いさなのこどく〈3〉

 森に閉ざされた古宮の夜は長い。

 蔀戸をぴっちり閉めきっていても吹き抜ける隙間風がすすり泣き、燭火を不安定に震わせる。闇のささめきは冷たい波濤となって打ち寄せ、くすくすと笑いながら手招きしているかのようだ。

 幼いころは衾を頭から被り、耳を塞いでじっと聞こえないふりをしていた。あまりに強い『声』で呼ばれるときには、魔除けの護符を妻戸に貼った塗籠の中でひと晩過ごすこともあった。

 塗籠の中の息苦しい暗闇を思いだすような夜だ。ぐいぐいと後ろ髪を手繰り寄せようとする力を感じ、私は明るい灯火の近くに居座った。

 夕食のあとは、繕い物などの細々とした手仕事を済ませてから床に就くのが常だ。だが、今夜は水沙比古から頼まれた髪紐に取りかかるつもりだった。

 まずは髪紐に使う糸を選ぼうと並べてみたのだが、これがなかなか決まらない。

 手元にある染め糸には限りがあり、しっくり来る色が見当たらない。……試しに染めていない絹糸を出してみると、いちばんよく思えてしまった。

 絹糸本来のまろやかな真珠光沢は美しいが、これだけでは物足りない。

 唸りながら悩んでいると、控えの間で休んでいるはずの婆がひょこひょことやってきた。

「媛様、よろしゅうごぜぇますか」

「どうしたの?」

 このごろ、すっかり痛みを訴えるようになった膝で億劫そうにいざって近づいてきた婆は、懐から小さな布包みを取り出した。

「どうぞ、これをお使いなされ」

 皺に埋もれた瞳を細め、婆はうっすらほほ笑んだ。

 戸惑う私の手をやさしく取り、布包みを持たせる。見た目よりも少し重い。

 視線に促されて中身を開くと、翠緑の輝きが現れた。

 思わず息を呑む。

 布に包まれていたのは、皇だけが身に帯びることを許される天の糸の束と、そっくりな色合いをした手環だった。

 翡翠をくりぬいて作られた腕輪には、細かい装飾が彫りこまれていた。

 幾何学的な独特の紋様からは呪力を感じる。舟乗りの手環と同じく、これもまたまじないを施した護符なのだ。

 ――不思議と見覚えのある手環だった。

「これは……」

「ずっと婆めがお預かりしておりました。白珠媛の形見の品にごぜぇます」

「母上の?」

 婆は頷くと、衣の袖でそっと目元を押さえた。

「この天の糸は、産まれてくる御子のためにと白珠媛御自ら紡がれたもの。白珠媛がお隠れになられた際、ひと束は一の媛様にと大皇に献上いたしました。こちらは、二の媛様のための天の糸にごぜぇます」

 私はおそるおそる天の糸に手を伸ばした。

 滑らかな翠緑の絹糸は人肌の温もりを帯びていた。柔い女人のに触れたような。胸の奥がツキンと痛んだ。

「では、この手環は……」

「こちらは、白珠媛がお隠れになるまで身につけておられたものです。白珠媛の母君から譲り受けたのだと」

「私の……お祖母様?」

 翡翠の手環は硬く、ひやりとしていた。

 手に取った瞬間、ざぶんと押し寄せてきた波に頭から呑みこまれた。

 銀のあぶくが輝きながら天上へと昇っていく。透きとおるような翠玉エメラルド色の水の上で、ゆらゆらと光の網が揺蕩っている。

 私は海中を漂っていた。白い砂地にいくつも陽射しの柱が立ち、小さな魚の群れが鱗をきらめかせて泳いでいる。

 砂地の先には碧い珊瑚の森が広がっていた。色鮮やかな宝玉のような魚たちが舞い踊り、遠くにはゆったりと水中を滑る海亀の影が見えた。

  ――なんて美しい光景なのだろう。

 もっと近づきたくて深く潜ろうとした刹那、ぐんと上に引っ張られる感覚があった。

 みるみる海面まで浮上し、大きく息を吸いこんだときには婆の前に戻ってきていた。

「何か視えましたかえ?」

 探るような婆の問いに、私は呼吸を整えながら首肯した。

「南の……夢のように美しい海の底の景色が流れこんできたわ」

「手環の持つ記憶にごぜぇましょう。白珠媛の母君は、南からお渡りになられた妓女だったと聞いております」

 私はまじまじと婆を凝視した。

 育て親は手環を取り上げると、恭しく私の右手に通した。まるで誂えたように、私の手首はぴったりと環の内側に嵌まった。

「強き力を持つ巫女でありながら訳あって国を追われて流離い、たどり着いた和多の郷で氏長に見初められたそうです。白珠媛のご幼少のみぎりにお隠れになられ、いずれ自らのお血筋に巫女の才を持つ御子が生まれたならばこれを渡すよう言い残されたと」

「お祖母様は――伊玖那見の神女でいらしたの?」

 明星から聞かされた母の出自にまつわる噂話を思いだす。私と片割れは、本当に海のむこうの異国の血を引いていたのか。

 婆は静かに頷いた。

「白珠媛の御子を取り上げたのは、この婆めでごぜぇます。息を引き取られる寸前、おふたりめの御子……媛様の御目を確かめられた白珠媛は『この子こそ、母御前の血を継いだ常夜大君ティダゥフージェ愛児いとしごに違いない』とおっしゃられました」

 常夜大君――伊玖那見で信仰される女神の名だ。

 海の彼方にある夜の食す国ネィラエィラを治める精霊の女王。生と死を司る太母神。

 伊玖那見の女王たる大神女は、常夜大君の憑坐なのだという。かの国では女神の神託こそ重んじられ、大神女の占によって政が行われている。

「南では、闇を見通す金の瞳は夜の女神の恩寵のしるしとされているのだとか。白珠媛の母君も、媛様と同じ朱金に輝く御目をお持ちだったそうです」

 母殺しの鵺の眼と蔑まれてきたこの両目は、顔も知らない祖母から受け継いだものだったのか。手環の表面を撫ぜると、染みるよう波動が伝わってきた。

 そこには、やさしい祈りと祝福だけがあった。

「母上は……私を疎んだりしていなかったのね」

 ほろりとこぼれた言葉に、婆は皮膚のたるんだ瞼を伏せた。

「最期まで媛様のことを案じられておりました。女神の恩寵を賜ったために苦難の道を強いられた母君と同じ不幸を味わわぬようにと、願い続けておいででした」

「もしかして……婆に私を託したのは、母上なの?」

 婆はうなだれるように首を縦に振った。

「この婆めは、いちどは大皇によって不吉なるものとして首を刎ねられる定めにこぜぇました。それをお救いくだすったのが白珠媛です。奴婢に落とされた身に天の糸を紡ぐお役目を与えられ、これまでどおり占をせよとお許しくださった……大恩あるお方にごぜぇます」

 胸の裡にすうと冷たい風が吹きこんだ。

 婆が私を育てた理由は母への恩返しだったのだ。そうでなければ、乳飲み子を抱えながら粗末な古宮での暮らしに耐えられるはずもない。

 ささくれた心を拾い上げたのは、婆の口から出た名前だった。

「十六年、心をこめてお育て申し上げました。いつか媛様が護り手を得られるまで、大切に大切に」

「護り手?」

「水沙比古殿ですよ。あの若子は、媛様の剣となり翼となる定めの者。あなた様の許へ天命を運んでくる風の鳥」

 節くれ立った老女の手が手環をつけた右手を包みこむ。婆はくしゃりと笑みを崩し、私の手を撫でさすった。

「あの若子が現れてからというもの、媛様の未来さきを視ることができなくなりました」

「えっ!?」

「力が消えたわけではありませぬ。あなた様が婆の手を離れ、御自ら護り手を選ばれたから。だからこうして、白珠媛の形見をお返し申し上げたのです」

 私は困惑を隠せないまま尋ねた。

「確かに、水沙比古は私の従者になると言ってくれたけれど……私はこれからもずっとこの宮で暮らしていくのよ? 婆だっていっしょでしょう?」

 婆は薄い眉を垂らして笑った。

「ええ、ええ。それもよいでしょう。ますますお美しくなられる媛様のおそばで送る余生ほど得がたきものはございますまい。ですが、天からこぼれた黄昏の星は、一介の糸繰り女には過ぎた宝」

「婆?」

「媛様、夕星媛。これだけはわかります。あなた様には特別なお役目がある。母君が憂えた苦難もまた、避けられぬ。けれども、迷うことはありませぬ。あなた様には心強い護り手がついておられる」

 婆は私の手を押し戴き、かすかに声を震わせた。

「どうか、天地の加護があなた様にありますように。この命が果てる日まで祈りましょう」

 糸車の回る音が聞こえる。

 軋みを上げながら回り続ける運命の輪は、抗いがたい別れの予兆を運んできた。

 私は――片割れだけでなく育て親も失うのか。

 あまりに唐突で残酷な、幼年期の終わりの幕開けだった。

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