第10話 使徒、使徒…

 「ミタライしゃん!」

 「こら、ツキノ!」

 「あはは。妹さん、ですか?」

 「そうだよー」

 「ミタライでも良いけれど、キヨシで、いいよ?そっちのほうが、短くって、言いやすいでしょ?なんて」

 「じゃあ、キヨシちゃん!」

 「こら!」

 「良いんですよ。それに、謝るのは、こちらのほうだ。朝からこんな格好で、すみません。少し、降っていましたから…」

 「ああ、本当だ」

 私は、そのときになって、ようやく、雨が落ちていたことに気付いた。なぜかそのときの私には、ミタライさんが、天使のように、見えていたものだった。

 使徒、使徒…。

 雨は、静かな鼻水のように、なっていた。

「あめのおとこ、ミタライしゃん!」

 「ほら、また!ご、ごめんなさい!」

 「ははは」

 そのやりとりを聞いて、すぐに、奥様が、駆けつけてきてくれた。

 「クヌギサワです。中へ、どうぞ」

 「でも僕は、雨の中のほうが…」

 「そうですか?…でも、タオルをもってきますね?」

 「何だか、悪いなあ」

 日本人は、本当に、良く、謝る民族だったようだ。

 「そこで、待っていてください」

 奥様が、奥に、戻っていった。

 「…玄関には上がらないんだから、待ているのは、当たり前じゃないの」

 強がってしまう私が、恥ずかしかった。

 私は、奥様や、もちろん、妹にも聞こえないようなボリュームで、ミタライさんに、そっと、聞いてみた。

 「お骨は、大丈夫なんですか?」

 姉として、責任をもって聞かなければならないこと、だった。

 「はい。寺に、預かってもらっています」

 ミタライさんも、小さな声で返してきた。

 しかし、母は、どうなった?

 集中治療室かどこかで、今も、寝ているのだろうか?私は、ためらっていた。

 「母の具合は、どうですか?母の意識は、戻りそうですか?」

 そうは、まだ、聞けていないままだったのだ。

 その忘却的残酷さにも、私は、恥ずかしさを覚え、惨めだった。

 ただそれについては、何かを察しでもしたのか、ミタライさんのほうから、そっと声が返ってきて、解決した。

 「お母様のことは、心配なさらなずに」

 安心できた。

 が、それもすぐに、不安に変わった。

 私は、こんなにも、見透かされやすかったのだろうか?しかりと心が読まれていて、なおも、恥ずかしくなったものだ。

 「心配なさらないで、ください。お母さんは、じきに、元気を取り戻せるでしょう」

 「そうですか…。良かった」

 横を見れば、妹も、安堵の表情を称えていた。

 母の状態は、理解できていなかったはずだ。が、落ち着きっ放しだった。妹には、妹なりの安心があったのだろうか?

 「元気を、取り戻す…。あの、ミタライさん?それって、母の意識が回復するっていうこと、でしょうか?」

 「まあ…。そんな、ところです」

 「そうですか」

 「お母様は、引っ越し先に、後からこられるそうです」

 「え?病院から、直接、引っ越し先に?」

 「ええ。そのようです」

 「そうですか…」

 「ええ」

 「そうですか…」

 「妹さんは、静かですね?」

「はい?ええ、まあ、そうみたいですね」

 邪魔のない雰囲気で、助かったものだ。

「せっかくだから…」

 しかし、ミタライさんのほうから、新たな邪魔が入りそうになった。

 不穏な問いかけの予感がして、ちょっぴり、怖くなった。

 「え?何ですか、ミタライさん?」

 「…いやいや、何でも、ありません」

 日本人得意の心理戦が、妙に、ちぐはぐとしていた。

 私は、こう言おうかどうか、ためらった。

 「せっかくだから…、母も、家を見にくれば良かったのにって…」

 私ならそう言うんじゃないのかと、ミタライさんは、思っていたのだろうか?

 ミタライさんもまた、ためらっていた。

 「家、ですか…」

 言葉数の少なさが、ミタライさんなりの明らかなためらい事情を暗示していた。

 「ええ。私たちが暮らしていた家、母も見にきてくれれば良かったのにって…」

 「家、を…」

 「ええ。最後、ですから」

 「最後、何ですか?」

 「きっと、そうだと、思います」

 「…しかし、本当に、最後の家なのでしょうか?」

 「はい?ミタライさん?それって、どういう意味なのでしょうか?」

 不思議になって、ミタライさんのほうを見ていた。ミタライさんは、私の足をつかむ妹を、たくましそうに、見つめていた。

 「…妹さんは、この日、このときが、家との最後の別れになるとは、思っていないようですけど」

 なるほど。

 妹は、何かに抵抗し、粘っているという感じ、だった。

 「ツキノ…」

 「しかしまあ、わかりますよ。その気持ちに、その事情」

 言われるまでもなく、家を見にきてほしいという私の考えは、私にとっては、正論のはずだった。

 だがミタライさんは、その私なりの正論には、同調してくれなかった。

 「でも…、お母様は、あの家を見られないと言うんじゃないかと、思います」

 私の考えとは真逆をいきそうなこと、言ってきたのだった。

 「どうしてですか?」

 「それは、物理的に見られないという意味ではなく、ね…」

 「じゃあ、何なんですか?」

 不審がっていた、というよりも、怯えていた、というよりも、まだ、抵抗していた。最低でも、私の足をつかむ妹を守ってあげられなければ、ならなかった。

 姉として。

 「うーん…」

 ミタライさんなりの哲学が、はじまった。

「ですから、その…」

 「何か、事情でもあるのですか?」

 「事情、ですか…」

 ミタライさんの顔が、曇った。

 「そうですね。お母様は、精神的に見られないんじゃないかと、思います」

 「母は、見たくないのですか?この家を見るのは、最後になるかもしれないんですよ?妹は、最後にはならないと思っているのかもしれませんけれど…。それは、あくまで、妹の考え方というか、妹なりの事情でそう思わせているだけであって…。…何だかもう、良いです」

 私は、自爆していた。

 姉として、みっともなかった。

 苦し紛れに、妹の手を、握っていた。もしかしたら、これこそが欺瞞だったのかも、しれなかった。

 ミタライさんは、難しいことを言った。

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