第4話 母と長女の、立ち位置

 私たちは、病棟の裏手に回った。

 「緊急出入り口」

 タクシーは、そう書かれたプレートが追い込まれた壁の脇に着けられた。

 「2人とも?ここだ」

 タクシーを、降りた。

 「ミヤと、申します…」

 病院の方、だったのだろうか?スーツ姿の男性が、険しい顔つきになって、出迎えてくれた。

 「ミヤサワですが…」

 私が言うと、男は、さらに、かしこまった感じになった。

 「お待ちしておりました。こちらへ」

 男は、小さく、手を伸ばしてきた。そうして私たちを、奥へと案内してくれた。

「ほら」

 私は、クヌギサワさんの横で、妹の前に、靴箱から出したスリッパを並べた。

 「ねえ?おねえちゃんの、スリッパは?」

 「ああ。そうだったわね」

 私は、慌てて、もう一足、スリッパを取り出した。そのときになっても私は、言葉のあれこれを、考えていた。

 「そういえば、ミヤサワも、m。ミヤも、mか」

 ぼんやりと、不安にも考えていた。

 「スリッパ、ちゃんと、履けた?」

 「うん。はけた」

 私たちは、廊下を、進んでいった。

 そこは、TVドラマで見ていた警視庁の廊下のように、血の通っていない隧道だった。

 「ペトコン、ペトコン」

 スリッパの音が、廊下に、冷たく響いた。

 かつては、犯罪を取り締まっていた、警察組織。だが今は、犯罪は、警察が起こすようにもなってきてしまったのだとか。犯罪組織も、冷たい話だ。だからこの廊下も、冷たいのだろうか?

 警察組織というところは、自分たちにとって都合の悪いことが起きてしまうと、すぐ、隠蔽工作を試みたものだ。

 そうか…。

 警察の廊下は、暗くすることで、そんな病的な雰囲気を演出しているわけか。

 学校の廊下も、それに似ていた。

 理科準備室や職員室の廊下も、暗いイメージ。それも、病的な雰囲気の演出…?

 今でこそ、職員室は、明るいガラス張りのところも多くなってきたけれど。

 ただそれは、ある意味、学校組織による陰湿の隠蔽。ガラス張りにでもしないと、こう言い張れなかったのだろうか?

 「皆さん?学校の先生たちの心は、きれいですよ。このガラス張りの、ようにね」

 未成熟な、欺瞞。

 ウソ…。

 みじめな、言いつくろいだった。そうでも言えなければ、学校の先生たちの心は、いわゆる、普通状態を、維持できなかったのかも知れないけれど。

 「ツキノは、小学生になったら、あんなのに、教えられちゃうわけか」

 意地悪なことばかり、心に沸いてきた。

 そのときの私には、もう、何もかもが、気に入らなかったのだろう。

 「欺瞞、か…。今の状況は、欺瞞じゃないのかな?嫌だ、嫌だ」

 学校のことを、思った。

 「皆さん?私たち学校の先生の心は、きれいですよ」

 そこまで主張できないとならないやるせなさに、学校側は、どこまで危機感をもっていたのだろう?

 醜かった。

 どんなに言い繕っていこうとしても、学校の一部の先生の心は、もはや暴力でしかわかり合えなくなってしまっていることも、事実だったのに。

 良い先生だって、いたのに。良い先生たちが、かわいそうだった。

 「嫌だなあ…」

 「おねえちゃん?かおいろ、わるいよ?」

 「そう?」

 「はらぺこじゃない、あおむし」

 「ごめんね…。今のお姉ちゃんには、余裕がないのよ」

 長い長い、トンネルだった。

 私は、妹が転びでもしないように、ゆっくりと、手を引いていった。

 「くらいね、おねえちゃん」

 「そうね」

 「ツキノは、らいねん、小がくせい」

 「そうだったわね」

 「小がっこうのろうかも、こんなふうに、くらいのかな?くらいんでしょう?がっこうのせんせいって、わるい人が、おおいの?」

 「…」

 「…おねえちゃん?くらいよね?」

 「良い先生も、いるよ?」

 「ツキノね、TV番組でへんなのみたよ?」

 「そっか」

 「へんなの、ばっかりだよ?」

 「そっか…。存在価値に、欠けるよね。しっかりやっている先生が、良い迷惑よね。いい、ツキノ?あなたは、ああいう人にはならないで、価値をもてる人になってね?」

 「かち?」

 「あなたは、素敵な先生になれるように」

 「そうなの?」

 「そうよ。きっと」

 そこで私たちは、歩みを、止めた。

 暗さの向こう側に、小さな扉が、あった。

 「霊安室です」

 案内してくれたミヤといった男の人が、小さく、言った。クヌギサワさんは、肩を落として立ち尽くし、手を、握りしめていた。

 部屋の中に、入った。

部屋の中には、別の、年輩の男性が、立っていた。ミヤといった、それまで私たちを案内してくれていた人は、その人バトンタッチをして、帰っていった。

 私は、その所作を、苦々しく感じていた。

「こちらの方々だけですか?」

 別の男性に聞かれ、クヌギサワさんが、私たちの代わりに答えてくれた。

 「ええ。2人だけです」

 「そうですか…。困りましたね。お子さんは、まだ、未成年でしたか」

 「隣りの、家ですがね」

 「そうでしたね。失礼、いたしました」

 男性には、こうも、聞かれていた。

 「あの…。こんなかわいそうな姿を見せてしまって、良いものなのでしょうか」

 クヌギサワさんが、一瞬、沈黙した。そこで私のほうから、こう言っていた。

 「問題は、ありません。聞こえて、いました。ごめんなさい。状況は、理解できました…。私が、見ます」

 「しかし…」

 「そうだよ、ユキノちゃん?」

 「ご心配なく。私は、中学生ですから。ただし、妹には、見せないでください」

 大人に伝えると、クヌギサワさんが、すぐに、動いてくれた。

 「それじゃあツキノちゃんは、こっちにきて。おじさんと、部屋の外にイスを並べて、仲良く、座っておしゃべりしようか」

 気を、利かせてくれていた。

 ミヤといった男に促されて入れられた霊安室の空気と時間は、少しはためらいを見せてほしかったというのに、あっさりと、進んでいった。

 「わかりました。それでは、こちら…。ユキノ様」

 奇妙な言い方、だった。

 「何も、こんなときに、私の名前を呼ばなくても、良かったのに。そこのお姉さんとだけ呼んでくれれば、それで充分だっじゃないの」

 気に入らない点で、あふれていた。私の強がりが、場の空気に、誰も頼んでもいなかった強い糸を張らしていたのだった。

 「ユキノ様で、らっしゃいますか?」

 もう、変な聞き方だなあと思う余裕は、なくなっていた。

 「はい…。ユキノです」

 「そうですか。では、お姉様、こちらへきてください…」

 ほら…。

 「私が、姉だとわかっていたんでしょう?…だったらそう呼んでくれて、良かったのにさ」

 部屋の中は、線香の匂いで包まれていた。

 私には、ずいぶんと不謹慎なことを、思わされていた。

 「ああ…。クリスマスケーキの上に輝くキャンドルライトのように、今日のこのすべても吹き消せたのなら、良かったのに」

 誰かが、何も言わずに、横たわっていた。

 「確認を、お願いいたします」

 ここで、何を確認しようと、目の前の人が話しかけてくることはあり得なかったのに、それでも確認しろは、拷問も、良いところだった。

 「ご心配なく」

 私もまた、欺瞞を吐いていたわけだ。

 もしかしたら、学校の先生たちと、同じレベルだったのだろうか?

 「…父に、…間違い、ありません」

 「そうですか。どうか、手をつないでみてください」

 そう言われても、私には、何もできなかった。

 「手をつないだからどうなるものでも、ないわ」

 強がっていたわけでは、なかった。

 もちろん、父の思いを受け継ぎたくはなかったから手を握りたくなかったとか、そういうことじゃあ、なかった。

 何と、言おうか…。

 父と手を結んでしまえば、これまで争ってきた母への挑戦ができなくなってしまうような気がしてきてしまって、恐れ、触れられなかったのだ。

 私は、もともと、母に勝ちたいと思う人間だったようだ。

 今、どこか別の場所で寝ているであろう母は、頭に「超」の字が付くほど、優秀な人だった。勉強家で、数々の成功を、収めてきたようだ。

 そんな優秀な母には、負けたくなかった。

 ずっと、そうだった。

 「超」が付くほど優秀な母が選んだ父は、「普通」が付くくらいの人だった。母と比較すれば、歴然とした差があった。

 母は、そんな父の姿を見て、残念な気持ちもあったのかも、しれなかった。

 …だからなのか、私は、母によって、小さなころから鍛えられたものだ。

 いろいろな塾に、通わされた。

 私は、小学校に入学すれば、もっと上のランクの進学校にいくように言われたものだった。母は、私の成長を、おそらくは、誰よりも望んでいたはずだ。

 私には、そんな人と共にいられた父が、怖かったのかも。

 畏怖の対象としての父と私が手を結ぶことなんて、できるわけなかった。

 「母と戦うためには、まず、父を超えないとならない」

 子どもとは、そうして、成長していくものだったはずだ。

 「ええ?父親と戦うのって、息子だけじゃあ、なかったのか?」

 そう言えた人がいたら、ちょっと、今どきの社会感覚では、どうなんだろうか?

 不安だ。

ジェンダー・ギャップは、どこまで進む?今の社会では、父親の敵は、娘でもあった

はずだ。

 もっとも、こんな意見もあった。

 「それって、おかしくない?僕は、お父さんともお母さんとも、友達だよ?いつまででも、仲良しさ。っていうさ、戦うの?何と?何で?戦うなんて、古いよ。皆と一緒に、ゴールイン。新卒一括採用で就社なんだから、寝ていて、オッツー!僕、来年、入社組!それが、何か?入社先の人たちとも、ずっと友達で、暮らすんだ。うふふんな感じで、教えてくれるんだ。何かさ、社会に出ると、固定電話っていうのが、あるんだって。それ使って、ラインとかすんのかな?みたいな。よっしゃ、ゲッツ!」

 社会は、本当に、変わった。

 「何なんだろう。今の、私?」

 そう言えた自分自身が、無責任にも感じられてきて、許せなかった。

 「欺瞞を続けているのは、私のほうなのかもしれない。…私のほうこそ、今の状況を遠くに見て、言いつくろってでも、この場をやり過ごしたかっただけなのかも…。まるで私も、学校の先生レベル。私だって、卑しい教育者、だったわけか…」

 ちなみに、私の塾通い鍛錬が、ほとんど母の情熱や期待からのものであったと理解できたのは、小学生も高学年のころだった。

 当時は、中学受験という謎ルートが、ようやく、世間的に熱を帯びてきたころだった。母には、鍛錬の中で、こんなことを言われたものだった。

 「中学受験をがんばって、優秀な学校に、入りなさい。将来は、医大にいきなさい」

 私は、その期待に、素直に従った。

 母の期待を裏切ることは、自分を精神的に殺す行為につながるんじゃないかという気がして、逃げられなかったからだ。

 気持ちが、悪かった。

 気持ちが悪くなったことがまた、気持ち悪かったものだ。

 私は、従った…。私は、全身全霊で私を鍛えてくれた母に、全身全霊で、応えようとしていたはずだ。

 そんな、素直に従ってくれていた私という娘にたいして、母は、どう思っていたことだろうか。

 「ほら、この母を、見習いなさい!どこまでも、私という母のことを、忘れないでいてちょうだいね」

 まさか、そんなことを思っては、いなかったろうか?

 「お母さんは、どこまでも、あなたという娘に、愛の影響を与えていきたいの。ねえ、わかる?」

 さらにそうも念じながら、私の背中を押そうとしていたのではなかったか?

 母の期待を背負わされてしまった私は、自分で選んだ面白そうな本を読む度に、いらぬ言葉を、挟まれた。

 「ちょっと、何の本を、読んでいるの?」

 気分を害されたこと、甚だし。

 「何だって、良いじゃないの」

 「良くないでしょう?あなたは、お姉ちゃんなのよ?」

 良く考えれば、何の説明にもなっていなかった説明で、押し付けられようとしていたものだ。

 「あ…。似ているな」

 教育現場でのことを、思った。

 いつだったか、母は、こんな教育論を引っ張り出そうとしていたものだった。

 「ねえ、ユキノ?寓話って、知っているわよね?大きくて強い動物の毛皮を被って、小動物が、威張っちゃう、みたいなさあ。学校の先生も、同じよね?」

 「そう?」

 当時は、不思議だった。が、今でなら、良くわかる気がしてきたものだった。

 「だって、そうじゃない?学校の先生ってさ、格好良いことばっかり言って、偉い人格者を気取ろうとしていたでしょう?」

 「うん」

 「全校集会なんかで、児童生徒の前で話すと、格好良く見えちゃうじゃない?」

 「うん」

 「でも、あの姿は、大きな動物の毛皮を被った、小動物に過ぎないんだからね?」

 「そう?」

 「格好をつけた先生たちが、格好をつけていられるのは、そこが、教育現場という、あの人たちのプライドテリトリーだったからでしょう?あの人たちが、教育現場から、外に出てごらんなさい」

 「ああ…」

 「欺瞞の、固まり。それが受け入れられないのは、ユキノにも、わかるわよね?」

 「でも…?」

 「何、ユキノ?」

 「私の担任の先生は、しっかり、していたわよ?」

 「学校の中では、でしょう?」

 「…」

 「家庭や民間社会に入ったら、どういう存在になることか。あの人たちが、ちょっとやそっとじゃ解雇されないという地位を悪用して、どれだけ醜いことをやろうとしていたことか。そして、実際に、やっていたか。わきまえられていたあなたなら、わかっていたはずです。お母さんの子どもなんですから、絶対に、わかっていたはずです」

 「…」

 「あの人たちは、それで、追及されてまずいことになれば、どうすると思う?」

 「隠す…?」

 「そうね。隠して、それでもわかったら、こう言うのよ?ぼ、僕たちは、国の命令で、やっていただけなんですう。公務員だから、しゃべれません。守秘義務っていうのがあって、あの子たちをどうつるし込んで…。とかは、言えないんですう。僕たちは、悪くないんですう。国の、命令でえ…」

 「うん…」

 「あなたは、まだ知らないのかもしれませんけれど、新卒のヒヨコちゃんと呼ばれる人たちが、そうね。僕たちは、国の給いくの、被害者なんですうって…」

 「あ…。そういう言い方…」

 「ユキノも、聞いたことがあるんじゃないの?」

 「うん」

 「それが、あの教育者たちの、真相なの。欺瞞、欺瞞」

 その日以来、教育者や欺瞞、児童生徒の手本童話、果ては、教員幻想といった言葉が、頭から、離れなくなったものだ。

「先生は、君たち児童生徒の手本です!」そう言っていた学校の先生がいたが、ほぼ

ほぼ病的発言としか、受け止められなくなっていた。

 「それにしてもさ…」

 「何?」

 「お姉ちゃんらしくない本、なんじゃないの?その本、あなたには合わないんじゃ、ないのかしら?」

 「…」

 いわれのない罪に、震えていたものだ。

 私は、小さなころ、ミュージカルが好きだったこともあり、こう思っていたことがあった。

 「将来は、女優に、なってみたい」

 が、思いは、かき消された。

 「ふうん。それって、長女のあなたには、重いわねえ。パッと、しないわねえ」

 母の呪詛により、あえなく、撃沈。

 結局、私は勉強をさせられていくこととなった。仕方がなく、それでいて、時に私は、喜ばしく勉強をさせられていた。

 私が、喜ばしく感じられたのは、テストで良い点をとって、母に報告したような時だった。

 「あら?良く、やったわねえ?さすがは、長女」

 そうして褒めてもらうことで、私は、私を維持させることができていたのだった。実は私は、母をコントロールしていたという欺瞞としての自己満足神話に墜とされていたにすぎなかったのだ。

 本当は、見事にコントロールされていたのは、母ではなくて、私のほうだった。

 それに気付けたときには、ひたすら、文句なく母のレールを走らされ、それで良しとする私がいたものだ。

 私は、母が良い顔をしてくれたとき、本当に、うれしかったものだ。

 母の顔色をうかがいながら、母を満足させることで、こちらこそ満足を感じて安心感を得て成長が許されるという、私なりのステップアップ。しかしそれは、本当に、くたびれた神話となった。

 私の神話、私の心根が、気持ち悪かったものだ。、

 「もっともっと、上を目指しなさい。できるわよ、私の娘なんだから」

 母には、何度となく言われてしまった。

 「えー?お母さん、いっつも、そういうこと言うんだよね。長女って、損ばかり。良いなあ。ツキノは、遊んでられるし」

 けれども、最後には、こうなっていた。

 「わかったわよ。勉強する」

 親に反抗のできない子どもの存在が、私ながらに、寂しかった。

 中学校に進学するにも、受験の段階を踏むことが多くなっていた。

 「社会は、変わった」

 母は、何度となく、言っていた。

 「社会は、変わったわよねえ。お母さんの頃は、自動的に、地元の中学校に上がれたのに。って、今でももちろん、そういうことはあるけれど」

 そういうことだったから、社会が変わったというのは、まんざら、ウソではなかったろう。

 「ユキノ?変わる社会、ついていくのよ?中学受験を、しなさい!」

 「えー!」

 「あなたなら、できるわ」

 「でも」

 「お母さんの子、なんだから。大丈夫」

 「でも」

 「あなたたちの世代が文句を言っちゃあ、ダメでしょう?」

 「どうして?」

 「差別だもの」

 「はあ?どうして、差別?」

 「お母さんの頃は、んね?たくさん勉強して努力して、良い学校にいったら、良い会社に入って、バラ色の人生を歩めるぞって、言われた。だから、娘も、それくらいやってもらわないと、困るのよ。差別だわ」

 「でも…

 「なあに?」

 「お母さんたちは、がんばっちゃっても、社会にドボンで、残念賞だったんでしょ?」

 「だから…。あなたたちには、しっかりやってもらわないと、困るのよ」

 「はあ?」

 「差別に、なっちゃうもの」

 「はあ?意味、わかんないし。話の端々を隠すような言い方を、しないでよ。お母さん、嫌らしい。嫌らしいのは、学校の先生くらいにしてよね」

 「…」

 「ホント、嫌らしい。あれで、聖職者だっていうんだもの。私たちは、偽善者を生かすチャリティーをして、生かされているってこと?地方公務員の汚さには、呆れるわ」

 「…」

 「あれで、人を教育するのよ?ツキノが、かわいそう。汚らしい」

 何だかんだいって、妹を気遣ってしまうのだった。面倒見の良い長女に特徴的な思考回路にもまた、呆れてしまうこととなった。 

 「ツキノ、良いなあ。良くないかもしれないけれど、良いなあ」

 「…」

 「良いなあ。ツキノは、怒られないんだ。怒られるのって、いっつも、長女の役目なんだ。長女で、損した」

 「ユキノ?…やめなさい。そんなの、論理のすり替えじゃないの」

 「…わかってるわよう」

 「わかっていないわよ」

 「お母さんは、うるさいなあ!」

 ようやく反抗できた自分自身は、うれしくも何ともない成長だった。結局私は、母以上に、自分を慰めることでしか、気持ちを維持できなかったのだ。

 私の気付きは、すべて、不安だった。

 母の気持ちは、自信をもった、良くキレたナイフだった。

 そして、トドメ!

 「お母さんは、あなたのためを思って、言っているのよ?」

 それはそれは、恐怖の呪文だった。

 「本当に、私のために言っているの?」

 私は、迷った。

 中学受験は、事が上手く運べば、最高の予感がした。

 ある意味、フンワカとして、良かった。人生ルートが、楽に進んでいく感触をもてたからだ。

 「ユキノ?進学校に、いきなさい」

 「どうして?」

 「その先が、良く見通せるようになるからよ?」

 「ウソだあ」

 「どうして、ウソだって、言えるの?」

 「だって、今はどうだか知らないけれど、お母さんの頃は、努力とかしちゃっても、結局は、社会にドボン、だったんでしょう?だから、ウソだって、いえたのよ」

 「…」

 「そうなんでしょう?」

 「…」

 「そうして、優秀な人たちが置き去りにされて、そうじゃないっぽい人たちが、ゆるゆるに、社会に出てきちゃった。教育現場なんかみれば、わかるでしょう?今どきの学校の先生なんか、新卒レベルにもなれば、児童生徒にも及ばないレベルだって、いうじゃないの。ツキノが、かわいそうよね。ツキノ、来年、小学校に上がるのよ?」

 「そういう話は、やめましょうよ…」

 「だって!」

 「学校の新卒先生病は、お母さんだって、知っているわよ!」

 「じゃあ、さあ!」

 「もう、そういう話は、良いの!」

 「良くないじゃないの?」

 「…」

 「そういう話をはじめたのは、お母さんじゃないの?」

 話は、変な方向で、収束をした。

 「私…。どうしようかなあ?」

 中学受験組になろうか、本当に、迷ったものだ。

 中学受験組は、成功できれば、楽。

 「人生は、ギャンブルだ」

 たしか、ギャッビアーニとかいった人が、そんなことを言っていたものだ。

 「その言葉が、今でなら、わかる気がしてきた…」

 中学受験は、友達コースを作る、良き機会となった。入学したときから、向こう10年近くずっと、同じ顔ぶれの中で生活できることになるのだ。

 まわりの人は、友達だらけ。

 友達感覚、最高だ。

 「もっともその感覚も、社会に出れば、どうだかわからないけれどね?」

 母は、ちくりと、そんなことを言っていたが。

 さすがにその意味は、良く、わからなかった。

 「ユキノ?まあ、良く、考えることね?コースに乗れなくても、良いんだから」

 「はあ?ずいぶん前にいってたことと、矛盾してない?」

 せめてもの、抵抗だった。

 母の口から、コースに乗ることの怖さが、語られた。

 友達感覚に慣れてしまうと、本来バラバラの集団の中で築き上げられるべき協調性や社会性が、ほころび易くなる危険があるのだという。

 「お母さん?そうなの?」

 それ以上は、教えてもらえなかった。

 母は、パートの現場で、そういう状況を、見てきたのだろう。きっと。

 友達世界の中でならば、何をしても、ある程度は、通用しただろう。

 けれど、一歩外に出てしまい、知らない人の間に立てば、弱、弱。

 最悪、あるべき心のタガが外れて、セーブできなくなり、存在価値を無視した暴走をはじめてしまう。

 今どきの学校の先生などが、そんな心のタガが外れてしまった人の、悲しき一例だったろうか?

 私は、がんばってきた。

 オンリーワンなんかじゃなくって、ナンバーワンを、目指して!

 「きっと私は、自他共に認めるがんばり屋さん」

 きびきびと、感じられたことだろう。

 私は、がんばった。

 困った先生、偽りの教育者とにならないように、がんばらざるを得なかった。母は、そんな私を見て、幸せだったことだろう。

 「まあ!さすがは、長女だわ。私に似て、がんばり屋さんね」

 仮面を被ったような劇役者に浸っていたことだろう。

 しかし、私は…。


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