 育ち盛りの子どもはとにかく腹が減るのだ。すぐに眠くなるし、覚えなければならないことは山のようにあった。

 不慮の死を遂げた末、理由はわからないがせっかく生まれ直したのだ。

 私は生きたかった。

 だから夕星という名前で生きることを選んだ。

 まず生まれた場所。七洲と呼ばれる、日本に似た気候の島国。

 春夏秋冬があり、主食は米。これはとても助かった。お米おいしい。

 ただし文明レベルは二十一世紀の日本より遥かに原始的だ。水は井戸や川から汲んでこなければいけないし、日が沈めば灯火だけが頼りだ。

 何より、人間がころりと死ぬ。

 不謹慎な言い方だが、本当にあっさり死ぬ。特に身分の低い者ほど簡単に死ぬ。

 怪我や病気になっても、そもそも治療を受けられるのは高貴な身分の人間に限られているからだ。治療といってもせいぜい薬を煎じて飲ませたり、按摩や鍼灸のような施術を行ったりする程度――あとは呪術に縋るしかない。

 こちらの世界には『おばけ』がいる。

 陰りに潜むもの、人間にとってよくないものを退ける方法――あるいはの力を借りて他人を害する方法――が存在する。見えないもの、不思議なものたちと付き合うための方法が呪術だ。

 私のような陰視は、一般的な集落ならひとりやふたりはいるものだそうだ。だが呪術を操る呪師じゅしは、きちんと修練を積まなければなれるものではない。

 私を育てた婆は、この呪師だった。

 といっても呪術の手ほどきは受けていない。「すっかり忘れてしまい申した」と言って教えるつもりはないらしく、陰視としての心がけは説いてくれた。

 陰りに潜むものを侮ってはならぬ。さりとて侮られてもならぬ――塩をぶちまけて怒鳴りつけたと言ったら、「ほんに気骨がある御子じゃあ」と歯の揃わぬ口を開けて笑っていた。

 のらりくらりとした婆との暮らしにほかの人間がまじったのは、夕星の名を受け容れたころだ。

 足腰が弱くなってきた婆を見兼ねて、台盤所で働いている真赫や、彼女と同郷の宮人たちが手伝いにきてくれるようになったのだ。真赫たちは私の目を見ても大袈裟に怖がったりせず、婆と同じく「媛様」と朗らかに接してくれた。

 ……父親から忌み嫌われ、宮の外に出れば腫れ物のようにつつかれて。重苦しい境遇にめげずにいられたのは、のんきな婆や真赫たちのおかげかもしれない。

 多少ひねくれたところは否めないけれど。大皇が一日に一回は調度の角に足の小指をぶつけて悶絶するよう心の中で呪うぐらいは許されるはずだ。

 明星に出会ったのは二年前。

 同じ日に生まれた姉妹なのだから出会ったというのはおかしいかもしれない。双子の姉の存在は知っていたが、いちども姿を見たことはなかったのだ。

 夏の終わりの黄昏だった。

 夕闇に呑みこまれようとする森の中から叫び声が聞こえてきたのだ。何事かと駆けつけると、黒い影のような犬に襲われている女の子を見つけた。

 ひと目で悪しきものだとわかった。私は懐に忍ばせていた塩をありったけ犬に投げつけ、「いますぐ消えろ! さもないと次は御神酒をぶっかけるぞ!」と叫んだ。

 全身に塩を浴びたら犬はギャンと悲鳴を上げ、跳ねるように暗がりへ消えた。

 私は呆然とへたりこんでいる女の子に駆け寄り、息を呑んだ。

 美しい衣を無惨に汚した女の子は、私と同じ顔をしていた。きれいな紫色の瞳が涙を溜めて私を凝視していた。

 墨色の髪の両側をひと房ずつ赤い結い紐で束ねた女の子は、震える手を伸ばしてぎゅっと私の袖を掴んだ。

「あなたが……夕星?」

 鈴を振るようとはこんな声だろうかと思った。ぎくしゃくと頷くと、女の子――明星は顔をくしゃくしゃにして泣きだした。

 のちに聞いたことだが、陰視ではない明星はこのときはじめて陰りに潜むものに遭遇したらしい。

 婆によれば、大皇が暮らす宮城は破邪の術によって堅固に守られており、本来悪しきものが立ち入る隙などないのだそうだ。だが顧みる者もいない杣の宮はいつしか術の守りを失い、闇深い森に数多の陰りが生まれてしまった。

 身ひとつで森に迷いこんだ女の子を悪しきものが放っておくはずもない。かれらとの付き合い方を婆から教授された私ならいざ知らず、煌らかな宮中で育った明星にとってみればどれほどおそろしい出来事だったか。

「あなたに会いたくて、会いたくて、逃げてきたの」

 私の手を握りしめ、ぽろぽろと涙を溢れさせながら明星は打ち明けた。

 狂気じみていく大皇の愛情に恐怖を抱き、少しずつ女になっていく自分の成長が厭わしいこと。

 大皇の怒りを買うことをおそれ、周囲はだれも助けてくれないこと。

 皇子を産んだ継母から激しく憎まれ、臥所に蛇を投げこまれたり宮の床や柱に獣の糞を撒き散らされたり嫌がらせを受けていること。

 苦しくて苦しくて、だれかに助けてほしくて――杣の宮に幽閉されている片割れの存在に縋りついたこと。

 拒絶などできるはずもなかった。

 胸の裡で長く凍えていた何かがゆっくりとほどけていった。

 どんなにやさしいひとたちに助けられ、支えられていても、私は孤独だった。

 人生を失い、故郷を失い、名前を失い、実の父親から母親殺しと忌み嫌われる娘として――夕星として生きるしかなかった。『私』はここにいるのに、夕星にしかなれなかった。

 憎しみでも憐れみでもなく、ただだだ夕星を――私を求めてくれたことが嬉しかったのだ。

 明星に出会って、『私』はようやく夕星になれた。私は夕星、明星の片割れなのだと心から思えたのだ。

「私も……あなたに会いたかったわ。明星、私の姉様」

 滑らかな白い手をおずおずと握り返すと、明星はハッと息を呑んだ。

 潤んだ瞳は雨に濡れるまつむしそうの花を思わせた。そこに光が灯ることを願い、私はほほ笑んだ。

「会いにきてくれてありがとう」

 明星は私の膝に崩れ落ちた。

 幼子のように咽び泣く姉の背を撫でさすりながら、私は満たされた喜びを噛みしめた。

 明くる日から私たちに秘密ができた。

 夜明け前のひととき、森のほとりでのささやかな逢瀬。側仕えの目を盗み、ともに過ごせる時間はほんのわずか。それでも二年の間、私たちは一日たりとも欠かさず約束を守り続けた。

 ――明日の朝も、この場所で。

 明星に会える。その希望があるからこそ、昏い森に閉ざされた宮での暮らしにも耐えられた。

 森のむこう――外の世界へ出たいという思いは常にあった。薄暗い陰りではなく、光を浴びて生きたいという願いが。

 だが、大皇に逆らえば今度こそ殺されるかもしれない。森の中に留まっているからこそ私の命は保証されているのだ。

 明星との逢瀬とて危うい綱渡りだとわかっている。いつまでも見逃してもらえるわけではないことも。

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