第21話 有限会社ゆとりとバブルカンパニー

 社会の事情は、どこまでも、複雑怪奇。

 私たちの父もそうだったのだが、努力で確かな結果が得られた人たちには、入社後に、基本的な昇進が、約束されていた。

 気が付けば、誰もが、部下を抱えられるように、なっていた。

 何人も。

 何十人も。

 ときには、何百人も。

 それほどの部下に囲まれて育ったその人たちは、その環境が当たり前なんだと、錯覚を起こしてしまいがち。

 皇帝気分に、なってしまった。

 その父世代の事情が受け継がれたのが、オンリーワン世代だ。

 世界に1つだけの命として大切に育てられたその人たちは、知らない人にたいして、こんな言葉は、なかなか、言えるはずもなかった。

 「ありがとうございます」

 皇帝は、そんなことは言わなかった。

 「どうして、僕たち私たちの友達でもない人に、ありがとうございますなんて言わなければ、ならないの?…っていうか、お客様は神様だっていうじいちゃんたちの言葉じゃないけれど、僕たち私たちのほうが、偉いのにさ!神様なのに!社会って、わかってないよね!意味、わからない」

 強すぎた。

 「お電話、ありがとうございます」

 皇帝は、そう、気安く民衆に言ってはならなかった。とにかく、格好がつかなかったからだ。

 悲しい記事は、続いていた。

 ラーカイラムのコールセンターに恐怖の電話を入れてきた、高齢者客。

 その心の中には、どのような事情の糸が巣食っていたのだろうか?

 「お母さん…風邪ひいたりしないでね」

 母は、ずっと、泣いていた。

 コールセンターも、大変だ。

 電話相手の客が女性であった場合は、希望が、もてたそうだ。私も、そう思っていたものだ。

 「…お母さん?女性が相手なら、良かったのかもね?女性なら、今の社会の事情を理解してくれていることが、多いから」

 「…」

 母は、くすんだ涙の中で、休んでいた。

 電話相手が女性客だったなら、こう思ってくれただろうか?

 「復唱…そうか。コールセンターのこの人は、私のした注文を、再確認してくれているのね。仕事って、大変よね。はい、はい。聞きますよ」

 もともと、通信販売などに代表される電話仕事に慣れていたことも考えられるが、女性は、丁寧に理解を示してくれたようだ。

 「決して、性差別ではなく…。ああ、ミマサカさんのことを、思い出しちゃったな」  

 コールセンターに文句を言える人たちの脳内事情は、どうなっていたのだろうか?

 今、それへの解明が進められつつあると、いう。

 「文句を言いやすい男性高齢者がキレやすいのには、生活事情が、大きく、関わっています。男性高齢者らは、それまで尊敬された会社生活が終わり、家庭に強制送致されてしまいました。その変化に、耐えられなくなっていたのです。会社員としてプライドを保てる活躍ができなくなった彼らには、尊敬されない生活フラストレーションが、急激に、のしかかりました。家庭は、大混乱。人を養うべき大きな木だった人が、養われるべきミニ観葉植物となってしまったわけです。新社会に打ちのめされた彼らは、キレるしか、気分の発散ができなくなり…」

 その先を読むのは、やめた。

 母は、気持ち良さそうに、それでも一筋の涙を流して、まどろみかけていた。

 妹は、その状況に、じたばたと、もがいていた。

 「お母さーん!げんき、出して―!」

 そこで妹は、面白い行動をとった。

 なぜか、玄関先のほうに駆けていって、座り込んでしまったのだ。

 「ツキノ?何、しているの?」

 「…お姉ちゃん?」

 「ねえ、ツキノ?」

 「…」

 「ねえ。そんなところに座っていないで、ご飯を、食べようよ。お母さんが帰ってきてくれたし、おばあちゃんも、そろそろ帰ってくるころだろうしさあ…」

 が、妹は、動いてはくれなかった。

 私は、そんな妹を見て、少し落胆した。

 私の視界は、妹を外していた。妹を裏切った私は、母に、すがるしかなくなった。

 「お母さん…。もう、夕食の時間だから。そろそろおばあちゃんも、帰ってくるだろうから…。だからもう、飲むのは、やめて」

 が、母は、こう返すのみだった。

 「いいのよ。こうでもしないと…お母さん…酒でも飲まないと…お母さん…やっていられないから。こうすれば、苦しみが和らげられるような気が、するから…。皆が幸せになれるような気が、するから…」

 「お母さん…」

 「いいのよ。…お母さん…、そういう、弱い生き物だから」

 カノおばあちゃんが、帰宅した。

 近くの老人ホームかどこかに、顔を出していたようだった。

 「ありがたや、ありがた。はい、ツキノちゃんに、お土産」

 おばあちゃんは、満足そうに、小さな人体模型のようなものを、あげていた。

 「ツキノ?礼を、言いなさい」

 「おばあちゃん、ありがとー!」

 私は、ちょっと、ふくれた。妹に、ライバル心を生んでいたらしかった。妹に向かい、見栄っ張りにも、負け惜しみめいた呪詛を、言っていた

「良かったわねえ。まあ、私は、あなたの上をいきますけれどね。この、超優等生ナンバーワンの私にできないことなんて、ないんですから!フンだ!優秀な私は、将来、医大に進んでやるわよ!形成外科医様に、なってやるんですから!」

 妹は、幸せそうな顔と口調を維持したままで、食卓テーブルに着いた。

 手をつないでいたおばあちゃんが、妹の横へと、座った。妹とおばあちゃんは、恋人のように、ご飯を食べていた。

 私には、その2人の姿が、遠い記憶の海のように、もどかしかった。

 「おお。きたのかい、バッカス…!」

 おばあちゃんが、母が酒を持って泣いていたのに気付き、微妙な声をあげた。

 「おばあちゃん?お母さんが、職場で、もらったって」

 「誰にだい?」

 「良くわからないひげおじさん、らしい」

 「ほう。そうかい」

 「らしいー」

 「やはり、バッカス…。お前も、やっと、きてくれたわけかい…」

 「なあに、おばあちゃん?」

 「なあにー?」

 「いいや。何でもないさ。老人の独り言」

 「そう。あ…。寝ていても、良いのに」

 母が、起きた。

 「えっと…。これは、さあ。お母さんが、コールセンターで、働いていたらね…?」

 「大丈夫?お母さん?」

 「そうしたらね…?」

 「はい、はい」

 「休憩時間に、見たことのあるようでなかったような、ひげのおじさんが…お母さんの近くにきてさ…」

 「お母さん?誰だったの?」

 「わからない。謎のサラリーマン。じゃなかった。謎の…セールスマンかしら…」

「それで?」

 「お母さん、怖かったわ。そのとき会社の休憩室には、私しか、いなかったし…」

 「ほう、ほう」

 「お母さん?その人、男の人?女の人?」

 「わからなかった…」

 「…」

 「そうだったの」

 「うん…」

 「…」

 「どっちでも、良いよね?世の中、バイセクシャルなんだし。それで、お母さん?その人に、何か、されたわけなのね?」

 私は、勝手な想像をしていたらしかった。「そんなんじゃ、ないわよう」

 母には、にらまれてしまった。

 「…それで、どうなったんです?」

 「そうよ。お母さん、どうなったの?」

 「うん。…そうしたら、お母さん。その人に、なぐさめられた。元気を出しておくれって、言われてさ…」

 「ほう…。そう言われましたか」

 「そうだったのね…」

 「そうしたら、これをやるって言って…。カノ様が…とかなんとか、言っちゃって…この酒を飲みなさいって言って…。お母さんの前に置いて、どこかにいちゃった」

 「…」

 「ふーん」

 「…とりあえず、持って帰ってきた」

 「…」

 「お母さんも、大変よね?その人が正社員さんか何かだった場合、断るわけにもいかないし…。素敵な、プレゼントだったね」

 「あの人、誰だったのかしら…」

母は、また、まどろみはじめた。

 私は、もう一度、酒瓶を見てみた。

 「バッカスの酒」

 かつて父が好んで飲んでいた酒と、同じ名前のラベルが、貼られていた。

 夕食後…。

 「お母さん…。ちょっと、外に出てくる」

 母が、立ち上がった。

 「お母さん?風邪、ひくよ?」

 「そうですよ」

 「かぜー!」

 「すぐに、戻るから…」

 外出した母は、妹が寝たころ、帰宅した。

 母の目は、ウサギのように変色していた。

 「お母さん…?」

 「月が、出ていた。私は、その中で飼われていたウサギに過ぎなかったのよ…でも、気分が良くなった」

 母が、布団に入った。

 私は、本格的に眠りに入っていこうとしていた母の背を見ることで、眠りにつくことができた。やっと、安心を得られたのだった。

 「よく…やった。バッカス。感謝する」

 おばあちゃんが、また、何かを、つぶやいていた。

 それからも、私たちの新しい家族事情の時間は、刻々と、解かれていった。

 父のいなくなってしまった食卓の、そのどうにもならない寂しさを、カノおばあちゃんが、充分に、紛らわせてくれていた。

 妹は、特に、幸せそうだった。

 妹は、カノおばあちゃんに、忘れられかけていた記憶の海を作って、そこで、健やかに泳ぐことができたというのだろうか?

 メゾン・オトナシの庭で啼く小鳥たちが、いつもにも増して、輝いていた。

 新しい家族の事情は、知恵の輪だった。

 事情の知恵の輪が解けたときの爽快感たるや、相当なもの。だが、その解決に至るまでの道は、険しかった。

 それでも、面白く、何とかして解こうと、格闘していた。

 おかしなこと、だった。

 事情の知恵の輪も、解けた瞬間に、そこに至るまでにつかめた感触が、刹那に、終わってしまうものだったのだから。

 社会の事情は、複雑怪奇。

 とにかく私たちは、その知恵の輪運命を上手にもてあそび、このメゾン・オトナシの空間を幸せに演出しようと、張り切っていた。

 が…。

 幸せを呼び込む酒の効果も切れてきたか?

 母は、まだ、職探しを続けていた。

 この厳しい雇用環境の中では、母が新しい仕事を見つけるのは、困難を極めていた。

 「お母さん、かわいそう。人手不足社会になったなんて、ウソだったんじゃないの?」

  なんとかありつけた仕事は、高齢者介護の仕事だけだった。

 その職務内容に関する資格の取得は、働きながらで可能とのこと、だった。

 母は、その条件で、生きる可能性を得た。

 私は、母に、意地悪くも、こんなことを言ってしまっていた。

 「お母さん?これまで高齢者には、苦しめられてきたんでしょう?今だって…。それでその人たちを介護するなんて、できるの?」

 「…」

 返答は、なかった。

 「しまった。今の言い方は、まずかった」

 が、取り越し苦労だったか。

 母の声は、元気だった。

 「できるわよ。たとえ私たちをここまで追いやってくれた人たち相手で、あっても。私たち家族が、生きるためだもの」

 「お母さん?生きるため?」

 「そうよ。生きるため。私たちが、生きるため。だからお母さんは、そこで働ける」

 「辛くは、ないの?」

 「辛いわよ?でも、辛くはないわ。これで家族が、維持できるのなら。私たちを踏み台に使ってきた裕福なあの人たちにだって、生きる権利は、あるじゃない」

 「お母さんは、強すぎるなあ…」

 「お母さんは、生きるためのあらゆる権利を、行使するの。私たち家族が、幸せになるためにもね」

 「…」

 「ユキノにツキノに、おばあちゃんが笑い合える保証が、あるのであれば…。生きる、ためにも…。私たちは、あの人たちの老いた背中を見られるからこそ、道を忘れずにいこうと思えるんだし」

 母の発言は、恐るべきものだった。

 母は、どこまでも強かった。

 ただ見栄っ張りを続けていた私には、恥ずかしすぎた。照れ隠しに、余計に照れる言葉を使ってみたことがあった。

 「お母さん?再婚しても、良いんだよ?」

 母は、何も、言わなかった。

 だから、それ以上は、何も言わないことに決めた。

 日曜日は、楽しくて、ならなかった。

 私たちは、最高のバカンスを楽しめたからだ。日曜日だけは、母の介護仕事が休みをいただけたので、家族が、そろって集まれた。

 私たちは、4人で、メゾン・オトナシの裏にあった公園へと、出かけた。

 妹は、カノおばあちゃんと、ずっと、手をつないでいた。

 公園へ出発するのは、絶対に、午前中。昼食時間待ちも、最も重要な楽しみだった。

 最高の昼食は、部屋から持参した、弁当だった。

 4人で、たった1つの弁当箱の中に詰められたおにぎりやらウインナーやら卵焼きを、つついた。

 私たちの家族旅行は、それだけで、幸せだった。

 「ユキノ?」

 「なあに?」

 「この生活に、慣れた?しっかりと、やっているの?中学生活は、どう?部活に、勉強に。…ほら。こっちも、食べなさい」

 「ご心配なく、お母さん」

 「ツキノは、どう?幼稚園、楽しい?来年は、小学生だねえ?今のうちに、たくさん、遊びなさい。やることやって、それから、いきなさい。遊びなさい。遊びなさい。ほら。ウインナーも、食べなさい。お絵かきは、上手くなったの?」

 カノおばあちゃんも、加わった。これが、家族なのだ。

 「あら、あらあ。あんまり聞いちゃあ、かわいそうですよ。ユキノちゃんもツキノちゃんも、それぞれ、いろいろ事情が、あるでしょうからね」

 家族の目の前に広げられていたのは、小さな弁当箱に、すぎなかった。

 けれどもその箱は、偉大な宝石箱だった。

 だが…。

 ある週の、日曜日。

 困ったことが、起きてしまった。

 私たちが公園から戻ると、アパートの部屋の前に、黒服の男が1人、立っていたのだ。

 「黒服の男…」

 嫌な予感が、した。黒服は、言った。

 「有限会社ゆとりの者ですが…。お父様から、お話は伺っておりますよね?」

 「もう…関係ないことじゃないですか!」

 そう母が言うと、男は、いきり立った。

 「そうも、いかないんですよ!」

 私たちが部屋に入るのを、足で止めようとした。

 「私たちを、通してください」

 「これ。そこを…どいてくれませんかの」

 「すみません。どいて、ください」

 「入れてよう」

 が、男が私たちを通してくれることは、なかった。おばあちゃんが、怒り出した。

 「ちょっと!あんた!どこのどなたか知りませんが、そんなことして、人を傷付けて!恥ずかしく、ないのかい?私たちの世代が言うのも、変なのかもしれませんがねえ!」

 男は、作法なき言葉を吐いた。

 「ちえっ。暴力高齢者かよ。不況になってからは、こんなのばっかりだ。わかったよ!ここをどけば、良いんだろう!」

 そうして、何かの紙を投げつけてきた。

 「ほらよ。せめてもの、プレゼントだ。バッカスっていう名前の変なおっさんがうちの会社にきてなあ。酒代の借金の証文だって言って、この紙を、置いていきやがった。お前たちの家族に渡せって、な。何だよ。あの、おっさんは!お前たちにこれを渡せば、借金が戻るかもしれんぞって、なあ!」

 「あ。バッカスって…」

 男が、4枚の紙を部屋に放り込んで、ぶつくさ言いながら、帰っていった。

 「お姉ちゃん?」

 「何?」

 「それ、なんてかいてあるの?」

 妹が、私の手を、引っ張った。こんなときまで、積極的なのだった。

 「ユキノ?それ、何の紙なの?」

 「よんでー!」

 私は、仕方なく、読みあげた。

 「バブルカンパニー発行。歌謡ショーの、優待券だって」

 「かよーしょー?」

 「ほほう…。バッカスの、奴め…」

 「お母さん、ほら」

 「あら、本当ね」

 「おねえちゃん?それって、いつー?」

 「来週の日曜日、だって…」

 「やったー!」

 「嫌だなあ。あの黒服の人たちって…?」

 私が不思議を、母が、制した。

 「さあ。忘れましょう。あんな人たちのことは、忘れましょう。それよりも、せっかく良いプレゼントが舞い込んできた。その歌謡ショーに、いってしまいましょうよ。皆で、出かけましょうよ」

 母は、ちゃっかりしていたのだった。

 妹は、その母の提案を、大層喜んだ。

 無理も、なかった。

 これまでの母は、働き詰めだった。私たち家族を、支えるためにも…。

 日曜日には、家族で公園に出かけられていたとはいっても、実のところ母は、非常に疲れていたはず。本当の意味で、良い思いなどしていなかっただろう。

 その状況で、今、歌謡ショーのチケットが手に入ったのだ。それは、家族全体にとっても、素晴らしいチャンスとなった。

 次の、日曜日。

 事件は、さらなる発展を見せていった。



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