君はみなぎわの光

冬野 暉

第一部 宮中炎上編

一 杣の宮の皇女

そまのみやのひめみこ〈1〉

 東のそらが薄ら明るくなるころ、私は臥所から這いだす。

 側仕えの婆は、年寄りには珍しく寝穢いたちだ。台盤所の鶏が甲高く鳴いてもいびきを立てている。毎朝主人わたしに起こされるというのは、仮にも侍女としていかがなものか。しかし婆の枕が高いおかげで、私も安心して宮を抜けだすことができるのだからとやかく言えない。

 腰まである墨色の髪は邪魔にならないよううなじで束ねて輪にして括り、下級の宮女が着る草色の袍と苅安色の裳を身につける。最後に頭から白い被衣をかぶれば出来上がりだ。

 鏡台の前に立ち、顔――特に目元――が見えないか確認する。私はよしと頷くと、控えの間でぐっすり寝入っている婆の横を抜き足差し足で通り過ぎた。

 私と婆がふたりで暮らす宮は、宮人たちから『杣の宮』と嘲笑まじりに皮肉られるにふさわしいぼろ家だ。何代か前の大皇おおきみみめがお住まいだったが、その方が亡くなられてからは朽ちるに任せていたらしい。

 取り柄といえば広さぐらいで、雨漏りはするし、床板はところどころ腐って抜け落ちているし、野分が吹き荒れようものなら蔀戸も簾も飛んでいって屋敷じゅうがめちゃくちゃになる。それでもなんとか住居の体裁を保っていられるのは、心ある宮人があれこれと手を貸してくれるからだ。

 そのうちのひとり、台盤所で働く飯炊き女の真赫ますほが朝食を運んできてくれるまでに戻らなければならない。床下に隠しておいた沓を履き、私は朝靄に煙る森を歩きだした。

 杣の宮の蔑称のもうひとつの由来が、周囲を覆う鬱蒼とした木立だ。

 背の高い常緑樹が並び立つ一帯は昼でも陽の光が遠く、森と呼ぶべき闇を孕んでいる。夜明け前の今時分は青白い靄が波打つように揺蕩い、切れ切れに現れる樹木の影はぞくりとするほど黒い。

 夜露をたっぷりと吸いこんだ落ち葉が積もった地面に足を取られないよう、ざくざくと進んでいく。被衣を透かしても木立のむこうで揺らめく無数の影は確かに見えた。

 ひたひたと、落ち葉の上を這いずって追いかけてくるものの湿った息遣い。

 生きた人ではないもの、陽の当たらない場所――陰りに潜むもの。かれらを形容する名称は定かではない。

 昔堅気の婆は「あれ」や「それ」などとはっきり口にすることを憚るが、真赫などは、だれぞの邸宅に物の怪が出たとか都のどこそこに妖魅が出たとか、宮城の外の噂をかしましく話してくれる。すると宮の物陰のあちこちて何かがうごめくのだが、気のよい飯炊き女を怖がらせるのは忍びないので教えたことはない。

 宮の周辺をうろついている程度の小物であれば、気に留めなければちょっかいをかけてくることもない。

 子どものころ、髪を引っ張られたり足を捕まれて転ばされたり耳元でぼそぼそと話し続けられたりと、とにかく鬱陶しくてたまらず塩をぶちまけて「いい加減にしろ!」と一喝したことがある。以来、おずおずと窺うような視線は感じるものの、悪さをしでかす輩はのいまのところいない。

 塩をまいたのは『昔』の記憶に基づくとっさの行動だったが、でも効果は抜群だった。あれから常に革袋に詰めた塩を持ち歩くようにしている。

 靄を掻き分けてどんどん歩いていくと、やがて木立の切れ間が見えてきた。視界が開けてあたりがぼうと明るくなる。

 森のほとりは宮城の西側に接している。水色の静寂に横たわる殿舍を見上げると、釣り灯籠の残り火に照らされた縁に人影が佇んでいた。

 ほっそりとした少女だ。艶やかな墨色の髪に飾られたりんどうの花。白い袍に涼しげな萌黄色の背子を重ね、鮮やかな刺繍があしらわれた朱色の帯を締めている。

 肩にかけた領巾ひれが揺れて、月明かりに光る露のようにしららかな面がこちらを向いた。

夕星ゆうずつ!」

 同じ造作をしているはずなのに、鏡の中の自分とは似ても似つかぬ可憐な笑顔。裳裾を絡げて階を下りてきた少女――双子の姉である明星あかぼしに歩み寄り、私は伸ばされた両手に応えた。

「会いたかったわ、わたくしの愛子いとこ

 指を絡めて額を寄せてくる片割れに、くすぐったく苦笑を返す。

「姉様はいつも大袈裟ね」

「だって、あなたとこうしていっしょにいられるのは暁降ちのいまだけなのよ?」

 桃の花のようなくちびるを尖らせ、明星は不服を訴えた。

 都いちの佳人として知られた母の美しさをそっくり受け継いだといわれる姉――私が私自身を美しいと言い切るのは精神的に無理だ――は、ふっさりと生え揃った睫毛の奥に瑞々しい紫色の瞳を湛えている。夜明けを映す水面を思わせる、深く引きこまれるだ。

 瓜をふたつ並べたかのように相似形の私たちだが、瞳の色だけは違う。

 私の瞳は、明星の言葉で表せば「夕映えに輝き渡る秋の稲田」、当代の大皇――父の言葉で表せば「禍々しき鵺の眼」であるらしい。夜闇で爛々と燃える朱金あかがね色の両目は、確かに化生じみていると思う。

 宮女は私の目は見た者を呪い殺すと噂している。お産で亡くなった母は、ふたりめの赤子の目を見てしまったから魂を吸い取られたのだと。

 私の前で視線を逸らしたり顔を隠したりしないのは、明星と仕えてくれている宮人ぐらいのものだ。大皇の御前に出るですから、足元まですっぽり隠れるおすいを被るよう厳命されている。

 莫迦莫迦しい。私が陰視かげみ――陰りに潜むものを視る異能を持つ人間――にしか過ぎないことは知っているくせに。

 明星を掌中の珠と慈しむ大皇が一方で私を疎んじるのは、私のせいで最愛の妃が亡くなったからだ。明け方に生まれた姉よりも遅れ、ようやく私が産声を上げた夕方には、母は白い花のごときかんばせを苦悶に染めて絶命していたという。

 母の血にまみれて泣く私の隣から明星を抱き上げた大皇は、「それは妖霊星ようれぼしだ。死を招く凶星まがつぼしの落とし子だ」と忌々しげに吐き捨てたそうだ。ゆえに私は夕星――滅びと災厄の象徴の名で呼ばれ、片割れには吉兆を告げる明星の名が与えられた。

 私は乳母というには薹が立ちすぎている老齢の婢とともに、森の奥の古宮に押しこめられた。それから十五年、大皇の許しがなければ森の外へ出ることも難しい身の上だ。

「仕方ないわ。私といっしょにいたら、あなたまで母上のように呪い殺されてしまうと大皇はお考えなのよ」

 肩を竦めてみせると、明星は悔しそうに眉根を寄せた。

「そんなの、夕星のせいではないわ。産褥で命を落とすことは珍しくないと前に医女が申していたもの」

「そうね。……きっと大皇は、明星のように理解することが難しいのよ」

 大皇は母のことをたいそう寵愛していたそうだ。身分の低い母を正妃に迎え、彼女以外の女性を拒むほどに。

 母の死後、皇太子ひつぎのみこを望む臣下の声にやむを得ず新しい妃を娶り、皇子みこをひとり儲けている。私は直に会ったことはないが、明星は年の離れた異母弟をかわいがっているようだ。

神隼かむはやもね、夕星と話がしてみたいと言っていたの」

 私はぎょっとした。神隼は異母弟の名前だ。

 明星は力をこめて訴えた。

「あなたの噂を耳にして、わたくしに訊いてきたのよ。『杣の宮の姉上は皆が言うようにおそろしい方なのですか』って。もちろん違うと言ったわ。みんな誤解しているだけ。夕星ほど穏やかで、心が安らぐひとはいないと」

「買いかぶりだわ」

「本当のことよ。だって、あなたに出会えてようやくわたくしは自由に息を吸えるようになったのよ?」

 私の手を固く握り、明星は俯いた。

「……ねえ夕星。わたくし、ときどきお父様が怖いの」

 喉の奥から苦いものがこみ上げる。私は寄り添うように片割れの肩を抱いた。

 亡き妃に対する大皇の恋慕は、日に日に母の面影を濃くする明星への溺愛にすり替わった。真赭によれば、適齢期を迎えた皇女ひめみこへの縁談をことごとく握り潰しているらしい。

「お父様はとてもおやさしいわ。でもね、わたくしを見る眸が……たまらなくおそろしいときがあるの。お父様の前から逃げだしてしまいたくなるのよ」

「大丈夫よ、明星」

 私は意識して明るい声をだした。

「万にひとつ大皇がおかしなことを考えていたとしても、母上の一族――和多わた氏が黙っていないわ。お祖父様……和多の氏長うじのおさは、母上を無理やり奪い取ったことをひどく恨んでいるのでしょう? 更に愛娘の忘れ形見を苦しめるようなら、明日には七洲しちしまの湊という湊から舟が消えてしまうに違いないわ」

 母が生まれた和多氏は、かつて戦火を逃れて海を渡ってきた人びとの末裔だ。

 和多氏は優れた造船と航海の技術を持ち、七洲を統べる大皇に臣従を誓うかわりに庇護を求めた。それから二百年近く、和多氏は異国との交易に大いに貢献し、和多水軍と称される一大勢力にまでのし上がった。

 島国である七洲にとって海を制する和多氏はなくてはならない存在だ。すでに祖父との間に遺恨を抱えている大皇が同じ轍を踏むような真似はしないだろう。

「年賀の宴で会うたび、面白いお話をたくさん聞かせてくださったり、珍しい異国の品を贈ってくださったりするのだと話していたでしょう? 何かあったら、お祖父様に文を書くのよ。そうすればすぐに助けてくださるわ」

 異母弟同様、母方の祖父に会ったことはないが、明星には愛情を持って接しているようだ。

 ただ、私のことをどう思っているのかは謎だ――明星の前でも私の存在について言及したことはなく、そもそも会える機会が大皇が臨席している場に限られているので、明星も話題にしづらいらしい。

「国じゅうの湊から舟が消えたら大変だわ」

 明星は弱々しい笑みを浮かべた。私の肩に頭を乗せ、ため息をつくように呟く。

「夕星といっしょに和多のさとへ行けたらどんなにいいかしら」

 下向いた紫色の瞳は深く翳り、言の葉だけが頼りなく宙を漂っている。

「皇女であるわたくしは神隼のように皇太子にはなれない。もうすぐ十六よ。どこかの氏族へ降嫁するべきなのに、お父様はお許しにならない。……ずっとそばにいておくれと、そうおっしゃるのよ」

「いずれあなたにふさわしい縁談が整うわ。大皇だって、いつまでも駄々を捏ねてはいられないわよ」

「まあ、夕星ったら」明星のかんばせにようやく光が射した。

 片割れはおかしそうに噴きだすと、袖の下でころころと笑った。

「お父様をそんな風に言えるのはあなたぐらいだわ」

「私からしてみれば駄々っ子も同然よ。責任ある地位に就いている、いい年をした殿方がみっともない」

 正直な感想に、明星は我慢できないとばかりに肩を震わせている。

 私は彼女の手に手を重ねた。

「弱気になって悲観してはだめよ、姉様。いやなことをされそうになったら大皇だろうとだれだろうと、思いきり叫んで顔を引っ掻いて股関を蹴り上げてやりなさい。膝を一発ぶちこんでやれば、たいていの男は再起不能に陥るわ」

「ぶっ……」

 明星の頬がサッと赤くなった。恥ずかしそうに視線を泳がせる姉に、私は念を押した。

「護身用に先の尖った笄を髪に挿しているといいわ。遠慮なく手を刺してやれば、逃げる隙ができるから」

「夕星……ずいぶん詳しいのね?」

 私は咳払いでごまかした。「ええと、飯炊き女の真赫という者がね、世辞に通じていていろいろと教えてくれるのよ」

 実際はで聞きかじった知識なのだが――痴漢を撃退するには安全ピンが効果的だとか。

 安全ピンはないが、装身具である笄なら身につけていてもあやしまれずに済むだろう。

 明星は目を丸くして感心しきっている。気位の高い宮女に取り巻かれ、安易に下位の者と口を利こうものならこっぴどく叱責されるという姉にとって、台盤所の飯炊き女とは未知の存在に等しいのかもしれない。

 ……不憫な子だ。

 私も不遇だが、明星とて恵まれた環境にあるとは言えない。互いに憐れみ、傷を舐め合っている関係だとつくづく思う。

 それでも、幸せになってほしいのだ。

 この世界で得た、ひとりきりの私の『家族』だから。

「ああ、夜が明けるわ」

 遠くから朝を告げる鶏の声が聞こえる。

 名残惜しさをこらえ、私は片割れの手を放した。

「そろそろ戻らなければ」

「ねえ夕星……明日の朝、神隼を連れてきてもいい?」

 おずおずと尋ねる明星に、私は首を横に振った。

「私は皇子に会わないほうがいいわ」

「でも――」

「明星の言うとおり、とてもいい子なのでしょうね。だからこそ、いらぬ煙の火種は生まないほうがいい」

 明星は口をつぐんだ。

 聡明な姉のことだ、異母弟と私を引き合わせるリスクは承知しているだろう。

 二年間密かに続けてきた夜明け前の逢瀬とて――そろそろ潮時であることも。

「……わかったわ」

 明星はかすかに頷き、おもむろに黒髪に飾っていたりんどうを引き抜いた。

「これを」両手で差しだしながら、縋るように見つめてくる。

「忘れないで。わたくしは、いつもあなたを想っているわ」

「……私もよ」

 そっとりんどうを受け取り、私は胸を締めつけられる思いで微笑んだ。

「あなたほど愛しいひとはいないわ、姉様」

 また明日――そう言い交わし、私たちは別れた。

 灯りの消えた縁の奥へ消えていく明星を見送り、私は急いで森の奥へ駆けこんだ。

 両手で裾を絡げ、徐々に明るくなっていく森を一心に走る。まとわりつく陰りの気配にかまっている暇などない。

 慌ただしく宮にたどり着くと、まだ真赫は来ていないようだった。

 沓を床下に隠し、まだいびきを立てている婆の横を通って臥所に滑りこむ。

 脱ぎ散らかした宮女の装束を掻き集めて衣装櫃の底に押しこむと同時に、厨のほうから物音が聞こえてきた。

 いつものように僅差で遅れてやってきた真赭が朝食の支度をはじめたようだ。地味な浅葱色の袍に同系色の裳を重ねると、ふと鏡台に目が留まった。

 鏡を覗きこみ、そっけない髪型をまじまじと凝視する。いちど髪を解き、上のほうだけ掬って結い直す――いわゆるハーフアップだ。

 そこへりんどうの花を挿すと、なんとなしに気分が明るくなった。

 満足し、控えの間で熟睡している婆に声をかける。「婆、そろそろ起きてちょうだい」

「ふがっ」皺に埋もれた目をしょぼしょぼさせて婆は起き上がった。見事なまでの白髪が綿毛のように膨らんでいる。

 歯の抜けた口をもごもご動かし、「これはこれは媛様ひいさま、おはようごぜえます」と夜着のまま一礼した。

「おはよう。さ、早く顔を洗って髪を梳かしなさいな。真赫が朝食を作ってくれているから」

「おお、ありがたいことじゃ。今日のさいはなんでごぜえましょうなあ」

 いそいそと身繕いをはじめる婆に呆れつつ、厨に向かう。

「おはよう、真赫」

「こりゃまあ媛様。おはようございます」

 空腹を誘う匂いに満ちた厨には、下級宮女の装束を着たふくよかな女性が朝食の仕上げに取りかかっていた。

 張りのある赤銅色の肌はつやつやとして、色素の抜けた縮れ毛をひっつめている。ひと目で異国の血を引いているとわかる容貌だ。

 肌の色から真赫と呼ばれている飯炊き女は、白い歯を見せて笑った。

「きれいな花ですねぇ。媛様によくお似合いだあ」

「うふふ、ありがとう」

 袖をまくって手伝いを申し出ると、真赭は遠慮なく「そこの鍋から汁を椀によそってください」と言ってくれた。

 身支度を終えた婆が出てくるころには、ささやかだが温かい朝食の膳が並んでいる。

 こうして、杣の宮の一日がはじまった。

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