黎明に祝福の羽風

よる子

黎明に祝福の羽風

 物心ついた頃から自覚していたことと言えば、飛びぬけてよかった容姿のこと。学校で教職という免許を持っただけの赤の他人から粗く与えられる評価も、生涯の何十年をかけてその道を研究している習字の先生からつけられる赤い文字も、なにもかもが「おまえは出来損ないだ」と口酸っぱく告げてくる。ただどこへ行ってもその端麗な見た目だけは褒められた。街を歩くだけで囁き声が私の耳を劈く。みんなの目が「あなたは容姿だけが優れているのよ」と語ってくる。名前も知らない老若男女が、私の容姿を批評する。通りすがりに悪戯をされることもあった。怪しい男の人に車に乗れと言われることもあった。

 女友達に伝えれば嫌味だの自慢だのと言われてしまい、この持って生まれた美しさは呪いとなり私の中で憎悪を膨らませていった。誰に解るはずもないそれが私だけのものなんだと自覚した。だから深い深い心の奥底に白い壺を置いて、その中に封印して、重たい石で蓋をした。誰にも私にももう開けられやしない。そんな醜い感情はなかったことにするのだと決心した。

 それからというもの私はこの呪いをどうにかしようと努めた。美容への意識、ファッションへの気遣い、振る舞いなど見た目に関するものはすべてを見直して身なりだけは誰にも文句をつけさせないまでになった。そんななかで目指そうとしたものがあった。まぶしい舞台で素敵に咲きほこる花のように輝く、アイドル。私が私を好きになるため志すに相応しいものだった。散々私をもてはやしてきた周りの人間はもちろん、唯一”私”を見てくれていた両親も快く応援してくれた。幼く無知な私は、この呪いがいつか必ず祝福に変わるのだと信じていた。

 高校生活で初めての八月、蝉は例年よりもうるさい気がする。襲い来る炎暑のため出歩く人がいなくなった街は世界の今際か、巡る輪廻の道すがらを思わせた。家と高校の中間地点にあるのは、幼少期の六年間を過ごした私の母校。あの頃はなかなか呪いに惑わされていたからいい思い出はあまりないが、通るたびに懐かしいなと感じずにはいられない。それはたぶん、みんなが共通して持つ感覚だろう。特別なことなんてない。

 夜は特に変質者が出やすくなるので滅多なことでは外に出なかった。けれどその日は妙にのどが渇いていて、欲しかったのは炭酸で、家にはお茶しかなくて。私は少し遠いコンビニまで足をのばさなければならなかった。髪を後ろで一つに結って、白いTシャツと黒のジーパンに身を包んで、ペットボトル一本買えるだけの小銭を窮屈なポケットに忍ばせた。夏の夜は独特な空気だ。生き物の死骸みたいな匂いがする風が、嫌になるくらい熱を孕んでゆるゆると吹いたり停滞したりする。ほんの少しだけ心地がいい風だった。それはコンビニの近くに建つ小学校の校庭にも多少の砂埃を立てていた。まばたきをする一瞬の間に吹いた突風が髪をさらうので私は自然と風のゆく方へ目を向けた。なんの変哲もない深夜の小学校。フェンスの向こうの校庭には休む遊具たちと、中央で佇むひとりの少女。あるいは天使。四角い何かを大事そうに抱きかかえている。本来ならば恐怖かまたはそれに似た感情を抱いてもおかしくはないくらい異様な光景であったが、私の目には未明に幼い少女が校庭で遠くを見ている図が実に空想的に見えた。意識のすべてを奪われるほどに。それは、その少女が背中に小さな羽を背負っているせいだろうか。頭の上に静かに光る輪っかが見えるせいだろうか。どちらにせよ、視線まで釘付けになっている私に選択肢はない。天使がこちらに気づく。

「おねえさん、こんばんわ」

 可愛らしいピンク色の運動靴で跳ねるように天使は近づいてきた。羽がぴょこぴょこと上下する。

「こんばんは……なにしてるの?こんな時間に」

「えっとね、本読んでた」

 一枚のフェンスを隔てて言葉を渡し合う。天使が手にしていた四角い何かは本だった。小さな手に大きなハードカバーの本は少々不釣り合いだ。ぱっと見たその装丁に見覚えがある気がした。

「そうなんだ。……本好きなの?」

「うん、だいすき」

 笑いかけるでもなくただ口をついて出るままに吐いた私の何の感情ものっていない言葉に、天使は愛らしい笑顔を向けた。汗ばむ熱帯夜に校庭の隅で咲いた太陽は私にはまぶしすぎてつい目を逸らしてしまう。すぐそばの街灯が雑音を鳴らして点滅した。天使は家に帰らなくてよいのだろうか。

「……私、もう行くね」

 胸の前で手を振ると天使ははにかんでまあるい手のひらを見せた。

「ばいばい。おねえさん、またくる?」

「……たぶん」

 それだけ言って、踵を返した。天使の手がフェンスを掴んだと思われる音が背中に届いた。コンビニの帰りに通った際、天使の姿はなかった。




 それから一週間と少し、毎夜小さな天使とおしゃべりをする日々が続いた。手にする本は文庫本に凝った装丁の本、辞書ほどありそうな分厚いものなど会うたびに変わっていた。ただどれも見覚えがあるように思う。天使の容姿にも。

 ある日天使は脈絡なく言った。

「おねえさんは、じぶんのみためがすき?」

 すぐに肯定ができなかったのは自分に嘘をつきたくなかったからだ。素直に否定をしたくなかったのは自分で認めるのがこわかったからだ。ううん、と首を振りたかった。呪いはけっきょく呪いのままで、なにものにもなれずにいたのだった。あのね、天使はフェンスを握りしめる。

「わたし、わたしのみためだいきらい」

 くりくりの黒目が街灯に照らされて輝く。その日天使が握りしめていたのは薄い文庫本だった。

「おねえさんは、ほんがすき?」

「大好きだよ」

 のどを飛び出した。だいすき、そのたった四文字がいたく愛おしかった。それは自分でも驚くほどで、その感情は涙となってあふれ出した。本が大好き。容姿は大嫌い、でも本は大好きだった。本当に、好きだった。ずっと、ずっと昔から。手が触れてフェンスがガシャンと鳴く。

「ぶんしょうにさわっていたいの」

 知ってる、知ってるよ。

「なんにもきにせず、ほんといっしょにいたいの」

 ごめんね、知ってるよ。

 わんわんと泣き出した私と天使はフェンス越しに手を取り合った。私は嗚咽まじりに囁き声で喚くように告げる。

「私も……私の見た目が大嫌いだよ」

 天使はぐしゃぐしゃの顔できれいに微笑んでみせた。ずっと私から知らんふりをされていたその小さな女の子は私の呪いを浄化して消えた。残ったのは砂に落ちた一冊の文庫本だけだった。フェンスの下から手を入れてこちらに寄せる。表紙にはなつかしいタイトルが白い文字で印刷されていた。私が小学生のころはじめて母親に買ってもらった古本だった。たしか百円とかそこらで売られていたものだと記憶している。ぱぱっとはたいて砂埃を落とす。

 きゅっとサンダルを鳴らした。やりたいことを思い出したと、まずは両親に告げなければいけない。背中にやさしい追い風を感じて、私は白みはじめた空に向かって歩き出した。



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