第18話 ICカード世代の面白さ
「お母さん、よかったねー」
「ありがとう、ツキノ」
妹と、手を取りあっていた。
良かった。
母は、精神的にも、元気を取り戻してくれていたようだった。母とのおしゃべりは、待ち遠しい海のような、華やかさだった。
「待ち遠しい、海…。母の、海…これ、何だっけ?まあ、いっか…」
「お母さん!おしゃべりしようよー」
「ツキノは、元気ねえ」
私たちのおしゃべりは、他の人から見れば、どうでも良いような内容だったのかも、しれなかった。
が、私たちには、それで、良かった。
決して邪魔者扱いしていたわけではなかったが、私たちは、カノおばあちゃんが外出したときなどを中心に、母や妹とのおしゃべりを、存分に楽しんでいた。
「ねえ、お母さん?」
「なあに?」
「私たち、ここまで、何できたと思う?」
「そりゃあ、車でしょう」
「違うわよう。だって私たち、まだ、運転できないよ?」
「あら?ミタライさんに送ってきてもらったんじゃ、ないの?」
「ブー」
「ぶー」
ツキノが、加わった。
「私たち、電車で、きたのよ」
「電車で?」
「荷物も、あったし」
「あったしー!」
「そう。荷物。そうよねえ…」
「小さな物、すぐに必要な物だけを、ボストンバッグに入れて、運んできたの。大きい物なんかは、明日あたりに、届くみたいなんだけれどね…」
「大変だったでしょう?」
「ううん。平気」
「ちゃんと、きたー!」
「でもさあ。心配、心配。ツキノは、電車に、乗れたのかい?」
「大丈夫。私が、ついていたんですもの」
「そうじゃなくって…」
母は、心配していそうでいて、笑いを堪えるような顔を見せていた。
「どうしたの?」
「どうしたー」
「あなたたち、切符を買って、電車に乗ったんでしょう?」
「もちろんよ」
「でんしゃ」
母が、さらに、意味深に笑い出した。
「ツキノは、切符っていうものを、知っていたの?ちゃんと、買えたの?」
「私が、教えてあげた」
「きっぷ!」
「そうだったの…。ツキノはICカードしか見たことがないんじゃないかと思って、それで、ちょっと、気になっていたのよ」
「ふうん…あ!」
母の言葉に、私は、おかしかったの何の。
予想通り。
やっぱり母は、私と同じように、切符事情を、心配していたのだった。
「車窓の流れは、どうだった?」
「うん。快適、快適」
「へんなの、とんでた」
「変なの、飛んでたっけ?」
「へんなの」
「あれは、飛行機って、いうのよ?」
「やだ、あなたたち…。なあんだ、飛行機のことを言ってたの」
「ツキノ、わかる?飛行機だよ」
「わかるよー。ツキノ、小学生に、なるんだよ?」
「ちぇっ…。切符も、知らなかったくせにさ」
「ほら、あなたは、お姉ちゃんなんだから、そういうことを言わないの」
「わかったわよう」
「おもしろーい」
「ねえ、ツキノ?」
「また、おもしろいの?」
「飛行機、か…。ねえ、ウィルバーとオービルっていう2人のライト兄弟が初めて飛ばしたっていう、動力付き操縦機体のことなんだけどさ…」
「らいちょ?」
「あの2人兄弟は、偉かったわねえ。2人だけの、栄光。みたいな。何だか、私たちに通じる?」
「そうそう。じゃなっかった。これからはおばあちゃんも一緒にして、考えなさい。それに、この母だっているんですから、2人だけの何とやらっていうのは、寂しすぎ。うちの家族は、4人でしょう?」
「そうだったね。いけない、私」
「長女の面目、丸つぶれ…」
「いや…。お母さんさあ、そこは、関係ないし」
「…どうだか。ツキノは、どう?かわいいあなたのお姉ちゃんは、しっかりとやっていましたか?」
「もう。お母さんは、やめてよう」
「あ、らいちょきょうだい」
「何よ、もう。妹は、良いわねえ。かわいい仕草で、許してもらえるんだからさ」
「ねえ、お姉ちゃん?らいちょきょうだいなら、ツキノも、しってるよ!でもね、お姉ちゃん?」
「はい、はい。何ですか?」
「らいちょきょうだいは、2人だけじゃないよ?」
「え?何、それ。どういうこと?」
「それなら、私も」
「何よ、お母さんまで。ライト兄弟って、2人兄弟じゃなかった?」
「ちがうわよう」
「おねえちゃん。ぶぶー」
私は、ほお杖を、ついてしまっていた。
「ツキノ、見た?これが、お姉ちゃんなのよ?」
「みた、きた、かった」
「はあ?」
「あ、まちがっちゃった。お姉ちゃん、ごめん」
「あら、あら。この子ったら…」
「ツキノ、まちがった。きた、みた、かった。だったとおもう」
「何、それ?」
そう返すべきでは、なかった。
「あら、あら。お姉ちゃんのくせに、何にも、知らないんだから」
母に、笑われてしまった。
「おねえちゃんは、きた、みた、かったを、しらないんだ」
「だから、何よ、それ?」
ローマ軍の逸話だということを、教えてもらった。
こんなときにまで、母の教育が、待っていたとは。
昔、昔、ローマの将軍カエサルが、ポントス王を戦いで討ったときに、友人にあてて書いた手紙の文だという。世界に名だたる単純明快、簡潔な文として、知られていたようだ。
私は、知らなかったが。
「敵が、きた。私は、それを見た。戦って、勝った」
そういうことを伝えていた文、だったそうだ。
「ふうん。…で、お母さん?」
「あら、何?」
「最近ね、この界隈に、ローマが多いらしいよ?」
「この子は、また、何を言うかと思えば…。勉強の、しすぎじゃないの?」
撃沈された。
「勉強しろって言ったのは、お母さんじゃないの」
歯がゆかった。
ただ、もっともっと歯がゆかったのは、次だった。こんなことを、言っていたのだ。
「ツキノは、良く、できました。さすがは、娘。かわいい子、ですね。お姉ちゃんは、まだまだですねえ」
妹の笑顔に、嫉妬すら、覚えていた。
「ツキノ?あなたのお姉ちゃんは、こういうことも、知らないのよ?」
「こまりまちたねえ」
「困りましたねえ…」
嫉妬が、深まった。
「何よ、2人とも!学校の先生だって、そんな、ローマ軍の逸話、知らないわ!」
「当たり前じゃないの。ねえ、ツキノ?」
「ツキノも、そう思います。ねー。お母さ
ん?そういうきそちしきがなくても、がっこうの先生には、なれるんですよー?」
「ふんだ」
「あれが、長女」
「お姉ちゃん、だっさいなあ」
「ツキノ?ライト兄弟は、たしか、5人兄弟くらいじゃなかったかしら?」
「そうだよねー。お母さん?」
母が、ニンマリして言い、妹が、それに、見事に唱和していた。った。
「きょうだい、いっぱい。るくらん、ろーりん、きゃさりん、うぃるばー、おーびるだよ?おそらとんだらいちょきょうだいは、その5人の中の、2人だよ?」
「ふうん」
「あっ…。でも」
「ツキノー、何?」
「でも、お姉ちゃん?」
「何?」
「らいちょきょうだいは、5にんじゃなくって、7にんきょうだいだったっていうせつも、あるんだよ?」
「ふうん。昔の戸籍なんか、当てにならないのよね」
「あら、戸籍問題なの?」
「良いじゃないの」
「当てにならないのは、あなたのほうじゃないの。そうよねえ、ツキノ?長女なのに、当てにならないわよねー?」
「ツキノも、がっくり」
「まーた、そう言う…」
「あなた、長女でしょう?しっかり、しなさいよ」
「何よ、それ…」
「お姉ちゃん?かぞくがふえて、良かったねー。ツキノ、うれしい。今の、ツキノたちみたい」
「そうね、ツキノ?」
「え?」
「あなた…。何を、驚いているのよ。ここで、長女の貫禄を見せなくっちゃあ、ダメじゃないの」
「…」
「カノおばあちゃんと私が加わって、賑やかな、ライト家みたいじゃないの」
「にーやか」
「そうよ。ツキノは、偉いわねえ。ユキノは、まだまだよ」
「…」
「お姉ちゃんの、クセにねえ」
「…」
「あ、ツキノ、おもい出した。その、もう2人のらいちょさんは、早くしてなくなっちゃったんじゃなかったかなあ…?だから、わすれられちゃってたんだ。だれかがおもいい出してあげれば、よかったのにね…?」
「ふうん」
「そうしたら、きせきがおこるかも!」
「そうかなあ?」
「そうね…。命、そして、存在価値を見出してあげれば、奇跡が起こる。ヘレン・ケラーの話のように」
「あ…それ!」
「何、ユキノ?」
「…何でもないわ」
「お姉ちゃん、しらなかったんだー!」
「ちょっと、忘れていただけです」
「うっそー」
「長女の面目、丸つぶれね」
「もう!そうじゃないでしょう、お母さん。まあ、いいや。ライト兄弟って、2人兄弟だと思っていた人も、多いでしょうね?」
「でしょうね」
「らいちょー。えるー。きらー」
「ツキノは、優秀ね。お母さんに、似たのかしら?」
「ツキノ、しってたよ?で、おそらとんだのは、お兄さんじゃなくって、おとうとのほう。おーびるちゃん」
「ツキノは、成長しているのねえ。何で、そういうの知っているのかしら?」
「そりゃあ、私の子どもだからよ」
「らいちょー!えるー。きらー」
「機械化慣れしたツキノを見ていて、かわいかったのに。この子は、我が妹ながら、怖いわ」
「我が妹、ながら?」
「うん」
「我が妹だから、じゃなくって?」
「言うなあ。お母さん」
「ツキノ。こわくなーい!」
「ねえ、お母さん?」
「何?」
「ツキノたちは、この社会の機械化が急に止まって、すべてが手動に切り替わっちゃったら、どうなっちゃうんだろう?」
「そうねえ、怖いわねえ。我が子ながら」
「静止した闇の中で生きていくには、ちょっち、きついかもね…」
「そうね。ポテトチップス、食べる?」
「食べる、食べる」
「ツキノも、たべるー!」
「このポテトチップスは、ミタライさんから、いただきました」
「あの人、用意が良いのねえ」
「ちゅごい!」
「ほら、食べましょうか」
「やった」
「わーい!」
「あら。ユキノ?」
「何?お母さん」
「ユキノったら、面白い。ポテトチップスを、箸を使って食べるなんて。いつもそうやって、食べていたの?」
「うん。手が、汚れるから」
「ツキノもー!」
「ツキノには、それは、早い。もう少し大きくなったら、そういう食べ方をしてもよろしい。姉からの、命令です」
「えー」
「女の子は、エレガントに」
「あなたも、言うじゃないの。長女だから、威張っちゃってるのかしら?」
「いばっちゃったー」
「ツキノ?今は、子どもらしく、手で食べなさいよう」
「我が子ながら…。子どもらしく、か。格好、つけちゃって」
「何、お母さん?」
「おお、怖い」
どうでも良さそうなそんな話が、私たちにとっては、幸せだった。
女同士の話は、男の感覚からではどうでも良さそうなことが、意外にも、盛り上がりを見せていくのだ。
決して、男女差別のつもりじゃ、ないけれども。
これが男の会話だったなら、どうだろう?
これまでの流れを、まとめると…。
男同士では、こんな会話になりがち。
「ここまで、何で、きたと思う?」
「車」
「違う」
「電車」
「正解」
「ちゃんと、乗れたのか?」
「乗れた」
「ライト兄弟って、知ってるよな?」
「ああ。でも、そういう話はいらない」
「ポテトチップス、食べるか?」
「いらん」
…会話、終了!
男の会話は、一見して、情報を的確に、端的にビシッと伝えているように見える。だがそこには、共感がない。
感動も、ない。
何だか、うつろな、教育現場だ。
これが女同士の会話では、他人の気持ちを受け止めて、感じて、共に考えてあげられるものに変わるのだが。
私たちには、そういう流れるコミュニケーションゲームが楽しくって、ならないのだ。
女の会話は、流れるプールだったのだ。
私たちのコミュニケーションゲームでは、必ずしもそのゲームをクリアをするのが目的なのでは、なかった。
むしろ、ゲームクリアを回避してでもおしゃべりを続け、新しい世界を作っていきたいと、願っていたものだ。
これからも、日々成長を重ねていくべき私たちは、お互いに、プライバシーなどを尊重しながらゲームを続けていき、相手のパーソナルスペースを侵すこともなく、豊かな心のステージを、作っていけることだろう。
私は、母たちの領域を、侵さない。
でも、困ったこととかが起きてしまったのなら、いつでも会話を重ね楽しんだりして、様々な事情のバランスをとっていけるよう、努力する。
私たちは、とりあえず、他の住人の方に、挨拶をしにいった。
「お姉ちゃん?わたしが、やる!」
私は、妹に、各部屋をノックする仕事を奪われた。
何もできない、金魚のフンと化していた。
「ドン、ドン、ドン」
妹は、本当に、楽しそうだった。
「お姉ちゃん、いないよ…?」
「みたいですねえ」
ほとんどの部屋から、うんともすんとも、返事がなかった。
「お姉ちゃん?しごとが、なくなった」
「それは、私のセリフです」
「ねえ?住んでいないのかなあ?」
「どうなんでしょうねえ?」
「あ…」
いくつかの部屋からは、応答があった。
出てくれたのは、まず、1 10号室の、ハナエさんという方だった。
この方は、母と同じくらいの年齢の女性。
「あらあ。新しい方。庭を、見ました?犬小屋、見ました?なぜか、いなくなっちゃったんですけれどねえ」
「そうなんですか」
「今度、飲みましょうよ!」
「ええ」
「さみしい気持ちを紛らわせてくれる、良い酒があるのよ。飲みましょう」
「ありがとうございます」
陽気な人、だった。聞けば、以前住んでいた犬は、こんな、勇ましい名前だったらしかった。
「マーズ」
マーズは、規則通りに生真面目に動き、庭を守っていたそうだ。それはそれは、しっかりとした、勇敢な戦士だったそうな。
マーズは、その庭に、穏やかな農耕風景を夢見て、平和を願ってくれてでもいたのだろうか。
「農耕風景、か…。サートゥルヌスっていった、さっきの神様みたいね。ツキノ?」
「うん。あの入り口も」
「ツキノ?あの、入り口?ヤヌスっていう、あの門のこと?」
「うん。そういえば、お姉ちゃん?」
「何ですか?」
「ツキノ、おもいだした。ヤヌスも、ローマしんわのかみさまのなまえだよ?」
「えー?やっぱり、そうよね?図書館で、読んだもの。私たち、ローマ神話の神様に囲まれてばかりじゃない」
「みたい」
「何で、ローマ神話なんだろうねえ?」
「ツキノ、わかんない」
「だよねえ」
「まあず、も」
「マーズ、も?やっぱり、みんな、ローマ神話なのね?そんなにも、ローマ神話が、流行っていたのかしら?」
「お姉ちゃん?ごうかくです」
そう言われても、どんな顔を返して良いやら、わからなくなった。
「ねえ、ツキノ?私たちは、ローマ神話の神々に囲まれて、どう生きていけるんだろうね?」
「ツキノ、わかんない」
そこは、不思議な不思議な、建物だった。
ハナエさんが、たくましく笑っていた。とりあえず、ハナエさんは、これからも、母と気を合わせていってくれることだろう。
それから、1 18号室の、ノゾミさん。
私たちの部屋1 19号室の、お隣りさんだ。
「ご挨拶。ご挨拶」
「ごあいさちゅー」
ノゾミさんは、大学生。私よりも年上の、良き相談相手に、なりそうだった。
私たちが挨拶しにいくと、ノゾミさんは、びっくりした表情を、浮かべていた。
「引っ越し先で他人に挨拶する意味が、わからない。そんなことする人がいたとは」
そんな、今どき社会の事情セリフを、言うのだった。
「私…。1人っ子で…甘やかされて育っちゃったこともあったからか、他人に挨拶する人の気持ちが理解できないんです」
「へー…」
「またねー」
私たちは、あとで遊びにいこうと、思った。
2階、2 02号室で顔を出してくれたのは、同じく女性、イブキさんという方だった。
他は、返事なし。
引っ越しの挨拶なんて、こういうもの?
あっという間に、1週間が過ぎた。
「田舎だなあ。のんびりできるなあ。それなのに、変だなあ。何だか、私たちの心が、プンスカ。プンスカ。必要以上に、くすぶっている」
私は、私たちの家族部屋に寝そべって、その見知らぬ天井を見上げた。
妹も、私の真似をしていた。
そして私は、それがまだ見知らぬ天井であることに不満を抱きつつ、ぼんやりとし続けていたのだった。
「お父さんが建ててくれた、あの、家…。今ころは、どうなっているだろう?」
そうぼやく私の隣りで、妹が、立ち上がった。
「ツキノったら…。機動戦士みたい」
「あ!お姉ちゃん?」
「何ですか?」
「今のことば、もらっちゃったもんね!」
「はあ?」
立ち上がった妹は、座りなおして、本を、読んでいた。
もう、ここに慣れたのだろうか?妹は、私と違い、積極的で順応性が高いのだ。
「ねえ、ツキノ?」
「おねえちゃん、なあに?」
「何の本を、読んでいるの?」
「たのしい、ほん」
「もしかして、この前新しく見つけた公民館図書館で、借りてきた本?ツキノは、活動的なのねえ。何の本?見せて」
妹の読んでいた本のタイトルを、見た。
「うわ」
「規則正しいシンギュラリティ社会におけるアカデミックイデオロギーの終局、及びその対策について」
それが、その本のタイトルだった。
「また、そんなの、読んでるし…」
私は、目をそらして、天井を見上げた。
「もう、1週間。されどまだ1週間、か。この部屋の天井は、いつになったら、見知らぬ天井から見慣れた天井へと、変わってくれるの?私たちの新しい、家…」
私がぼんやりしていると、頭後方から、困った声がかけられた。
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