第19話 ミマサカさんのLGBT問題

 もちろん、妹からの声だった。

 「お姉ちゃん?また、へんなことを、かんがえていたんでしょう?」

 「そんなこと、ありません」

 いつもの日々が、流れていきそうだった。

 「この部屋の天井は…。いつになったら、見慣れた天井になってくれるの?」

 夕食後、部屋に1人でいた私は、怠惰な牛のようだった。

 「ただいま」

 ヨツヤ銭湯にいっていた妹たちが、帰ってきた。

 妹は、カノおばあちゃんと共に手をつないで、ご満悦だった。帰るなり私を指差して、笑い続けていた。

 「お姉ちゃんったら。こんなときに、うしみたい」

 「こんなときだから、です」

 「へえー」

 「じゃああなたは、こうなって、不満も何もないわけ?」

 私は、大人気なく、いや、中学生っぽくなく、幼稚園児にケンカを売っていた。

 「ここがお父さんの家だったら、良かったのに!そう、思わないの?ここは、いつになったら、本当の居場所に、変わってくれるわけなの?ツキノは、何も感じないの?」

 「…ごめんなさい」

 キッチンにいた母の言葉が、聞こえた。

 「ごめんなさい」

 私も、謝っていた。

 妹が、また、うらやましかった…。

 妹は、妹なりの新しい家族像を認めることが、できていたのだろう。それができない私は、未熟だったのか。

 家族は、変わった…。

 その、形態からして。

 私がまだ小さかったころなどは、夫が働いて、妻が専業主婦となって家庭を支えるということが、当然のように思われたものだ。

 子どもは、2人。

 「夫、妻。子どもが、2人。そうした家族像が、神格化したんだ」

 当然のように、理解していた。

 妹は、これに、疑問だったが。

 「おとうさんにおかあさんに、こどもが、2人。それって、どうして、フツーなの?」

 鋭い指摘を、していた。

 妹にすら疑問に思われていた、そんな神格家族形態だったが、今は、どうなった?

 そうした家族モデルは、今や国の統計上、数パーセントにも、満たなくなってしまっていたようだ。

 私たちは、常に社会の事情に対応しつつ、家族像のバージョンアップに、精を出していくしかないのかも。

 家族像の話になれば、私は、ミマサカ君のことを思い出したものだ。

 小学生時代、私には、ミマサカ君というクラスメイトがいた。ミマサカ君…いや、ミマサカさんと、呼ぶべきだったろうか?実のところ、今でも、良くわからなくなっていたままだ。

 変な言い方かもしれないけれども、彼、いや、彼女、じゃなくって彼?…は、生物学的には、男性。けれども、心は女性。

 そんな、クラスメイトだった。

 ミマサカさんのもった、彼氏と彼女の事情は、ほぐせないパズルだった。

 ミマサカさんには、大きな悩みがあった。

 私がそれに気付いたのは、ミマサカさんのある行動を見たときだった。

 ミマサカさんは、なぜか、トイレに入るのを、異常に恥ずかしがっていたのだ。

 「ミマサカさんって、何を、やっているんだろう?」

 当時の私は、今でならセクハラで注意されそうな観察を、続けていた。

 「どうして?」

 「え?」

 「あのね?…どうして、ミマサカさんは、ためらいながら、あそこに入るのかなあってね…」

 「見ちゃった?」

 「うん…」

 理由を聞けば、それも、そのはずだったわけだが…。

 「見られていたのか…。トイレに入るのには、勇気がいるんだよね」

 「ミマサカさん?それって、どうして?」

 聞くと、ミマサカさんは、辛そうにして、あっさりと、答えてくれたものだった。

 「トラウマに、なっちゃったから…」

 それって、どういうことなのか?そこには私しかいないから、教えてほしいと、せがんでいた。

 我ながら、勝手な行為だった。

 「ユキノちゃん…?」

 「なあに?」

 「ずいぶん前になるんだけど…。公園で、つい、女性のトイレを利用しちゃって、さ。私、男なのに。それで、個室の便座カバーを押し上げたままで、利用しちゃってさ。私、男だから…。でもそれを元に戻すのを、忘れちゃって…。つまりは、その、便座カバーを上に押し上げたままで、トイレから出ようとしちゃったんだ。そうしたら、大変だよ。個室から出た瞬間、運悪く、個室に入ってこようとしていたどこかのおばさんと、すれ違っちゃって…。そうしたら、そのおばさんに、変な目で見られちゃった。怒られて…嫌になっちゃった…。そんなことがあってから、トイレに入ることが、怖くなっちゃって」

 それを聞いて、私も、嫌になってきた。

 「LG BTの、闇だ」

 ミマサカさんは、そう言って、悔やんでいた。

 恥ずかしながら、当時の私は、LG BTという言葉があったということすら、知らなかったものだ。

 そのときに、はじめて知った言葉だ。

 「ごめんね。ミマサカさん?辛いことを、聞いちゃったよね?」

 「いや、構わないよ。LG BTについて周りに知ってもらうことは、望むべくことなんだから」

 「…」

 「あのトイレ事件を起こしたこっちも、悪かったんだけれど…。参っちゃったよ」

 「…」

 「私はもう、私じゃいられなくなっちゃったみたいだもの」

 ジェンダー・ギャップは、心を、むしばませてもいく。

 妹の使いそうな言葉で言えば、こうなったろうか?

 「LG BTの問題は、ときに、アイデンティティを、崩壊に追いやってしまうトリガーを引くものなのかもしれないよね?ねえ、お姉ちゃん?」

 ある日。

 そんなミマサカさんの、悲しんだ様子を見て、養護教諭が、声をかけてきたという。

 「どうしたの?」

 その思いやりに、ミマサカさんは、何も言えずに、泣き出してしまったそうだ。

 「たぶんね…。あのとき私は、私の心の奥に、もう1人の私を閉じ込めようとしていたんだと思う。もちろんそんなことをしちゃったら、私が、苦しみ続けるだけ。それは、わかっていた。わかっては、いたけれど…でもそのときの私は、そうするしかなかったんだと思う。もちろんそんな事情、そんな心の自傷行為なんて思い描いたって、何も、解決にはならない。それは、そうなんだけど…。でも、そうでもしなかったら私は、私を、救えそうになかった…。私は、どんどん追い詰められちゃったんだよね。このままだと、もう1人私が生まれて、多重の闇をさまようことになるかもしれないと、覚悟していた…。私は、悩んだ。どうしようもなく、悩んじゃった。そんなときに、学校の、その保健の先生から、優しい声がかけられた。奇跡だった。もしかしたら、これで私は救われるんじゃないかって…。そう思ったときに、私の心の何かが弾けたような気がして…、私を縛り付けていた何かが切れたのもわかって…私は自由になって…だから私、あのとき私は…泣いちゃったんだよね」

 ゆっくりと、教えてくれた。

 ミマサカさんの悩む姿を見て、その養護教諭は、気付いた。

 「もしかして、この子は、体と心のギャップに悩んでいたんじゃないだろうか?」

 一発で、見抜いていた。

 そうしてその養護教諭は、ミマサカさんを保健室に入れてあげ、菓子を出してくれたのだという。

 「ほら、食べて」

 「…」

 「これ、美味しいのよう。この前、職員室から、もらってきちゃったんだ。って、盗んできたっていう意味じゃ、ないからね?」

 「…」

 「先生、食べてみて、美味しかったんだ。あなたも、これ、食べてみて。幸せで、元気が出るから。このお菓子を作ってくれた職人さんって、どんな思いで、このお菓子を作ってくれたのかしらねえ?」

 「…」

 「お菓子をたくさん売って、たくさんお金が欲しかったからなのかしらねえ?」

 「違うかも…」

 「そうねえ。さすがに、それはねえ」

 「…」

 「じゃあ、どういう思いで、このお菓子を作ってくれたのかしらねえ?」

「…」

 「美味しい?」

 「…うん。たぶん、その職人さんは、皆を幸せにしたかったんだと、思う」

 「そうか。皆を幸せにするために、このお菓子を、作ってくれたんだ」

 「そうすれば…」

 「そうすれば、なあに?」

 「そうすれば、作ってくれた人だって、幸せに、なれるから」

 「そうなんだ」

 「たぶん」

 「そうね。そうかも、しれないわねえ」

 「お金なんて、それからの、ことだもん。職人さんは、まずは、皆を幸せにしてあげなくっちゃならない」

 「そっか」

 「そのために、この菓子は生まれた…」

 「そっか」

 「そうねえ。うーん。そうかあ。あなたの言う通りなのかも、しれないわねえ?」

 「そう?」

 「そうよう。きっと、ね。職員室の先生たちに、聞かせてあげたいわ」

 「でも…」

 「でも?」

 「でも、先生には、理解できるか、わからない」

 「そうかもね」

 「特に、今どき世代の、若い先生。私…、怖い」

 「…」

 「先生?」

 「なあに?」

 「ありがとう」

 「あのね…?ミマサカさん、だったよね?ミマサカさんは、怒ったり、しないでね?」

 「何?」

 「あなたは、身体と心のバランスのことで、悩んでいたんじゃ、ないのかな?」

 「それ…どうして!」

 「わかるわ。何となく」

 「先生は、すごいなあ」

 「課題発見能力、よ?」

 「課題発見能力…」

 「これに、課題解決能力なんかが備わっていれば、まともな先生っていえそうなんだけれどね?私には、これが、上手くできているのかしら?」

 「できていると、思います」

 「そっか…」

 「だって、私、うれしいもの」

 「そう言ってもらえて、良かったわ」

 「でも、職員室の若い先生には、こういうことは、できません」

 「そうかもね」

 「それって、なぜなんですか?」

 「え?」

 「同じ学校の先生なのに、どうして、こうも、差が出てしまうんですか?」

 「…そうねえ。いくつもの事情が、異なってきていたからかしら」

 「いくつもの、事情…」

 「今どき世代の先生とは、生活上の背景なんか、とんでもなく、違ってきたわけだしねえ…」

 「…先生の中には、どう見ても、先生と呼べないような心のレベルの人間がいます」

 「ミマサカさんは、厳しいわねえ。でも、それは、否定できないかもねえ」

 「…」

 「私は、この仕事をはじめて、たくさんの子たちと接してきた。たくさんの悩みを、たくさんの事情に押し込めて、生きていた。それを、ずっと、見てきた。だから、あなたのことも、わかったのね」

 「学校の先生って、すてきなんですね?」

 「そう?でもそれは、違うわ」

 「そうですか?」

 「そうよう。ミマサカさんが、さっき、言ったじゃないの」

 「え?」

 「…先生の中には、どう見ても、先生と呼べないような心のレベルの人間がいますってね」

 「ごめんなさい」

 「良いのよ。それが、現実なの。悲しい話だけれどね…。学校の先生の中には、ひどい人も、いる。良い先生仲間が、迷惑。かわいそうよ」

 「ひどい先生が、いるんですか?」

 「ええ。先生の中にはね?児童生徒を金づるだとしか考えられない人たちが、いるんだもの」

 「…」

 「うん。そう。情けないよね」

 「情けない?偉いはずなのに?」

 「…」

 「学校の先生って、偉いんじゃないの?」

 「残念だけれど、偉くなんか、ないわ」 

「そうなんですか?」

 「ええ。それが、現実」

 「ひどい。戦争ですよ、それって。そんな先生は、戦争の中の人ですよ」

 「そうね…。悲しいけれど、これ、戦争なのよね?」

「でも、先生は…」

 「何があったのかな?」

 「…」

 「先生に、話してごらん?先生だって、身体と心のバランスに、悩んでいるの。君と、同じように。先生に、話してみて。先生なんかさ、今は女だけれど、男になっちゃうことも、あるんだよ?」

 「それ、本当なんですか?」

 「本当よ。もうひとつ、お菓子、食べて。美味しいでしょう?」

 「…」

 「ね?美味しいでしょう?」

 「…」

 「どう?」

 「…」

 「美味しい?」

 「…うまか」

 その養護教諭の先生は、その後も、ミマサカさんの、良き相談相手となったようだ。

 養護教諭は、職員室にいってくれて、良く説明をしてくれた。そのことで、ミマサカさんは、職員トイレを使えるようになり、問題は、落ち着けてきたのだそうだった。

 ミマサカさんは、中学生となった今でも、私と仲の良い同級生の1人だ。

「それで、その養護教諭の先生とは、どうなったの?」

 私が聞くと、ミマサカさんは目を閉じた。

 「次の年、違う学校に移っちゃった…」

 「そういえば、そうだったかもしれないなあ。保健室の先生、替わっちゃっていたんだよねえ。良い先生だったのに…」

 私も、懐かしんでいた。

 「ねえ、ユキノちゃん?きっと、ああいう人を、本当の学校の先生って、いうんだろうねえ?」

 「ミマサカさん。良かったね?」

 「お菓子、美味しかった…」

 「そうかあ」

 「幸せの味、だった」

 養護教諭の先生は、子どもに寄り添って、一緒に考えてあげることで、解決法を見出そうとしていたのだった。

 その先生もまた、身体と心のバランスに、苦しんでいたとは。

 それならなおさら、子ども目線の貴重な相談になったに、違いなかった。

 「ユキノちゃん?」

 「何?」

「あの先生も、女だけれど、男になっちゃうことも、あるんだって」

 「ふうん」

 「サオトメ先生っていう、名前だった」

 「そう」

 「絶対に、忘れない」

 ミマサカさんは、気高く、顔を上げた。

 「私は、サオトメ先生のおかげで、精神的に楽になった」

 ミマサカさんは、ミマサカさんなりの根拠あるアイデンティティを、獲得できたのだ。

 ミマサカさんとのおしゃべりは、勉強になった。ミマサカさんは、家族関係にも、悩んでいた様子だった。

 「父さんも、僕と同じようなものだった」

 「どういうこと?」

 「父さんも、悩みの中だった。私と大きく違うのは、父さんは、身体上の性別が女だったという点。だけど、心の中の性は、男。いわゆる、トランスジェンダーって呼ばれる人になるのかな?」

 意外な事実をも、教えてくれた。

 ミマサカさんのお父さんは、生まれてまもなくのミマサカさんを、パートナーであった女性と共に、育ててくれた。

 パートナーとは不思議な言い方かもしれなかったが、仕方がなかった。今の法律上では、その人は、ミマサカさんの母親とはならないためだ。

 「なんか、良くわからないけれど…。ミマサカさんのお母さんっていうのは、ミマサカさんのお父さんっていうことに、なるの?」

 そう私が聞くと、ミマサカさんは、首を横に振った。

 「私にも、良く、わからない」

 ちなみに、ミマサカさんのお父さんは、学生時代の先輩から精子を提供してもらい、人工授精という方法をとることを、選択。

 それによって、ミマサカさんのお父さんのパートナーである女性が出産したという。

 「何だか、良くわからないでしょう?」

 「うーん…」

 「難しいよね?」

 「たしかに、難しい」

 「私にも良くわからない事情で、私は、生まれてきちゃったんだよね」

 「そっか」

 ミマサカさんのお父さんは、どんなことを考えて、そのパートナーという人と共に、ミマサカさんを育てていたのだろうか?

 複雑すぎる事情の糸も、あるものだ。

 性同一性障害で、新たに男性の性別をもった元女性が、結婚後に、第三者から精子を提供してもらって、子どもをもった…。

 ミマサカさんのお父さんのケース、だ。

 しかし生まれてきたその子は、嫡出子として、認められるものなのだろうか?

 「まだ、裁判でも、はっきりしないまま。嫌になっちゃう。私は、私なのかな?私の家族は、私の家族なのかな?」

 ミマサカさんは、そんなことも言って、何とも例えようにないくらいに織り込められた表情を、見せてくれていた。

 私はと、いえば…。

 新しく私たちの家族に加わって、一緒に住むことになった、カノおばあちゃん。

 「じゃあ、あのおばあちゃんは、本当に、私の家族なんだろうか?」

 私も、わけがわからなくなってきた。

 中学校からの、帰り道。

 私は、ミマサカさんと話をするのが、好きになった。何も、興味本位に話をしていたりしていたのでは、なく。

 「つらかった。とっても、つらかった」

 ミマサカさんは、何度となく、つぶやいていた。

 「何が、一番つらいって…。誰かに何かを言われたわけではなかったのに、なぜだかさみしくて、さみしくって、仕方がなかったこと…。そして、その思いがなかなか消え去ってくれないのが、一番、つらかった」

 ミマサカさんは、また、こんなことも教えてくれた。

 「実は…。私、保育園に通っていたころにも、そのさみしさを増大させる事件に、出会っちゃったんだ」

 夕方の保育園には、歓声が、こだまする場だった。

 保育園から帰宅するため、子どもたちのもとに、父親や母親から、お迎えがくるからだった。それを待ち遠しく待っていた子どもたちが、喜びの声を、上げていたのだ。

 「あ、きた!おとうさーん!」

 「お迎えに、きたよ」

 「おかあさーん!」

「さあ。一緒にお家に、帰りましょう」

 その光景を見れば、多くの人が、こう感じたかも、しれなかった。

 「ああ。やっぱり家族って、良いね」

 たしかにそれは、ある意味では、理想的良い家族像ではあったのかも。

 だがそれは、ミマサカさんにとっては、違った感想となった。

 「ユキノちゃん?私には、恐怖でしかなかった」

 「どうして?」

 私が聞くと、ミマサカさんは口を濁した。

 「ああいうのって…。感動的な、理想的親子の対面場面だって、思っちゃうよね?」

 「まあね」

 「でもね。気付いちゃったんだ」

 「気付いたって?」

 ミマサカさんは、肩を落とした。

 「自分の残酷さに、気付いちゃったのさ」

 「ミマサカさんの、残酷さ?」

 「うん」

 「だって、さ…」

 「なあに?」

 「だって、そうじゃない。あのとき、保育園の友達のお迎え姿を見て…。良いなあって…。あれが良い家族っていうものなんだろうなあって、思っちゃったんだから」

 ずいぶんと、悲しそうな顔、だった。

 「え?そう思っても、普通じゃないの?」

 そう私は言ったが、ミマサカさんには、何のケアにもならなかったようだ。

 「普通って、何なのかな?」

余計なことを、考えさせてしまっていた。「普通は、普通…」

 「そうかなあ、ユキノちゃん?」

 「…」

 「でもね、ユキノちゃん?」

 より、真面目な顔をしただけだった。

 「私は、結局、私の怖さが、わかっちゃったんだよね」

 「ミマサカさんの、怖さ?」

 「うん」

 「ミマサカさんの、怖さ…」

 「…怖いよね?私、無意識に勝手な家族像を作って、認めてしまっていたのかもしれないんだもの」

 「ああ…」

 「ユキノちゃん?それって、怖いことなんじゃない?」

 「そう…か」

 ミマサカさんは、知らず知らずのうちに、彼、いや、彼女の事情にフィルターをかけてしまい、安住しようとしていたのだ。その安住に慣れてしまえば、そのフィルターを、はがせなくなってしまうというのに。

 ミマサカさんは、苦しんだ。

 事情の糸をほぐすどころか、かえって複雑にしてしまっていたことに、罪悪の糸さえ張り巡らせて、苦しんでいたのだった。

 「家族って、何だろう?ユキノちゃん」

 ミマサカさんは、苦し紛れに笑っていた。それを見ると、私は、口が重すぎてしまい、開けることができなくなった。

 遠くて、近い記憶だ。

 私は、今の現実に戻った。

 妹のこと、母のこと、カノおばあちゃんのこと、メゾン・オトナシのことなどを、考えていた。

 「私たちは、どうなっちゃうんだろう?」

 妹は、カノおばあちゃんと、ずいぶんと、仲良くしてくれていた。手も握ってくれて、母とも一緒にどこかに出かけては、笑っていたものだった。

 でも私には、その付き合いが、まだ、できなかったわけで…。

 「どうしたら、良いんだろうか?私には、妹とは決定的に違う点が、あったのかも。ミマサカさんともまた、違った点が…」

 たとえば、血がつながっていたから家族だと断言できるわけでは、必ずしもなく…。

 瞬間、心、重ねた絆ができるからこそ、家族となれるのかも、しれなかったのだ。

 過去の理想像にばかりとらわれてしまっては、苦しくなる一方だ。

 様々な事情の糸が、私を、絡めにくる。

 妹は、それでも、生き方の再構築を進めようと、がんばっていたのに。

 「負けたくないなあ…」

 心底、そう思わされていた。

あの事件が起こったのは、その翌日のこと、だった。 









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る