第8話 それぞれの家の事情を、感じて。
「お母さんの意識が、戻りました!」
病院からその連絡がきたのは、翌日も、午前早くのことだった。当初私たちは、すぐにでも母のところへ向かいたい気持ちだった。
だが、父のこともあり…。
私は、迷った。
「ツキノ…、お母さん、起きたよ。たくさん、寝ちゃっていたんだね。どうする?」
やっぱり私は、迷っていた。
「わかんない」
妹がそう言ってくれて、助かった。
ツキノは、私と似ていた。
きっと、まだそこにいってはならない雰囲気を、感じとっていたのだろう。
すると、そこへ、背広の人たちが、家の中に入ってきた。葬儀会場で見たあの集団とは違った、違う黒の集団だった。
「勝手に入ってもらっては、困ります!」
私は、怒った。
妹を守るためにも、姉として、言ってやらなければならなかった。
だがその言葉は、あえなく、無視。
「よし、いいぞ」
「わかりました」
「開始いたします」
背広の人たちは、堂々と、何かにとりつかれた如き使命感で、家の中を歩き回った。
「不法侵入で、訴えますよ!」
今度はそう言ってみたが、背広集団は、聞く耳など、持ってはいなかった。
「ふん」
軽々しく、笑ってみせただけだった。
そしてその集団は、躊躇なく、家の中の物に、べたべたと紙を貼っていった。
その背広集団が家を出ていってから、10分くらい後…。
プルルルル。
電話が入った。
「ユキノちゃん?おじさんです。お母さんには、おじさんから、説明しておくよ。心配しなくて、良いから。葬儀を終えたことも。引っ越ししなくちゃならなくなったことも、何もかも…。だから…心配は、いらない。それよりも、その…。明日には、家を出ていかなくっちゃならないわけだよね?2人の物もそうなんだけれど、お母さんの物なんかをまとめるのを、忘れないでね。時間は、あんまり、ないかもしれないね。明日になって準備をしていたんじゃあ、間に合わない。お手伝い人員を、ユキノちゃんたちの家に、向かわせるから。そこそこ、力はあるはずだ。きっと、役に立つだろう。重い物を運ばせちゃったりして、良いから。隣り近所の付き合いなんだから、気にしないで」
クヌギサワさんからの、しばしの安心感だった。
電話を置いたあと、私たちは、少し休んでから、すぐに、荷物整理にとりかかった。
「あーあ…。紙が貼られちゃった。どうしようか…」
まずは、小物類の整理だ。
すると、また。
プルルルル。
「電話にまであの紙が貼られてしまわなくて、良かった。気持ち悪くて、触れないし」
私の携帯電話は、気付いたら、充電切れ。
妹は、その文明の利器を握っていなかった。
それならもう、固定電話しかなかった。固定電話は、こういうとき、役に立つのだ。
「ごめん。ユキノちゃん。伝え忘れたことがあったと、思う」
疲れて、ぼんやりと、聞いていた。
「2人は、葬式のときに見た、嫌な黒服の人たちには、もう、会いたくないよね?」
「ええ。まあ…」
「そうじゃないかと、思ったんだ」
「はい」
「今日は、さ…」
「はい」
「荷物の整理が済んだら、おじさんの家に、きてほしいんだ」
ずいぶんと、変わった提案だった。
「クヌギサワさんの家に、ですか?」
「ああ。私の家に、きてよ。気にしないで。隣り近所の、付き合いじゃないか」
「それは、…。ありがとうございます」
私は、またもやなぜだかわからない不義理な思いで、涙を流しそうになっていた。その涙が、ほほを伝わり、鼻の奥にまで進入してきた。こそばゆいような、静かな小川となっていた。
クヌギサワさんは、良く、見通していた。
「何人かが、ユキノちゃんたちの家に侵入して、差し押さえとかって書かれた紙を貼っていったんじゃないかと、思うけれど…」
良くわかるものだと、驚かされた。
「はい。紙が、貼ってありました」
「やっぱり…。その紙が貼られた物は、持ってきちゃあ、ダメだからね?」
クヌギサワさんの声が、上ずっていた。
「わかりました」
通話終了後、私は、妹を目で追った。
「あ…」
妹は、ちょこんと、家の縁側に座り込んでいた。
「何を、しているのよ?こんなときに…」妹は、不思議そうな顔をしていた。
「こんなとき、だからだよ?お姉ちゃん
も、ここにくれば?」
何ともいえない感覚に、襲われていた。「わかったよ…。お姉ちゃん、ちょっと、
お邪魔するね」
姉らしく、誘いに乗ってあげていた。
私は、電話があった場所から縁側に移り、妹の隣りに、座り込んだ。
「ツキノ?ここ…。楽しい家だったね」
私たちは、姉妹そろって、仲良く縁側に座って、庭を眺めていた。
「ツキノ?ここに、プールを作ったっけ」
「ぷーる」
「それ、ツキノは、覚えているのかな?」
「うん。おぼえてる」
「…そう。浮き輪とか、買ってきたよね?それも、覚えてる?」
私は、苦し紛れの話題を振りまいていた。
「うん…。うきわ、かった!ツキノ、おとさんと、くうき、いれたー!」
妹が、心弾ませながら、言っていた。
「そうね。そうだったわね。ツキノは、お父さんと、仲が良かったものね?」
そのとき、父のことを口走ってしまったことで、私は、一瞬の後悔をした。
「しまった」
謎、そんなことを言ってしまったのか。妹を守るべき姉として、最低だったんじゃないのか。
自分自身が嫌いだったし、不安で不安で、心配をした。
が、心配は無用だったらしい。
妹の顔は、悲しみにも怒りにも染まらず、動かなかったのだから。
「ねえ、ツキノ?」
「なあに?おねえちゃん?」
「あの辺りに、何かいろいろ埋めて、一緒に宝探しゲームをして、遊んだよね?」
私は、ほんの少しだけ、話題のベクトルを父親外しにしようとしていた。
が、そのごまかしは、利かなかった。学校の先生たちのような欺瞞は、通用しなかったわけだ。妹にも、良く気が付いてもらえたクヌギサワさん以上に、先を読まれていたのだろうか?
「おとうさん、おとうさん。ごるふのれんしゅう、してたあ!」
妹は、深層心理では、何が何でも、父を忘れたくはなかったのだろう。結局のところ、父関係の話題に落ち着いてしまうのだった。
「おとうさんと、すいか、たべた」
「そうね」
「おとうさんと、はなびした」
「そうだったわね」
私は、そう言った後で、わけもわからずに苦しんだ。妹は、そんな私を見て、哀れにも思わなかったろうか?
「ねえ、おねえちゃん?どうして、ないてるの?」
欺瞞は、隠しようもなかった。
「お姉ちゃんはね?新しい家が待っているから、幸せなの。だから、うれしくって、うれしくって、泣いちゃったのよ」
そう答えるしか、なかった。
もちろんそれも欺瞞であり、見抜かれていたであろうことは、覚悟の上だった。すると妹は、私の欺瞞を、直に追及することなく、真顔で、聞いてきた。
「どうして?あたらしければ、いいの?」
真剣な顔つきが、恐ろしかった。
姉としての威厳を保つことが、こんなにも難しかったのかと、愕然とさせられた瞬間だった。
「ねえ、ねえ?どうしてなの?あたらしければ、いいの?」
私は、とんでもないスパイスを加えられてしまったような気がして、口が、砂漠状態だった。
「おねえちゃんって、おもしろい」
「どうして?」
「だって…。ふるくなったって、きずがあったって、すこしくらいよごれていたって…たくさんのおもいでがつまっていたら、そのほうが、ぜったいに、すてきなんだもん!でもおねえちゃんは、あたらしければいいって、いった。だから、おもしろいの」
「ごめんなさい…」
私は、妹に説得され、勝てない戦いに引きずり込まれたかと感じ、恥ずかしかった。
「おねえちゃん?」
「はい。何ですか?」
「もののかちって、しってる?」
「そういうの、誰に、聞いたの?」
「…、わからない」
無性に、恥ずかしかった。
「とにかく明日は、引っ越しだからね?」
「おひっこし」
私たちは、庭を眺め続けていた。妹は、なおも、真面目な顔つきで言い続けてきた。
「おねえちゃん?このおにわ、もう、みられなくなっちゃうのかな?ツキノ、ここがだいすきだったのに。あたらしいおうちは、あたらしいから、いいのかもしれない。でもツキノは、それが、ちょっぴりこわいかも。ツキノは、ちょっとよごれちゃったこのおうちが、だいすき。あのきずも…。あのらくがきも…。みんな、みーんな、たいせつなたからものだもん。おとうさんも、きっと、そうおもってくれているはずだから!」
私は、開いた口が、ふさがらなかった。
「あなたは、哲学的なのね。私なんかよりも、優秀よ。たぶん、お母さんも気付いていないだろうけれど、さ。優秀よ、悔しいけれど。…でも、ごめんね?ツキノ?」
「おねえちゃん、なあに?」
「お父さんは、もう、いなくなっちゃったの。だからね…。この家は、意味が、なくなっちゃったのよ?わかってよ…」
悲しかったけれど、そのときの私は、そう言うしかなかった。
妹は、それを聞いて、逆襲的な事情の糸の言葉を、紡ぎ返してきた。
「いみが、なくなっちゃうの?おとうさんがいなくなっちゃうと、このおうち、いみがなくなっちゃうの?そんなの、おかしい」
言われてしまった。
「そう、か…」
庭は、何も、言ってこないままだった。
思えばその庭は、私にとっては、恐怖の教育の庭だった。
子どものころ私は、この庭で、母に、様々な教育話を聞かされてきた。
「ユキノ?そこに、座って」
母には、何度となく、言われたものだ。
仕方なく従った私は、母に、教育された。
「いい?ユキノ?長女のあなただから、話すのよ?ツキノには、言えないけれど」
「えー?何?」
「ユキノ…聞いてよ。お父さんったら、ひどいのよう」
そこから、数分は、移動することができなくなったものだ。
嫌な、思い出だった。
現実に戻れば、妹は、なおも逆襲。
「ツキノは、おねえちゃんとこうしておにわをながめているだけで、たのしいよ?それって、このおにわにいみがあって、かちがあるっていうことなんじゃ、ないの?」
そんなことまで、言ってきた。
私は、かつて母に怒られ教育を受けていたときのように、しょぼくれた草だった。
「ツキノ。あなたの、言う通りです…」
私は、縁側で、妹をキュッと抱きしめた。
「ごめんなさい。これで、済むのなら…」
私は、妹の心の中に、未だ見えてはこない母の姿を重ね、謝罪をしていたのか…?
「ツキノ?いこうか」
それから私たちは、最後の点検を済ませ、家に、一礼。隣りのクヌギサワさんの家に、向かった。
「ツキノ。ごめんなさい。お姉ちゃんが、間違っていました。いろいろと」
それを聞いて妹は、私の姿を、憐れんだ目で牽制してきた。
「おねえちゃん?」
「何でしょうか?」
「これからは、たくさんのきもちをわかる
人になってください」
「わかりました。ごめんなさい」
私たちは、庭を、振り返ってみた。
「ありがとうございました」
「ありがとう、ございまちた!」
けれど、思い出の品は、実はまだまだ。
庭から離れた私たちは、部屋の中を動き回っていた。
「これ、どうしようか…」
私たちは、幼稚園やら小学校、中学校に至るまでに使っていた小物に、処分するかもしれないと覚悟していた服にさえも、思い出を秘めさせていた。
結局、皆、商店街の福引きで当てた大きなボストンバッグの中に詰め込むことにした。
「懐かしいねえ」
「なつかしい」
妹の言ったように、どんなに小さなものであったとしても、大切な思い出だった。
タンスの奥から顔を出してきたのでさらってきた家族写真などは、最高の宝であるかのように、思えていた。
中でも私にとっては、学校で使っていた勉強道具は、何物にも代え難い宝だった。
私は、どうしてそれらの物に、こんなにも大きな価値を見出せたのだろうか?
医大や難関大学に入るための、懐かしい手段だったから?
…いや…わからなかった。
「わからないなあ、この気持ち」
私は、母の敷いたレールの上を走らされてきた後を振り返ってで、息切れをしていた。
「私って、どうして、こんなことをしているんだろう?」
当時は、自己矛盾を生んでしまったこともあった。それを思えば、勉強道具なんて、叩きのめしたいほどに嫌な価値の存在だったはずなのに。
それが、今や不思議と、懐かしさあふれるものへと、メタモルフォーゼ済み。
「何か、わからない…。でも、わからないけれど、私たちの家、良かったな」
そう思いながら私は、妹と手をつないで、思い出の中を、散歩することにした。
「良くわからないけれど、良いな」
「いいな、いいな」
「これで、良かったのかな?」
「よかった、よかった」
家の中の出会いは、何とも言い難い、至福の邂逅となっていた。
2人の男性が、重い荷物を持ってくれたりと、手伝いにきてくれた。
その人たちが、クヌギサワさんが電話で言っていた人たち、だったのだろう。2人は、最後まで、何も言わずに、従ってくれた。
そして、どこかへと、帰っていった。
「終わったわ…」
「おわったー!」
「クヌギサワさんの家に、いこうか…」
玄関の戸は、開けっ放しにしておいた。妹が、閉めることを、頑なに拒否したからだ。
「閉めてしまえば、家とは、永遠の別れになってしまうかもしれないから」
まさか妹は、そう感じていたのだろうか?
「それでは、お世話になります」
私たちがクヌギサワさんの家にいったとき、クヌギサワさんは、いなかった。
「待ってたわよ。ユキノちゃんと、ツキノちゃん、ね?クスギサワの、妻ですよ。あまり見ない顔だから、驚いたでしょう?昨日、シャンバラから、帰ってきたの。なんちゃって。さ、さ。上がって!」
クヌギサワさんと同じくらいの年齢に見えた女性が、はにかんでいた。
「奥様かあ…ツキノ?シャンバラから帰ってきたって…。面白い冗談を言われたね」
「おねえちゃん?じょうだんなの?」
「え?そりゃあ、そうでしょう」
私たちは、他の方々にも、挨拶をされた。
「おじです」
「おばです」
優しそうな方々、だった。
「よろしくお願いいたします」
「よろちくおねがいです」
「あら、ありがとう。こちらこそ。たった一晩だけれど、ね。気にしないで、家の中を歩き回ってちょうだいね?」
「おじも、いますから」
「おばも、ね」
「良かった。とっても、元気そうで」
だが私は、不安気味。家の手伝いにきてくれていた2人が、見えなかったからだ。
「お手伝いにきてくださった方々は?」
私がそう聞いてみると、奥様は、また、先日のように、はにかんだ。
「ええ…まあ…。あの人たちは、今どきの子どもたち、ですからねえ。どこかに、ふらふら出かけていっちゃったんでしょう」
と、苦しそうに、教えてくれた。
恩人宅の人にそう言われてしまったので、それ以上は、私からは、何も聞かないことにした。それぞれの家には、それぞれの家の事情が、あるものだったからだ。
私たちの家も、そうだったのだし…。
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