さよなら風たちの日々 最終章ー1 (連載42)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第42話


               【1】


「ばかやろう。あんなでまかせ、信じやがって」

「あのときの冗談を、真に受けやがって」

「ダメになったら、おれんとこ来いや。どこにいたって迎えに行くから、なんて戯れざれごと信じやがって」

 深夜の環状七号線を走りながらぼくは、何度も同じ言葉を吐き続けた。その言葉を繰り返しながらぼくはヒロミとの日々を回想し、喫茶店ポールで別れてからもう二年近くも経ったことに気づいて愕然となった。

「ダメになったら、おれんとこ来いや」

 ぼくがそう言ってヒロミと別れてから、季節は間違いなく幾度となく移り変わっていたのだ。

 あれからぼくは、すっかりおまえのこと忘れていたよ。それはオートバイという相棒がいたからだよ。オートバイに乗る日々。風になる日々。そして風たちの日々。オートバイは今もぼくの愛すべきパートナーで、そのおかげでぼくは、あの日の痛手から立ち直ることができたんだ。

 けれどもヒロミ。おまえはまだ、ぼくのことを思っていたんだね。あの日のことを、ずうっと引きずっていたんだね。だからぼくの家に来たんだね。

 そう思うとぼくは、胸が締めつけられるような気持ちになった。真綿でじわじわ締めつけられ、呼吸することさえ苦しくなる重圧感。圧迫感。その圧力から逃れるためにもぼくは、何が何でもヒロミに会わなければならないと思った。


 押っ取り刀、という言葉がある。武士が危急存亡のとき、正装である刀を腰に差すのももどかしく、刀を手に持ったまま急いで現場に駆けつけるという意味だ。

 今のぼくがそうだった。場所は高島平の団地としか訊いてない。行ったところで、高島平のどこにいるかも分からない。でもぼくは、行かなければならないと思った。高島平に行ってヒロミを見つけて、目の前で「ばかやろう」って言ってやりたかった。

「あんなでまかせ、信じやがって」

「冗談を真に受けやがって」

 そう言ってぼくは、ヒロミを責めたかった。あのときぼくを泣かせたヒロミを、なじりたかった。そして、抱きしめたかった。


 オートバイは、風の中を疾走する。深夜の環状七号線を駆け抜ける。軽やかなエグゾーストノートを響かせながらオートバイは、夜のとばりを切り裂いていく。切なく、やるせなく、収縮しそうになるぼくの心を乗せて、オートバイは夜の街を駆け抜けていく。

 冷気をたっぷり吸い込み、真冬の曇り空のように黙り込むアスファルト。少し葉を落とし、そのみじめな裸体を現わしつつある街路樹、プラタナス。ヘッドライトに浮かび上がるガードレール。何も語ろうとしない水銀灯。向けたヘッドライトを即座に見つめ返すキャッツアイ。

 明かりの消えたショーウインドウに瞬間、駆け抜けるぼくの姿が映る。途中、ロープを張り、人々の心さえも遮ろうとするガソリンスタンドがあった。ネオンを消し、うたかたの夢を回想するパチンコ店があった。そしてシャッターを降ろし、その日にピリオドを打って眠りについた飲食店があった。

 そんな街並みを駆け抜けながら、ぼくはふと思った。緑。この信号機の緑。はるか彼方まで続いている青信号の緑。この緑はいつか見た、十和田湖の緑に似てはいないだろうか。十和田湖をさらに美しく見せる、原生林の緑に似てはいないだろうか。

 ヒロミ。ぼくはやはり、おまえと十和田湖に行きたい。十和田湖の緑と星空を、おまえに見せてやりたい。ヒロミ。待っててくれ。ぼくは今、おまえのもとに駆けつけるから。おまえのもとに駆けつけて、おまえを抱きしめるから。強く、抱きしめるから。

 

               【2】

 

 環状七号線内回り。板橋区を表示する看板をくぐると、すぐ大和陸橋が見えた。ぼくは左のフラッシャーを点滅させ、その陸橋の側道に入った。信号はそこで赤になった。

 小さく身震いしながらアイドリングを続けるオートバイ。両膝りょうひざに挟んだ燃料タンクに温もりを感じ、ぼくは思わず燃料タンクに手を載せた。

丸い二連メーターの照明が、ぼんやりとぼくの腕を照らしている。アイドリングに合わせて明かりの強弱を繰り返しながら、その照明はぼくの腕を照らしている。

 静かだった。ぼくのオートバイのエンジン音以外、何も聴こえてこないのだ。はやる心を押さえようとぼくは今度は腕を組み、信号が変わるのを待った。

 やがて信号が青になった。ぼくはフラッシャーを点滅させながら、右折を開始し、国道17号線に入った。ここを直進し、戸田橋の手前を左折すれば高島平団地に出るはずだ。ぼくはミッションペダルをせわしなくアップさせ、車速を上げた。

 しばらく走っていると、その脇を乗客を乗せたタクシーが猛スピードでぼくを追い抜いていった。何をそんなに急いでいるのだろうか。今のぼくより急ぐ用など、この世のどこにもあるはずがないのに。


 オートバイが西台の交差点に差しかかると、左前方に高層団地が見えてきた。それが高島平団地だった。総面積332ha。五階建ての中層団地と十一階から十五階建ての高層団地六十六棟で構成され、一万世帯が入居しているマンモス団地。高島平団地。そのマンモス団地が今、暗い夜空を背景にぼくの前にそびえ立っていた。

 この団地のどこかに、ヒロミがいるはずなのだ。

 目がくらみそうになるのを抑え、ぼくは団地の側道にオートバイを停めた。そうして首を左右に激しく振り、自分に活を入れた。

 水銀灯の明かりで、時計を見る。時刻は午前一時を過ぎていた。もちろん周囲には人間はおろか、生き物がいる気配さえない。

 ぼくはシャッターで閉ざされた店舗の前を歩き、団地の敷地内に入った。

 深夜のマンモス団地。静まりかえったその内部にあるのは、どんな侵略者も許さない鋼板製の扉と、冷たい光を放つ防犯灯の明かりだけだった。ぼくにはその空間そのものがとても無機質で、外部の人間すべてを拒んでいるようにも見えた。

 何万人もの家族が暮らすマンモス団地。その大半の家庭は明るく、楽しいものなのだろうけれど、少なくともヒロミのいる空間だけは、虚ろなものに違いない。

 団地の入り口に向き合う形で、植え込みの奥に駐輪場があった。そこには色、形、大きさの異なる自転車やスクーター、オートバイが、ところ狭しと停められている。ぼくはそれを見て、ふっと安堵の胸を撫でおろした。そこにはこの団地で暮らす住民の生活のにおいや、息遣いがあったからだ。

 レモンイエローのエレベータが四基、ボタンで呼び出されるのを待っている。金網で補強されたガラス窓から中を覗くと、そこはコンクリートむき出しの壁になっていた。つまりエレベータのかごはいずれも、ほかのフロアで停まったままなのだ。

 一階エントランスホールを見る。そのエントランスホールの壁に、自治会の掲示板、入居者表示のプレートが貼られていて、その奥に集合ポストがあった。それは銭湯の下駄箱をジュラルミン製にしたようなデザインだ。それを見たぼくは、驚愕の事実に気づいた。その集合ポストのネームを見れば、入居者が一目で分かるはずなのだが、よく見るとその集合ポストは、名前が記されてなかったり、ジュラルミンのふたが壊れていたり、取り外されているものがあったのだ。さらに壁に貼られてある入居者表示プレートも完全ではない。いたずらされたのか、破損してしまったのか、ところどころ名前が貼られてなかったり、外れている箇所があるのだ。

 入居者を調べるには、各戸の表札を調べるしかないのだろうか。それでも表札が出ていなかったらどうする。こんな深夜、不審者に思われたらどうする。高島平団地は全六十六棟。一万世帯もの住人が暮らしているのだ。


 ダメだ。絶対無理だ。この現実が、ぼくを絶望的にさせた。

 ぼくはさらに絶望的なものに気づいた。それはヒロミの苗字だ。ヒロミ。おまえは今でも織原なの。結婚しても、苗字は織原のままなの。

 あり得ない。ぼくは表札からおまえを捜しあてることはできない。

 ヒロミが家に来たと訊いてぼくは、胸が高鳴った。高島平の団地だと訊いて、ぼくは何が何でもそこに行かなければならないと思った。けれどこの高島平団地は巨大過ぎて、そこにはヒロミを見つける手がかりは何ひとつない。

 向こう見ずだった。押っ取り刀でここに駆けつけてみたものの、それからどうする。どうやってヒロミを見つける。ぼくは自分のバカさ加減をなじった。

 そのとき、ぼくはさらにある嫌なニュースを思い出していた。この高島平団地では毎年十人以上もの飛び降り事件が発生して、社会問題になっているというニュースだ。


 ・・・ヒロミ。もしかして、おまえ。ぼくの顔は蒼ざめた



                           《この物語 続きます》








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