第13話 事情の糸の、駆け引き
「ツキノ?」
「なあに?」
「しばらくは、この町とも、お別れになっちゃうかもよ?バイバイ!」
「おわかれ?」
「ツキノも、バイバイして!」
「やだ。またね!」
「あ…」
妹の言葉を聞いて、私は、顔から火が出るほどに、恥ずかしくなった。
「バイバイ」
それは、言いすぎな、言い方だった。
私は、そのとき明らかに、別れを決定付ける言葉を言っていた。その言いかたは失敗で、…不安だった。
あたかも、帰還を否定してしまうような言いかたになっていた。
そんな私にたいして妹は、どうだったのか?
ちっとも、不安な素振りは見せていなかった。
「またね!」
健気だった。
妹の気持ちに、負けそうになった。姉としては、だらしがなくてならなかったと、反省しきりとなった。
「私…。ここに、かえってくるからね」
妹は、そういった意思を表明していたことの、証だった。その地に父が眠っているとは知らないだろうが、…もっとも、いつかはわかるのだろうが、そこに戻る意思を見せ付けていた。
「負けたくないなあ」
姉としても、正直な、私の気持ちだった。
「ほら、ツキノ。バイバイして!」
そんなことを言ってしまっていた自分が、何と恥ずかしく、情けなかったことか!
おそらくは、顔が、真っ赤になっていただろう。
「しずかだね。おねえちゃん?」
「そうね…」
「でんしゃで、ごー」
「大丈夫よ。それほど遠くにいくわけじゃあ、ないんだから」
「ちかいの?」
「近くはないけれど、遠くでもないわ」
「なぞなぞ、みたい」
「そうね」
「ちかくないけど、とおくない」
「そうね」
「とおくない。よかった」
「うん。良かったよね?幼稚園とか、変えなくって、良いからね?」
「良かった。おひっこししても、はとぽっぽようちえん、また、いけるんだ」
「そうよ?」
「はいちゃさんも、かえなくて、いーの?ねえ、はいちゃさんも?」
「うん。変えなくて、OK」
「でも…。ふしぎ」
「何が?」
「はなれているかもしれないけれど、ほんとうは、はなれていないものが、あったんだから。それが、わかってきたきがするから。それに、かえちゃいけなかったものに、かえなくっちゃいけなかったものが、あったんだってことも、わかった。ふしぎ、ふしぎ。ツキノ、せーちょーしたのかな?」
妹は、哲学的なことを言っていた。
「そ、そうね…」
破れかぶれの気持ちで、返していた。
「わたしたちって、いつだって、そんなじじょうのいとのかけひきを、しているの」
さらには、そんなことまで、言っていた。
犬猫パンチをもらった感じ、だった。
「事情の糸の、駆け引きですって!…ツキノ、その言葉、どこで?」
私がそう言ったとき、駅構内で、アナウンスが流れた。
「電車が、到着いたします」
私は、焦った!
「やば!早く、切符を買わなくちゃ!」
この高前駅から伸びるは、田舎路線。
今くる電車を逃したら、次発まで、30分は待たなければならなかった。3分待てば次発がやってくる都会とは、違ったのだ。
「切符は、お姉ちゃんが、買う!」
「きっぷ?」
「とにかく、おとなしくしていて!」
「きっぷー?」
「ツキノの分も、買うから!」
妹は、急いで動く私の右側に立ちながら、怪訝そうな顔つきだった。
「おねえちゃん?きっぷって、なあに?」
「いいから!」
「いいの?」
「何が、疑問なのよう?」
「なにを、かうの?」
「ほら、切符、買えたわ!急ぐわよ!」
「おねえちゃん?きっぷって、なあに?」
私たちは、無事、電車内に滑り込んだ。
「駆け込み乗車は、危険ですので、おやめください」
そんなアナウンスが構内に流れたが、悩まされるばかりだった。
「駆け込み乗車は、やめてください。それはわかるけれど、どうして、客が駆け込んで乗車してから流れるんだろう。意味、わかんないよね」
「わかんなーい!」
悩まされる私たち、だった。
「間に合ったね、ツキノ?」
横を見れば、妹が、なおも、悩み顔。
ギリギリセーフの私の安堵をよそに、穴の開けられた切符を手にとり、新たな哲学に挑戦していたところだった。
「おねえちゃん?これが、きっぷ?」
ガタン。
電車が、動き出した。
「そうよ」
「これが?ただの、かみ」
「それが、切符っていうのよ?」
「ただの、かみ」
「紙…、神。おっと、イントネーション、違うじゃないの。って、私ツッコミ!」
「おねえちゃん。なにを、いってるの?」
「ごめんなさい。何でも、ありません」
「おねえちゃんは、おねえちゃんなんだから、しっかり、してください。みほんに、なってください」
「失礼、いたしました」
「ただの、かみ…」
「でもね、ツキノ?電車に乗るためには、これが必要なの」
「ただの、かみなのに」
「うん。紙だけれど、お金と同じ価値をもっているのよ?」
「ふーん」
「わかった?」
「そっか。これが、これにのるためにはひつような、その、げっぷじゃなかった、きっぷっていうものなんだね?」
「そうです。ツキノは、また、成長できたみたいね?」
「せーちょー」
「でも、決して、げっぷでは、ありませんからね」
「どうして?」
「どうしてって…。げっぷは、おじさんが好きなものでしょ?ツキノには、似合わないから、ダメなのよ?」
「にあわないと、ダメなんだあ」
「そういうことに、しておいてください」
「わかりまちたあ」
「そういうの、どこで、覚えたのかしらねえ?」
「おねえちゃん?」
「はい、はい」
「げっぷは、うしににあうよね?」
「そうかしら?」
「うしとげっぷも、じじょうのいと」
「はあ…?」
「おねえちゃん?げっぷをしているうしをみたら、ちゅういすることですー!」
「そうなの?」
「うしのげっぷは、めたんがすをはっせいさせて、おぞんそうを、はかいします」
「良く、知ってるのね。その、年齢で…」
「ツキノは、また、せーちょーしました」
「そうね」
「げっぷー」
「あなたは、すごいのね。牛にも、げっぷにも、いろんな事情があったってわかったんでしょうね」
「…きっぷ」
妹が、切符を、見つめた。
妹の手にかかれば、話題は、ころころと、変わっていくのだった。
「ツキノ?」
「なあに、おねえちゃん?」
「切符が、そんなにも、面白いの?」
「きっぷ。げっぷ。ツキノ、こういうのみたの、はじめて」
「そうだっけ?」
「でも、おかしいなあ…?」
「ツキノ、何が?」
「でんしゃにのるときって、かたいかみをかざせば、よかったのに」
「堅い、紙…?もしかして、ICカードのことかしら?…そっか。今どきの子って、切符っていうものを知らずに、育つのね」
「…」
「ツキノ?切符って、面白いでしょう?ただの、紙なのにね…?」
「うん。でも…」
また、考え込んでしまた様子だった。
「どうしたの、ツキノ?」
「ただのかみ、ただのかみ。うーん…。おねえちゃん?おかねだって、ただのかみなのにね?」
「うん。まあ、そうねえ」
「おもしろいよね?ツキノのようちえんのおえかきちょうも、かみ。でも、おかねとおなじじゃないね」
「そういえば、そうだったわね」
「おなじ、かみなのに」
「何かの価値が、違うのよ。価値、か…。お父さんが言っていたことを、思い出しちゃうわ」
「おとうさん?」
「ごめんね、ツキノ?何でも、ないの」
「ふうん」
「この切符も、ミタライさんの言っていたような、事情の糸なのかもね…」
「なあに?」
「ごめん、何でもない。お姉ちゃんさ、そんなこと考えたことなんて、なかったかもしれないなあ、って…」
「あんなに、おべんきょうしてたのに?」
「…う」
「おねえちゃんは、おこちゃまねえ」
「…」
社会の事情は、大きく、変わっていた。
妹たちの世代は、私たちとは、大きく違っていたのだ。妹たちは、電車に乗るときは、切符ではなく、ICカードを通していたものだった。
今でこそ、私もそうする場面が多くあったが、小さいころは、ほぼほぼ、というか、絶対に、切符で、電車を利用していたものだ。
妹は、新鮮だった。
今の社会の事情でいけば、その新感覚でいけば、こう考えられたってことなのか?
「切符なんて、見たことない」
「そもそもきっぷって、何?」
IC世代は、面白いものだった。
妹による切符チャレンジが、続いた。社会の事情をちょっとでもかじっていた私には、そんなチャレンジは、無理だったろう。
妹が演じた姿は、真面目に無難に生きることを善とする長女の生き方とは、明らかに、異なっていた。
長女がしつけられる、普通の良い子的な生き方に比べれば、斬新なファッションショーだった。
妹のような、何でもチャレンジタイプの人間性は、私のような姉にはない、力強さのきらめきだった。
思えば、私は、何かにつけて、こんなことを言われてきたものだった。
「お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい」
「お姉ちゃんなんだから、代わりにやってあげなさい」
「お姉ちゃんなんだから…!」
常に、妹の成長にとっての、踏み台とされてきた。
「妹って、良いよね」
そう思ってしまうのは、その、踏み台経験の呪縛があったからだ。
私は、何かにつけて、妹の実験台にされてきた気がした。
今思えば、それが、良くわかってきたものだ。
新しい服を買っても、やがては、妹にとられた。それは、姉妹の慈悲から妹の手に渡ったのではなかった。実のところは、こういうことだった。
「お姉ちゃん?私の、とくべつマネキンにんぎょうみたいになってくれて、ありがとう。そのふく、気に入らないところが、あったんでしょう?だから、きないんでしょう?じゃあ私、かわない。こうりつてき、だね。たぶん、私も、気に入らなくなるとおもうし」
ちゃっかりと、していたものだ。
あまつさえ、こんなことも言ってきたものだ。
「そのふく、きないの?ふうん。いいデザインじゃない?じゃあ、私がきる。ちょうだい!」
「ちょっと!」
奪われた、姉。
「だって、お姉ちゃんは、きないんでしょう?この、妹さまが、きてあげるのよ?いいじゃないの?これで、しげんのむだが、はぶけるんですから。おねえちゃん、おこらない、おこらない。いいじゃない。へるもんじゃ、あるまいし」
それでも抵抗すれば、親が出てきた。
「ほら!けんかしてるんじゃないわよ!みっともない。あなた、お姉ちゃんでしょう?我慢、しなさい。っていうよりも、資源の無駄が省かれるのはその通りなんだから、仕方がないじゃないの」
「そんな…お母さんまで」
「あなた、お姉ちゃんでしょう?」
「やった!かわいいふく、ただでゲット!」
「…」
「お姉ちゃん、ありがとー」
そんな黒歴史を想像し、萎えてきた。
かわいい新ヒロインとして我が家に現れた妹の存在は、私よりもはるかに、引き立っていたわけで。
…妹は、要領が、良かった。
妹の前には、常に、私が歩くことになっていた。
「お姉ちゃん、まえをあるいてよ?」
「どうして?」
「だって、お姉ちゃんをみほんにして、いきていきたいんですもの」
「そう。姉思い、なのね?」
真面目な姉は、そう思ってしまうものだった。
長女は、こういうときにも、バカを見るのだ。
本当のところ、姉を側に置いた妹は、こう思っていたのではなかったか?
「ほら、ほら…。お姉ちゃんは、私のまえにすすみなさい。そして、ころびなさい。そのころんだところは、私が、うまく、よけていくから。へへへ…。私って、あたま、いーよねー。これが、妹なのよね。妹は、姉をじっけんだいとして、そのないちゃったすがたから、まなんでいくのだ。こうして、しゃかいのじじょうをときほぐしていくんだもんねー。なにごとも、ようりょうよく!ほら、お姉ちゃんは、私のまえを、いきなさい!そして、ころべ!」
姉妹というつながりは、概ね、そういうルールに、なっていただろう。
姉は、ときに、ナビゲーター役に徹しなければならないのだ。私を見ていた妹は、成長が早かった。こう知ることができたからに、他ならず。
「何をすれば叱られて、何をすればほめてもらえるのか」
妹は、軽やかにして、強すぎた。
偉大な教育のように…。
教員免許を楽に取得して、面接マニュアルの暗記で、おじさんたちを凌駕して採用された教員は、たしかに、要領が良かった。
が、要領が良かったのは、そこまでだ。
教育現場に立てば、児童生徒の悩みを理解できず、理解しようとも思えない人が出た。
「この先生は、このレベルか…」
「うちの子は、こんな人に、教えられちゃうのか…」
「さすがは、チホーコームインだぜ」
今どきの教員も、その意味では、子どもや親の実験だったわけか。
妹は、かわいがられた。
私は、よく、怒られたのに。
「かわいい私は、何をしても許される」
妹には、そうした、ニセ自己暗示さえも生まれてしまっていたんじゃないだろうか?
だから妹というのは、何事にもチャレンジし、大胆な行動がとれるようになるんじゃないのだろうか?
それからも妹は、面白かった。
切符という未知なるものを手に、感動。そして、それを自動改札機という謎の物質に食べさせることに、驚いていた。
「切符に、ハサミを入れる。パッチン!」
そんな言葉は、死語になっていくのだろうか?
自動改札口に切符を通したあと、切符には、当然ながら、穴があけられた。妹は、穴のあけられたその切符を眺め、また、新しい哲学を始めた様子だった。
「ツキノのカードは、こういうボーリョクは、されないんだけれどなあ」
妹は、切符に穴があけられたことを、ボーリョクと、表現した。
「そうか。それは、暴力に映るのかあ」
「うん。ボーリョク」
妹は、大詩人だったようだ。
「心配しない、心配しない。暴力をするのは、学校の、一部の先生くらいだから。ツキノの切符は、暴力されてなんかいないから」
私はそう言って、安心させることにした。
「がっこうのせんせいは、ボーリョク?」
「そういう人も、いるってことよ。気をつけましょう。ツキノも、来年から、小学生になるんですからね?わかってる?」
赤い長いすに腰掛けた私たちの前を、緑色を基調とした風景が、その赤とのコントラストを名残惜しそうに保ち、流れていった。
同車両には、30歳ほどの男性が、数名。
「いえーい!」
「何にも、苦労しない!」
「引く手あまた、最高!」
まるで子どものように、はしゃいでいた。
私は、横を見た。
「ツキノ…。あなたは、静かなのね?良かった。ああいう恥ずかしい社会人とは、違って。みっともない社会人、だよね?」
社会の空気は、不穏だった。
「ツキノ?何を、やっているの?」
私がそう言うと、妹は、面白いことを、口にしていた。
「うん…。わかった。またね」
さらには、こういって、手も振っていた。
「げんきでね」
透明人間と、話をしていた感じだった。
「ちょっと、ツキノ?何してたの?」
すると、妹は、こんなことを言った。
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