第5話 長女の存在価値
本当のところ、私は…。
そんな母のことを、どう思っていたのだろう?
それでも私は、ひたすらに勉強して、母に良い顔をしていたわけであって…。
私は、父を思うと、結局、母に関することまで、あれこれ考えてしまうのだった。
「ユキノちゃん?最期になっちゃうからさ…。手を握ってあげようよ」
クヌギサワさんが、そっと私に、言ってくれた。
「名残惜しいだろう?お父さん…」
が、私には、名残惜しかったのか何なのかが、上手く、整理できなかった。
結局私は、最後まで、父の手をとってあげることができなかった。
後々になって知ったことだが、父は、私が生まれてきたとき、こう言っていたらしかった。
「ああ、安心した。生まれてきたのが女の子で、良かった」
何てこと…と、感じられたものだ。
「どうしてなの?」
母に、聞いてみたことがあった。
すると母は、奇妙なことを、言ってきた。
「女の子が生まれてくれれば、将来、自分の精神面やら生活面を大いに助けてくれるかもしれない。だから、安心したって…、そう思ったんでしょうね」
私は、少し、考えてしまった。
「そうか…。男は、そういうことを、考えるのか。なんて、身勝手な生き物なんだろうか」
その思いに駆られていたのは、優秀な母には、バレバレだった。
「ユキノ?今、身勝手な言い方だと、思ったでしょう?」
そこで私は、ばれたのを覆い隠したい気持ちもあって、はじめから、素早く迎合していた。
「そういうことも、あるか」
そう思ってしまった私が、情けなかった。 なぜなら、よくよく考えれば、それは、やせ我慢と強がりの入り交じった、私なりの合理化に過ぎないと、気付かされたからだ。
社会は、変化し続けた。
家庭内の女の子は、かつての社会と比べ、より重い役割を、期待され続けていくことになった。
その役割の代表格は、介護だ。
以前は、長男、つまりは男が、老親の面倒を見ることを期待されていたものだった。
しかし今は、老親を中心とする、そんな家のピラミッド構造は、見事に崩壊。
女性の負担は、大きくなっていった。
特に、負担がのしかかってきたのが、長女だ。だからこそ私には、こう思えてならなかった。
「妹っていうのは、うらやましい立ち位置よね。その代わり長女って、いっつも、損ばかりな気がするし。ツキノって、良いなあ、うらやましいなあ…」
今では、長男は、家を飛び出して、都会に働きに出かけるようになった。都会と比べ、長男や老親の住んでいた地方には、就職口がなくなってしまったためだ。そうなってしまった以上、親の期待は、特に、長女に集中していかざるを得なくなった。
それこそが、この言葉につながったのだろうか?
「生まれてきたのが女の子で、良かった」
父親という立ち位置の、真相になっていたのだろう。
「女の子がそばにいてくれれば、そのうちに、介護をしてもらえるからな」
そう、考えていたはずだ。
もちろん私には、気分の悪いことだった。「私は、お父さんを介護するために生まれ
てきたんじゃないわ!」
父は、母には遠く及ばず、努力できた私なら、超えられる存在のはずだった。
が、そんなプランは、どこへやら。
父は、超えられそうかなと見積もれたが故に、どこかで、恐れの存在だったようだ。
「…ねえ、お父さん…?」
「…おお、どうした。ツキノ?」
そうして、父と夢を語り合えた妹が、うらやましくてならなかった。
母は、私が生まれたとき、初めての子であった私を、何としてでも強く、何としてでも立派に育てようと、決意したはずだ。
きっと、様々な講習会に参加して、育児書やTV番組の解説通りの完璧な子育てを、目指していたことだろう。
理想の子育て銀河を目指した、母。
そんな母の目には、ママさんコミュニティなどは、ようやく見つけられた生存可能な星のように、輝いていたはずだ。
母の子育ては、工夫されていた。
「あなたは、これをやってみなさい」
私には、そういった積極的教育法を、とらなかった。
むしろ、こういう言葉を使っていた。
「これは、してはダメ!」
その言葉で、長女の私をしつけようとしていた。いってみれば、消極的教育法を、押し付けていたのだ。
「私って、何なのかしら?長女は、面倒だなあ。ツキノは、良いなあ…」
大切な長女という私を大切にしたかったからなのかもしれなかったが、私は、その教育により、挑戦を恐れる慎重派タイプの人間になっていっただろう。
長女にたいする教育の鋭さを、思い知らされていた。
良く言えば私は、物事を良く考えて、行動に移すタイプ。
だが、悪く言えば、消極的になってしまうタイプということだった。
どこまでも、妹が、うらやましかった…。
妹は、積極策を選択する子に、成長できたのだから。
妹の天真爛漫さは、私には、まだまだ遠くて、攻撃しようにも、手の届かない星。かといって、敵対するわけにもいかなかった。
「妹の、見本になりなさい。あなた、お姉ちゃんでしょう?」
結局は、その母の言葉に、屈服させられていたからだ。
人の事情は、様々。
「こんなとき、私に、誰かが寄り添ってくれていたのなら、状況も変わったかもしれないのにな」
さすがにそれは、負け惜しみになったか。
「ユキノ?ちゃんと、しなさい!ツキノの見本に、なりなさい!」
そんな誰かの声を聞いたのなら、仮に、私にいい人がいたとして、逃げていってしまうだろうか?
人の事情は、それぞれ。
彼氏の事情に、彼女の事情に…。
父の事情、母の事情…。
私の事情、妹の事情…。
霊安室の私は、動けないままだった。
妹なら、喜んで、父の手を握ったはず。妹にとって父は、友達でもあったのだ。
「友達教育は怖いっていうけれど、こんなときには、憧れちゃうんだ。人間は、すべてが、エゴイズムなんだろうな」
モヤモヤした糸が、私を絡めていた。
「妹は、良いなあ。それと比べて、私のような長女っていうのは、父と友達になれるものなのだろうか?」
母は、ずっと、寝ていたようだ。
「お母さん。立ち上がってよ…。ねえ…。また、私と、勝負するためにも」
そのつぶやきが、聞こえたのだろう。クヌギサワさんが、小さく言った。
「ごめんよ、ユキノちゃん?お母さんは、まだ、目が覚めないままらしいんだ」
霊安室を出ての翌日、私は、学校にはいかなかった。欠席しなければ、心が維持できないような気がした。
母は、意識不明状態のままだったという。
「ユキノちゃん?今日も、いつもと変わらずの日なんだ…。もうちょっとだけ、我慢してみようか?我慢は、得意だったよね?」
そうしてクヌギサワさんは、すぐに、黙った。
「我慢は、得意」
そのフレーズだけで、クヌギサワさんは、恐れたのだろうか?
「余計なことを、言ったか。我慢は得意と言ってしまったことで、ユキノちゃんが、母を交えた楽しかった思い出を呼び起こすんじゃないのか?言うべきでは、なかった。気持ちを逆なでするきっかけになってしまうんじゃないのか?しまった」
クヌギサワさんならそう思ったかもしれないと推測できたのは、2点、理由があった。
まずは、クヌギサワさんの顔が曇っているのを、察知できたからだった。
そして、事実、私は、すぐに、母と妹を交えた我慢の場面を思い浮かべていたからでもあった。
おやつを食べようとしたときに、母には、必ず、こう言われたものだ。
「ユキノ?あなた、わかっているでしょうけれど…。お姉ちゃんなんですからね?」
それは、たとえば、ビスケットが1つ残ったら、その残りの分は、姉ではなく、妹が食べるべきで、あなたは我慢しなさいということだった。
私は、いつだって、我慢させられて、妹には残りの1つをあげていた。
「そうよ、そう。偉いわね、ユキノ?遠慮の塊は、遠慮してこそ、存在価値があったりするんだものね。さすがは、お姉ちゃん。はい、良く、我慢できました」
褒められていたんだか何なんだか、わからなかった。
遠慮の塊っていう言葉は、母の友達の誰かからもらった言い方らしく、私には、馴染みがなかった。だからこそ、余計にかしこまらなければならないと感じて、ありがたく、従っていた。
思い出は、いつまででも、モヤモヤしていた。
「我慢なんて、実を結ぶんだろうか?…お母さん?」
敵であったはずの母が、愛おしくて、ならなかった。
「お父さんは…、無責任よ」
そんな中で、父の葬式が、おこなわれた。小さな葬式、だった。近所の人と、それに
、父の働いていた新聞社の人たちだけでおこ
なわれたものとなった。
「課長!」
「ああ。課長だあ…」
何人かの会社員が、集まってきていた。
そういえば、父は、会社では、課長をしていたのだった。
私は、父がいたときのことを、思い出していた。父は、よく、こんなことをぼやいていたものだった。
「最近は、部下のレベルが高くなってきていて、困る。やりにくくて、仕方がない。何で、こんなことになってしまったんだ?学校なんて、今は、先生よりも、児童生徒のほうが、レベルが高いっていうじゃないか。新卒教員なんていうのを、抱えちゃってさ…。その新卒教員も、困っているのか?いや…。困っていないだろうなあ。今どきの先生っていうのはもう、そういうことに気付けるレベルじゃあ、ないんだろうあらな。危機管理もできないって、いうからな」
父親は、そっと、泣いていた。
「学校も、やりにくいよなあ。ヤマオカみたいな男がたくさんいてくれれば、助かるんだがなあ。あいつは、良いクッションだったなあ…」
怨念のよう、だった。
「お父さん?ヤマオカって、誰?」
私が聞くと、父は、悲しき何かを思い出しつつ、呆れていた。
「ヤマオカかい?お父さんのいっている新聞社の、社員だよ。食べることだけには究極的に詳しい、ヒラ社員だ。仕事をしなくっちゃいけない時間は、会社の資料室にいって、ずーっと、寝ているんだぞ」
「ふーん」
「でも、あいつがいて助かった。ヤマオカは、価値があったよ」
私は、それを聞いて、不思議だった。
「どうして?どうしてその人がいてくれると、助かるの?」
すると父は、遠くを見ようとした。
「あっ…。何かから、逃げようとしているのかな?」
かわいそうだった。
「そりゃあ、ああいうグータラな人間がいてくれるおかげで、盾ができたんだからな」
意味が、良く、わからなかった。
「どれだけ、存在価値を出せるか。どんな事情を、つむげるか。それが、社会だ」
「価値…」
「そうだぞ、ユキノ?」
「価値…」
「モノには皆、価値があるんだ」
「…」
「ユキノ?」
「何?」
「価値がないように思われる何かにも、価値を見いだせる生き方を、してみなさい」
「じゃあ、お父さん?今どきの新卒教員っていう生き物にも、価値があるの?」
意地悪く、言ってみた。
父は、その罠にかかることなく、軽やかに答えたものだった。
「おお、あるぞ?新卒教員には、存在価値がある。新卒教員がいることで、社会が、反省できるからだ。反省できて、前進材料にもなる。ああいう人間が教育者として相応しいのか、そもそも、教育者とは何であるのか、何であるべきなのか、考えることができていく。新卒教員により、児童生徒が殺されるのではないか?じゃあ、殺されないようにするには、何をすべきなのか?新卒教員により、職員室が犯されるかも知れない。先生同士の新たな関係がはじまり、慰謝料の乱発で、地方公務員の財源が削られていくことになるかも知れない。そうした危機を、どう、乗り越えるべきなのか?新卒教員の存在で、様々な課題が発見できていくだろう。だから、あいつらには、存在価値があるんだよ」
当時の私には、さっぱりわからなかった。
「人の存在価値って、いろいろだ。長女だけじゃなくって、他にも、苦労していた人がいたんだろうな」
社会の事情は、複雑怪奇だった。
でも、今なら、わかる気がしていた。今の社会、学校の先生が、本来の先生機能を失って、いやらしい教育者ベクトルに暴走しちゃっていたのは、誰もが、知るところだった。
「ユキノ?お父さんは、疲れたよ」
今、会社というところでは、超好景気時代にホイホイ雇ったおじさんたちよりも、就職氷河期というがんばり生活で育った部下のほうが、あらゆる基礎的レベルが高い傾向にあるそうだ。
「ユキノ?地方公務員も、同じだ。なぜ、学校の先生というあのレベルが、公務員なのか、わかるか?」
父は、面白いことを言っていた。
「どうして?どうして、学校の先生が、公務員でいられるの?そういえば、どうして、他人の金で生活していられるの?」
考えてみれば、不思議だった。それよりも父の返答は、もっと、不思議だった。
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