第33話
三十四、
東門近くの
「おかしいな。誰もいない」
馬車の周囲を見回して、ジクロが言った。客がいないのはともかく、
「中にいるのかな」
サラは店の裏手に回った。ジクロも後からついてくる。裏庭へ足を踏み入れた途端、
「血の臭いだ」
ジクロが囁いた。
ジクロと目を合わせる。サラは抜刀した。胸がどきどきしてきた。
(
サラたちが邸内に入る前に、若い
「助けて……」
か細い震える声。細い喉のすぐ下には、禍々しい刃が光っている。
「御無沙汰しておりますなーー」
「お前は……」
アクバがそこに立っていた。
*
アクバが
「戻ってきたのか」
ジクロが呻いた。アクバは、にやりと笑った。
「どこへも行ってなんかいませんよ。ずっと城内に潜伏していたんです。ただ、逃げ回るのにも飽きましてね。ちょっとの音にもびくびくしなくてはならない」
「その
「はいはい。すぐお放しますよ。ですがその前に少し、わたしの話にお付き合い願えますかねえ」
その口調が、やけにのんびりしているだけに、いっそう不気味だった。
「話? 話をすることなんかないわ」
「まあ、まあ、そうおっしゃらずに。サラ様にも興味深い話だと思いますよ。なんといっても、お父上にかかわることですから」
その場の空気が、一瞬にして張りつめた。
「父上? そのことなら決着がついているわ。父を殺した赤獅子候は、わたしが
「そしてあなたは見事、仇討ちを果たしたと」
半畳を入れつつ、アクバは続けた。
「ところが……違うんだなあ」
「ちがうーー?」
「
「……」
「あれは自殺です。ヨン様は貴女ごとき敗れるお人ではない」
サラは唇を噛みしめた。悔しいがその指摘には一理ある。
「それにヨン様は、ガイウス様を殺していません。殺せるはずがないんです」
「何ですって……」
何を言っているのだこの男は。あのとき、赤獅子候はサラの問いに確かに答えたはずーー。
「
「
「嘘!」
「わたしが、いまさら死人に義理立てするような人間に見えますか?」
「そんな……」
それでは誰がいったいーー。
「じゃあ、じゃあ……父上を殺したのは……誰だというの?」
「よく考えれば分かることですよ。いいですか、あなたがたの調べでは、ガイウス様は、死のまぎわに『翼』という言葉を残されました。『翼』の秘剣の噂は、わたしも聞いたことがあります。どうやら『翼』が、ガイウス様の死に関わりがあるらしい。では誰が『翼』の遣い手なのか」
「……」
「サラ様たちは、〈
「なーー」
「〈
相手はサラを散々な目に遭わせた男であり、すべては詭弁とまやかしーーそう考えることもできた。しかし、アクバのこの説明には、わだかまっていた霧をいっきに晴れさせる
だとすればーー。
(父上を殺した真犯人が、別にいる?)
「そういうわけで、ヨン様は『翼』の遣い手から外れるのですが、そうなると残る可能性は幾つもない」
興がのってきたのか、アクバは剣をひらひらさせた。そのたびに、
「『翼』の伝承者は、印可を授けられながら、記録に残らなかったのか? 『翼』などと言う技は存在しないのではないか? いやいや、門人でないヨン様の編出した〈
アクバのその仄めかしに、恐ろしい考えがサラの脳裡をよぎった。
(まさかーー)
「そう。その条件にぴったりの人物をサラ様は、見逃しておられる。隠居されたあと、人を近づけなかったラウド様と過ごされた唯一のお方がいるではありませんか」
口の中が、からからに渇いた。ゆっくりとふりむいた。
「ジクロ……」
兄がーー。
愛しい男がーー。
とても哀しそうな顔で、立っていた。
*
ジクロが、ほとんど囁くような声で喋りだす。
「父上は、お祖父様のことを本当に尊敬していらしたんだ。そして、自分がとうとう『翼』を得られなかったことを、心底、無念に思っていたーー。真剣に立ち会ってくれ、そう言われたよ。自分の命も長くない。残り火が燃え尽きる前に、剣士として悔いなく逝きたい、と。止めよう、って何度も言ったんだ、勿論。それでもーー決心を変えることは出来なかった」
「どうしてなの……そんな……」
「わかりませんか、サラ様。いやわかるでしょう」
アクバが口を挟んだ。
「それがーー剣者の
「きゃあっ!」
サラは慌てて抱きとめる。娘が気を失い、サラの腕の中でぐったりとなった。
「わたしも性分でしてね。どうしても一手ご
さあ、と剣を構えて言い放った。
「やりましょうか」
言うなり、一直線の薙ぎ切りが飛んだ。ジクロはかわさず抜き打ちに、これを受けた。さらに
ジクロはひと言、離れて、と叫んだ。その厳しい背中は、サラの知る、いつもの優しいジクロではなかった。幼いころのことが、まざまざと浮かんできた。何度挑んでも敵わなかった
無造作に剣をつかんだだけのジクロには、まったく殺気など感じられない。それなのに、容易に近寄れないほどの、圧倒的な迫力がそこにはあった。
対峙するアクバの口から、獣の咆哮のような気合が発せられた。しかし、ジクロが心を動かした様子はなかった。アクバがまた
(あのアクバがーー攻め
蛇に見込まれた蛙のごとく。
双方が佇立したまま、時が流れた。
するとーー。
奇妙なことがおこった。
サラは顔を中心にして、神経が鈍麻していくような感覚に見舞われた。その感覚は、水面の波紋のように全身に広がっていき、すぐにサラを支配した。舌が、口が痺れ、いうことをきかない。
これはーー。
サラは見開いたままの目を、アクバに向ける。
(〈
だがもはや自分の力では、どうすることもできない。
「
ジクロの肩が、ひくり、と揺れた。無理もなかった。サラの口から出た呼び掛けには、本人ですら耳を覆いなるくらい
「ねえ、ジクロ。こっちを見て、わたしを見て。わたしを抱いて……」
ジクロはふり向かない。
「わたし、
しゃべり続けながらサラは、
そして、サラは悟った。
ジクロは知っていた。サラの想いに気づいていたのだ。
アクバが笑ったのは、不敵さゆえか極限の緊張のゆえか。呼応して、アクバの体から、陽炎のように殺気が立ちのぼった。
息をのむ決着は、まさに一瞬の交錯のうちであった。
滑りこむような歩法で、ジクロが一気に間合いをつめた。すかさず鋭い剣戟が唸りをあげてアクバの左面を襲う。アクバが迎え撃つ。烈しい交差。二つの影が重なったとみるや、たちまち離れた。
気がつくとーーアクバは手前に立ち尽くし、ジクロはその奥に立っていた。時が静止したようだった。
再び動き出したときーー血飛沫を噴き上げて、アクバが崩れた。
そのとき何が起きたのか、確かなことはサラにも判らなかった。ただアクバの左面を襲ったかにみえたジクロの剣が、まったく同時にアクバの頸の右側を切り裂いていた。それだけは間違いなかった。おそらくアクバの目には、左右から同時に迫り来る二条の光芒が映ったことだろう。そう、羽ばたく
バソラ邨で聞いた、シナハの言葉がよみがえった。そして理解した。
ーーガイウス様のお顔は笑っていなさるようでした。
父もまた同じ光景を見たに違いなかった。そして、自らの及ばぬのを悟り、剣士として満足して、笑ったのだ。サラは涙を流し続けた。
問わず語りのジクロの声は、苦悩に満ちていた。
「お祖父様は〈
ジクロがサラの方を向く。その目にも涙が盛りあがっていた。
「父上に〈
「だのに、僕には出来てしまった……」
(嗚呼ーー)
泣かないで。
父上はもういない。
でも、わたしがいる。ずっと傍にいるよ。
胸が熱い。今すぐ駆け寄りたい。抱きしめたい。口づけたい。痛切にそう思う。
ほんの一歩。ほんの一歩踏み出すだけ。
それで
〈
人は、ただその気まぐれに、翻弄され、
ほら、一歩。
砂漠の風が、遠く、高く、
*
今その室内で
銀の
赤獅子侯ヨンの死は、半ば予想通りだったので、さして痛手ではなかった。赤獅子侯の企みも、彼女にとっては同時進行で走らせている幾つかの
ナリン砂漠中の〈
ただヨン・ベルデラントはいささか暴走気味であった。理想郷建設は百年の大計であり、あの様な拙速な
それとーー。
もう一口、紫煙を吐き出す。
ファランは、気がかりがもう一つあった。ザイロンに、ラムルとアルキンの
世に知られることのない彼女の〈
およそ滅多にあることではないのだが、ときに心動かされればファランがその力を他者のために奮うこともある。ヨン・ベルデラントと初めて出会ったのは、彼に乞われて
道ならぬ
「妹」はかなり興味深い存在だった。特異な資質の持ち主で、言わば彼女自身が〈とりかえばや〉の結節点であった。話によれば彼女は、幼少より何度となく「別の世界」の人間と心が入れ替わったり元に戻ったりしていたと言う。その結果、いつしか二つの
ファランが兄の望みを聞き入れ、まさに彼を消滅せしめんとしたそのとき、愛する者の嗅覚でもって妹は立ちはだかった。彼女はーー彼女の「
ファランは、
嗚呼、それだのに、それだのに。
まこと
またも妹を〈とりかえばや〉が見舞ったのだった。兄への思慕の記憶が消滅した妹の
そして今。
ファランは待っている。
恋人たちの決断を。
ファランの想像している恋人たちが、果たしてやって来るのか来ないのか、それはファランには予想出来ない。何となればファランの〈
跋、
ガドカルの民の統治は、この時代ののち、さらに百年続いた。いまも残る〈ホーロン文書〉は、往時の民びとの暮らしを伝える貴重な年代記である。
しかしそこに〈とりかえばや〉に関わることどもは記されていない。ただ
了
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