第17話

十九、

 ラムルたちがザイロンに到着した日から、時は少し遡る。

 

 先夜せんやの出来事は、ジナにもジクロにも絶対知られてはいけない、とサラとラムルは話し合っていた。と言うより、話したところで信じてもらえるか怪しいのだった。鬼怪故事かいだんなどジナに聞かせたら、卒倒してしまう。

 朝食の小麦と鶏肉の粥を口に運んだ。いつもより遅めの朝だった。ジクロはすでに登城してしまった。

(それにしても)

 とサラは、胸のうちで問う。

 夢でないのであれば、あの人妖ばけものは何だったのだろう。

(少なくとも人違いではなさそうだ)

 とサラは結論せずにはいられなかった。人妖ばけものは明白に、サラたちを狙ってきたのだ。

(ひょっとしたら、バソラ邨からの帰路かえりみちにラムルと一緒に襲われたのと、関連があるのではあるまいか)

 一度そう思ってしまうと、もうその考えから身をはがすのは難しくなった。

 一連の、父やハーリムをめぐる出来事やサラが行った場所、会って話を聞いた人々……。

 その中のどこかに、何者かの害意を刺激するわけーー獰猛な獣の目を覚ます尻尾があったのではないか。だとすれば、それはどこであろう。

 

 バソラ邨。

 ハーリムの行方。

 ザビネの金主きんしゅ

 アシド医師の邸第。


 にわかには判断がつかない。しかし、これらのうちのどこかが、ぴん、と張られた琴線に触れたと思えてならない。

 厨房では、ジナが洗い物をしている。ラムルがアルキン叔父と出かけてしまったので、外出の言い訳が難しくなった。ジナが、本当にサラの身を気にかけているのを知っているので胸が痛む。が、ここまできて手を引くつもりはなかった。

 厨房を向いて小さく、ごめんなさい、と呟くと、茶をひと息にあおって立ち上がった。今日はもう一度、アシド家に足を運ぶつもりだった。


「ハーリム先生のことは、よく知らないな」

 男の素っ気ない答えに、サラは少なからずがっかりした。すたすたと歩く男の後ろをサラはついていく。

 アシド邸からすぐのところにある、商売繁盛にご利益があるとされる財神ざいしんびょうの境内である。

 交易都市ホーロンの城内には、各地の民びとの神殿や寺院、宗廟そうびょう神祠やしろが散在していて、ここのようにお堂がひとつあるだけの規模のものとなると数え切れないほどである。

 男はアシド家の医師で、侍医団の一員でもあるバシスだった。

「元々わたしは、酒はたしなまない主義なのだ。あの時はたまたまリユン先生に強引に誘われてついていっただけでーー」

 バシスは、禿頭で、ひょろりと背の高い男だった。浅黒い肌に簡素な道服どうふくをまとっている。立領たちえりを一番上まできっちりと止め、いかにも堅物といった風情である。

 日ざかりをさけて、二人は廟の脇の木立の影に入った。

「ハーリム先生が話されていた女性にょしょうのことで、覚えていることはございますでしょうか」

「先生とは、もっぱら医術の話をしていたのでね。そういう話題には興味がない」

 バシスの不快そうな面に、枝葉を透過した日光がだんだらな模様を描いた。どうもこの調子では、とてもハーリム医師の女性関係についてなど聞き出せそうもない。

「そのおなごのところに、ハーリム先生が居ると思っておるのかね」

 逆に、バシスが訊いてきた。

「それはなんとも。ただそういったこともあるかと、わらにもすがる思いでございまして……」

 ふむ、とバシスは鼻を鳴らした。

「ま、確かに、こうも長いあいだ姿を見せないとなると、少々心配ではあるな」

「何か格別、お心当たりはありませんか」

 バシスの答えは否であったが、その代わり意外なことを教えてくれた。

「それとはつながりがなかろうが、最近、妙なところでハーリム先生の弟子の……何と言ったかな……あの若僧を見かけたのだが」

「それはどちらで」

 驚いてたずねる。

「当院でだ」

(ザビネがアシド邸に?)

 内心、首を傾げた。

「どうにも妙な様子だったな」バシスは眉を寄せた。「こそこそと隠れるように裏口から出て行ったのだ。わたしは水を所望して厨房に寄ったのだが、そのとき裏口から出て行く彼の者をたまたま見かけたというわけだ」

 サラは考えこんだ。ザビネが、人目を避けてアシド邸に出入りしなければならない理由わけとはなんだろう。

 近所の小童こどもたちが、嬌声を上げながらやってきたのをしおに、サラとバシスは境内を離れた。


 邸第やしきの門をくぐろうとしたサラは、そこでばったりと見知った顔に出くわした。めでたそうな顔の持ち主は、金吾衛きんごえい捕吏とりかたアクバである。

 アクバは立ち止まると、大げさな身ぶりで両手を広げた。

「これはちょうど良い。いまお戻りですかな」

 満面の笑みを浮かべて、お辞儀してくる。

「ええ」

 挨拶を返しながら、アクバの後ろにチラと目を向けた。捕吏には連れがいたからだ。

 うっそりとたたずんでいる男は、捕吏とは対照的な堅苦しい官服姿で、この炎暑えんしょのなか黒い長袍ながぎをまとっている。アクバよりも頭ひとつ分は図抜けた偉丈夫で、眉が濃く、唇は薄く、全体に酷薄こくはくそうな印象である。

 サラの視線に気づいて、アクバが男を紹介した。

「こちらのお方は、監察かんさつ御史ぎょしのシクマ様であらせられます」

 シクマが、尊大に顎を引いた。

 サラは内心でうなった。

 監察御史は、諸役人の政務をけみし弾劾する権限を持つ強力な官である。通常の官衙やくしょの組織から独立した、宰相直属の御史台ぎょしだいに属する。選良と認められた者しか努めることができないといわれ、官人たちの羨望の的であり恐怖の的でもある。

「本当に良いところでお会いしました。実はですな、本日はサラ殿にお聞きしたいことがあって参上いたしたのです」

わたくしに、ですか?」

「はい。よろしいですかな」

 そう言ってアクバは、ずかずかと門の内に入っていった。仕方なしに同行して邸内に招じ入れようとするのだが、こちらで結構です、と入り口で立ち止まるのだった。そのまま玄関先で、立ち話をする格好になった。

 思い出していただきたいのですが、と前置いてからアクバは口火を切った。

「三日前の晩のことですが、サラ殿はどちらにいらっしゃいましたか」

「三日前……」

 唐突な質問に面食らう。

「すぐには思い出せませんが……」

「お待ちいたしますゆえ、よく考えてお答えください」

「はあーー」

 宙を睨んで記憶を辿る。通常ならば、いきなりそんなことを訊かれても、すぐに答えられるものではない。人の記憶などしごく曖昧なものだ。ところが今回は意外にもすぐに思い当たった。三日前の晩といえば、ジナやジクロと父の病気のことで口論した晩の翌日だ。

「家におりました」

「それを証立あかしだてることはできますか」

「証立てる、とおっしゃられましても答えられるのは身内の者しかおりませんが……」

 その家族と喧嘩をして、部屋に引きこもっていたとは言いづらい。

「フム、そうですか……」

 アガムは隣のシクマを、ちらり、と見やった。

「それではサラ殿、大変申しわけございませんが御史台までご同行願います」

 アガムの態度は低姿勢ではあったが、内容は剣呑だ。御史台までついて来いとは穏やかでない。

「ご覧の通り、たったいま帰ってきたばかりなのですが。いまお話した内容ではご納得いただけないのですか」

「抵抗すると、ためにならんぞ」

 シクマと名乗った男は、低い声で横柄に口を挟んだ。

「どういう意味でございますか」

 勃然むっとして睨みつける。これではまるで罪人扱いではないか。

 まあまあ、とアクバがシクマをたしなめる。とはいえ、アクバも引く気はなさそうなのだった。

「そうそう、お宅のお女中ーーたしかジナさんとおっしゃいましたかね。その方もご一緒願います」

「ジナも? いったいどういう用件で、私たちが御史台におもむかねばならないのでしょ。理由わけをお聞かせください」

 抗議の口調が知らず、厳しくなる。

 「小姑娘こむすめめが!」とシクマが目をむいて威嚇する。アクバはそれを制してサラを見すえ、居住まいを正した。

「そうですな、それをいまからお話しようと考えていたところです。実は……現在サラ殿には、ある重大な嫌疑がかけられております」

「重大な嫌疑ーー?」

「はい。サラ殿は、ザビネという男をご存知ですな」

 アクバの口調は断定的だった。どうしてここに、ザビネの名前が出てくるのだろう。厭な予感が渦巻いてくる。

「一度だけ話をしたことがあります。それがどうしたというのでしょう」

 そうですか、とアクバは暗い声で言った。

「サラ殿ーー。われわれは、貴女を医師見習ザビネ殺害の疑いで捕えに参ったのです」


 詮議せんぎのために連れ込まれた房室へやは殺風景で、おまけに狭かった。

 宮城きゅうじょうのお膝元ひざもと、御史台の建物の奥にあるそこは、壁布も敷物もなく石壁がむき出しで薄暗かった。一脚だけの木の椅子は硬くて、お世辞にも座り心地がいいものではない。

 座っているのはサラで、前にシクマ監察御史が立ち、そのうしろに直立不動の姿勢のアクバがいた。剣がとり上げられているので、ひどく無防備な感じがして落ちつかない。

 それで、とシクマが高圧的に言った。「どうしてあの男を殺したんだ」

 いきなりの断定に反発心が沸き起こる。

わたしは、殺してなどおりません。一度会ったことがあるだけです」

「ほう。では、どうして男にそもそも会いに行ったのか教えてもらおう」

「それは、ハーリムという杏林おいしゃさまに会いに行ったのですが、いらっしゃらなかったのでお弟子さんであるザビネさんにうかがおうと思ってーー」

 ハーリムの名を耳にした瞬間、シクマの目がギラリと光ったような気がした。

本官われらの調べによると、其方そのほうは、ザビネの殺される四日前に彼奴のもとに姿を現しておる。このときは長いあいだ、ザビネと話しこんでいたじゃないか。その後、麟台りんだいしたやく、ラムル・ノドノスが同界隈で目撃されておる。こやつは其方そのほう青梅竹馬おさななじみと聞いたが」

 サラは顔をしかめた。どうやら色々と嗅ぎまわられているようだ。

「よく知らない相手にしては、短いあいだに随分と其方そのほう相識しりあいが訪ねているようだな」

 仕方あるまい。サラは父の事件を自分で調べていたことを一から説明した。

 まともに聞いているのサラないのか、シクマは始終、無表情だった。サラが話し終わるとおもむろに口を開いた。

「つまりまとめるとこうなる。其方そのほうは父親であるガイウス・アルサムの生前の様子を知ろうと、父の友人であるハーリムのところに行った。医師が不在だったため弟子のもとを訪ねた、と」

 はい、とサラは頷いた。

 バン、と大きな音を立てて、シクマが石壁を叩いた。

胡説でたらめを申すな! そんな与太話を信じると思っているのか!」

胡説でたらめとは異なことを申される。いかなる根拠があってその様な……」

 突然の罵声にあ然となりながらも、反論した。普通の姑娘むすめなら縮みあがるところだろうが、こちらはあのガイウス・アルサムと毎日わたりあっていたのだ。

 ま、ま、ま、とアクバが割って入った。

「そう興奮なさらずに。それではサラ様、三日前の晩のことをあらためてお話願えますか」

 四日前にあたる前夜にジナやラムルと一戦交えたため、翌日は食事時も自室に閉じこもっていた。途中、自室へやから抜け出して食べ物を確保して引っ込み、そのまま一昨日の朝まで一歩も外に出なかった。むろんその間、誰とも顔を合わせてはいない。何度かジナに声をかけられたが、意地を張って返事をしていないので、ジナにはサラが房室へやにいたのか判別できないだろう。

「本当にご家族にも顔を見せていないのですか」

 アクバが残念そうに言う。

 はい、と頷く。

 たとえ喧嘩をしていなかったとしても、事態はさほど変わらないだろう。ザビネが殺されたのはその日の深更のことだ。いずれにしても証人がいるとは思えない時刻である。

「でも、まさかそれだけで天下の御史台が、わたしが犯人と断定したわけではないでしょう。逮捕の根拠を教えてください」

 思い切り皮肉をきかせて言ってやった。シクマは、意味ありげにアクバに合図した。

「証拠ならある」

 目顔で指示されたアクバは、シクマに布の小袋を差しだした。シクマは袋の中から小さな品物を取りだした。

「それは……」

 それ以上、言葉が続かなかった。

 シクマが目の前にかかげたのは、失くしたと思っていたあのジクロのかんざしだった。

 驚愕するサラを見て、シクマが薄く笑った。

「殺されたアクバが握っていたのだ。犯人の遺留品と思われる。これはお主のものだな」

 声は真冬の湖のように凍りついて一切出ていかなかった。どうしてこれがザビネのもとに?

 沈黙を肯定ととったのか、シクマは続けた。

「珍しい色づかいの品だな。間違えようもない」

 サラも負けてはいない。

女式おんなものにお詳しくないようなのでお教え致しますが、特に珍しい品ではございませぬ。尤も確かにこれはわたしの物です。ですが失くしたんです」

 シクマは冷ややかな視線を向けた。まったく信じていないのは明らかだった。かんざしを丁寧に袋にしまうと、アクバに返した。

「お主は、あの日の深夜、房室へやを抜け出すとザビネのもとへ向かった。ザビネが毎晩あの酒肆さかばで飲んでいるのは確認済みだったのだろう。店がひけて、ザビネが出てきたのを見計らって斬殺した。その際、揉みあって簪を落としたのだ」

「違います!」

 思わず叫んでいた。知らぬまに、巨大な蜘蛛の巣に絡めとられたようだった。総身がそそけ立った。

「動機はなんです。なぜわたしが、ザビネを殺さなければならないのですか!」

「それは父親のはかりごとを隠匿するためよ」

はかりごと?」

 一体、なぜここに父が出てくるのか。

(ーーわけがわからない)

「そうだ。ーー太守陛下弑逆しいぎゃくのな」

 しばらく呆けたような顔をしていたに違いない。それほどシクマの言葉は予想外だった。

「太守を……ころす?」

 何をいまさら、という表情かおつきでシクマはサラを見つめた。

「いったい、何の話ですか」

「……なるほど、こいつはたいしたタマだ」

 シクマは、アクバに顔をしかめてみせた。アクバが弱りきった顔で、眼をそらす。

「本当にわからないんです。父と太守陛下のご逝去せいきょと、どんな関係があるんですか」

 ふう、とシクマはため息をひとつついた。

「揃いも揃って強情な奴らだ。お主の兄も同じようにとぼけておったわ」

(ということは、やはりジクロも捕まったのだ)

 太守弑逆しいぎゃくとがとなれば、不軌むほんである。一族郎党までも残らず厳しい詮議の的となるのは必定ひつじょうだ。だがしかし……。

「そこまでしらを切るなら話して聞かせてやる。もっともお主には、言わずもがなの事だろうがなーー」

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