#第6話-吉岡咲③-

 ——アイドルとは何者なのか。


 芸能界に残ると決めた時も、もうアイドルはやらないと心に決めていた。東京の街中でスカウトを待ちわびていた13歳の自分とは違う。

「折角のお話ですが、アイドルは引退したんです」

 そう言いきって、口をつぐむ。面様を窺うために視線を膝元から移すが、田辺の表情はまるで動じていない。予想通りの返答がきたと言わんばかりの様子で、少し気味が悪かった。

「どうして、というにはが過ぎますね。あれだけのことを経験された後ですから」

 あれだけという指示表現が抽象的で、余計に鼻につく。私の、私たちの何を知っているというのだろう。結局この人も私の話題性だけを利用しに来た醜い大人の一人だ。その裏に隠れている、黒馬央司という人物も然り。

「もうよろしいでしょうか」

「本気ですよ」

 腰を浮かせた瞬間、田辺は食い気味に言った。彼の真っ直ぐな瞳孔に映る私の表情は、本音と建前が交錯している。嫌悪感が隠しきれていない。

「黒馬央司は、本気ですよ」

 今度は主語を明確にして言う。せめて冗談っぽく言ってくれれば、こちらも苦笑いで対応できたものを。不愉快でしかなかった。何をこの人は、こんなにも必死になっているのだろう。

 丁重に一礼し、マネージャーを置いて私だけ応接室を後にした。その後の応接室でどんなやり取りがされていたのかは知らないが、マネージャーが一切口を出していなかったあたり、この件は上も了承済みなのだろうということは分かった。つまり私は事務所にとって居なくなっても惜しくない存在だということ。私に商品価値を見出していた半年前とは、当てが外れたのだ。


 その翌日も、翌々日も、田辺は事務所に来た。意地悪だなと分かっていながら、彼の待つ応接室の前をあえて素通りして、交渉に応じる意思がないことを明確に示した。それでも、さすがに4日連続で面会を求められた時、応接室の扉を粗雑に開けて「本気なら、せめて黒馬さん本人に来させてはいかがです」とだけ言ってやった。もちろん、黒馬が直接交渉に来れば受けるという意味ではない。無駄なおつかいから田辺を解放してやりたいという、せめてもの善意のつもりだった。

 そんな片手間の善意を人に与えたところで気分は晴れず、インターネットテレビ番組用のアンケート書類を書く手が度々止まった。その度に手に持っていた鉛筆を意味もなく転がして、思いに耽る。

 自分は、何をしているのだろう。鉛筆のようにこのまま身を削りながら、終えていくのだろうか。だとすれば、意味のない独立した線を淡々と描くだけの命は虚しいだけだ。鉛筆の芯は、硬いものが薄く、柔らかいものが濃い。理屈としては分からないけれど、いつの間にかそうだと知っていた。色んな芯で描いた明暗なる線を織り成して、1つの芸術作品を作り上げる。そんな人々の心に残るような素描をしたいという気持ちは、私の中にまだ残っていた。それでも、今の私に綺麗な線は描けない。沙耶は普通の女の子という新しい色を見つけたというのに、結局私は半年経った今も何者にもなりきれてはいないのだ。


 自宅に帰ったのは夜8時を過ぎていた。集合住宅に世帯を構えている我が家だが、元々はもう少し家賃の安いところに住んでいた。しかし、私のアイドル活動が軌道に乗り始めメジャーデビューの話が出始めた頃、父親がセキュリティのしっかりした今の家に引っ越すことを提案し、母親が即決した。父親は単身赴任中で、直接会うのは年に数回程度。母親は最近、昔働いていた職場に復帰して、今日は遅くなると連絡が入っていた。普通の家庭といえば、そうかもしれない。その普通を奪ったのは私自身。両親は私の芸能活動には一切言及しない人だった。それは私も同じで、仕事の話はほとんどしたことがない。けれど、わずかでも私が映っている番組があれば録画されており、ワンカットでも掲載されている雑誌があれば必ず発売日に本棚に並べられていた。アイドル時代に出したCDやDVDも、初回限定盤から通常盤まで全て揃えられている。

 帰りにコンビニで買ってきたサラダとサラダチキンに、ウォーターサーバーからグラスに注いだ軟水を合わせてこの日の夕飯とした。柔らかい肉質のサラダチキンとドレッシングの酸味が見事に調和する。当然これだけでお腹が満たされるわけがない。でもこれが私のアイドル時代からの習慣になっている。昔はプロ意識とスタイルを維持したいという自己顕示欲が原動力だった。今は、正直わからない。

 食事を終えて歯を磨くと、自分の部屋に戻ってベッドに倒れるように寝転がった。

「あー、疲れたぁ」

 意味のない独り言だった。特段仕事をこなしてきたわけでもない。呼吸するように吐いた、本当に無意味な独り言。最近やたらと増えた気がする。ベッドの上に横たわりながら、お決まりの動画サイトを開く。ホーム画面にはおすすめ動画が並んでいて、2つに1つはアイドルに関連する動画だった。ここでもアイドルの世界に誘われようとしている。まるで私の現実を風刺しているようだ。

 ホーム画面をスクロールしていると、私が所属していたグループのまとめ動画が出てきた。今より1歳か2歳若いだけなのに、ずっと幼く見える。萌香も、沙耶も。あんなことがあった、こんなこともあったと思い出を追懐して、思わずにやついている自分がいた。

「楽しかったなぁ」

 また独り言だった。独り言だったのが、妙に寂しく感じた。追憶とともに、乾いた空気の中で消えていく。

 途中、動画広告の画面に切り替わった。真っ先に打ち出された「アイドル募集」の文字。またか、と思ってしまう。折角の神妙な気分が台無しだ。ところが、「Ltd.Ⅴ」という既定のグループ名を見て、広告をスキップしようとしていた手が止まる。

「Ltd.Ⅴって確か……」

 そうだ、間違いない。田辺が勧誘してきたグループの名前だ。スマホで検索してみると、思いのほかヒットした。動画サイトだけじゃなく、アイドル関連番組の合間のテレビコマーシャルや若者向け雑誌でも広告を載せているらしい。聞いたこともない芸能事務所、プロデューサー。それなのに、各メディアで広報活動ができるほどの資金源を持ち、大手レコード会社とも繋がりを持っている。傍から見れば確かに美味しい話だろう。いきなりメジャーレーベルからのメジャーデビューを約束しているのだから。でも、正直不気味だった。今まで見てきたアイドルとは、決定的に何かが違う。その理非曲直は明言できなかったけれど。

 よく見たら応募期間は今日の夕方に締め切られている。田辺はそんな時期に、毎日私の事務所に足を運んでくれていたのかという考えが脳裏を掠め、同情とも温情とも言えない煩雑な感情が、心の中で絵の具のように混ざり合う。だが、応募期間は終わった。これでいい、これでいいのだと自分に言い聞かせ、考え事をしているうちにそのまま眠りについてしまった。いささかプロ意識に欠けていたなと、自分でも思う。


 しかし翌日も田辺は事務所に来た。この日は火曜日だったが祝日で、朝起きてからゆっくり支度をしてそのまま事務所に向かった。昨日の夕方から明朝にかけて降っていた雨は止んでいたものの、曇り空に変わりはなかった。11月に入ってからずっとこの空模様である。これまでと同様に応接室の前を通り過ぎたところで、ぴたっと足を止め、弱々しく溜息をつく。潮時かもしれない。踵を返し、応接室の扉を開けた。田辺はちょうど手に取っていたコーヒーカップをゆっくりとソーサーに戻し、ソファから立ち上がって一礼した。

「本日も、お時間よろしいでしょうか」

「もう、Ltd.Ⅴのメンバー募集期間は過ぎたはずです」

 そう言ったところで田辺は私にも座るように促した。私はしぶしぶ承諾して田辺と対面するように座ると、すぐさま会話の続きに戻った。

「ええ。しかし、これはスカウトであって広報ではありません。応募期間に束縛されることも、オーディションだって受ける必要はありません。たとえ貴方が希望したとしても、黒馬は受けさせないと言うでしょう」

「どうして、私にこだわるんですか」


 ——アイドルは、人々を幸せにする存在。私はそんなアイドルの姿に憧れた。


「私の世間からのイメージは、今やただの汚れた芸能人。ビジネスマンが冷静に考えるならば、私がアイドルをやることはむしろデメリットしかないはずです」

 汚れ。枕営業や闇営業が横行していた環境下にいたのだから、世間は画一的にそう捉えている。事実なんて関係ない。世間は面白おかしく邪推したがるものだ。


 ——けれど、これでは「何者なのか」という答えにはなっていない。何者かなんて、誰だって知らないんだ。


 田辺は一度視線をテーブルの上に落した後、再び私と目を合わせた。

「アイドルとしての才能を持っているから。貴方をスカウトする理由は、それだけじゃダメでしょうか」

「事務所やグループに、不利益を被らせる結果になったとしてもですか」

「それでもです。黒馬も、この点は重々承知しています」

「やはり、ある程度はリスクを感じているんですね」

「仕事にはつきものです。重箱の隅をつつくような議論は避けましょう」

 前傾気味になった姿勢を戻し、咳払いをして仕切り直すと、田辺は優しい口調で言った。

「とにかく、マイナスの影響もこちらが受け容れている以上、この話を断る理由はないはずです」

 その通りだ。昔と違って、何かやりたいことがあるわけでもない。どん底にいる私を、いわくつきの私を、これだけ必要としてくれるなら、応えてもいいんじゃないかと思う自分もいる。けれど、どうしてもいけないことのように思えたのだ。萌香の気持ちが、今なら少しだけ分かる。もう、後戻りできない。汚れの私には、アイドルは見合わないんだ。

「でも、私は、もう……」

『いつまでそうしてるつもりだ』

 全ての雑音が、ぴしゃりと止んだ。田辺は胸ポケットからスマホを取り出し、テーブルの上に置いた。画面は通話中になっている。

「黒馬プロデューサーと繋がっています」

 黒馬央司。彼自身の口から聞きたい。私に拘泥する理由を。

「黒馬さんは、どうしてそんなに私を贔屓にしてくださるんですか」

『贔屓? 自惚れるな。話題性とかいう、ちんけな理由で口説いてくる馬鹿共と一緒にするな』

 スマホから流れるスピーカー音は、ドアの前で待機しているマネージャーにも当然聞こえているはずだったが、聞こえていないふりをしているのか平然とした様子だった。これには流石に田辺もバツが悪そうに俯いていると、黒馬は『ただ』と言葉を付け足した。

『佐倉萌香は命を賭してお前の才能を守った。このままじゃ本当に浮かばれない、そう思っただけだ』

 不思議と、この人は全てを見抜いている人なんだと直感した。前の事務所の大人たちのように乱暴な言葉遣い。それでも、温かさがあった。


 ——だからもし、もしも咲が、もう一度アイドルになる分水嶺に直面したならば。


『これで最後の交渉だ。もう一度、うちでアイドルをやるか否か』

 これで最後。ならば、ここでノーと言えばこの話は終わる。終わる、はずなのに。

「もうどうしたらいいのか……わからない……」

 涙と一緒に、鼻水が垂れる。きっと酷い顔になっているだろう。人前でこんな無様な姿を晒すなんて、ありえないはずだった。萌香の訃報を聞いた時も、葬儀の時も、涙は流れなかった。今になって、私の中で何かが壊れたように色んなものが溢れてくる。止まらなかった。

 目の前にそっと、紺色のハンカチが田辺から差し出された。顔に当てると、母親が贔屓にしている中性洗剤の香りが広がる。嗚咽して言葉が出なくなっている私を、落ち着くまで2人は静かに待っていた。

「私が答えを出す前に、1つだけ教えてください」

『何だ』

「アイドルとは、何者ですか」

 珍しく数秒、間があった。

『今はまだ、答えられない』

 落胆しそうになった。しかし黒馬は、『なぜなら』と続けて言った。

『その答えは、アイドル戦国時代の先にあるからだ』

「アイドル戦国時代を、Ltd.Ⅴが終わらせるってことですか?」

『そうして初めて判然とするはずだ。アイドルとは何者なのか。それを証明するために、Ltd.Ⅴは誕生する』

 理解が追い付かない。この人は一体、何を企んでいる?

「それはつまり——」

『俺が答えるのはここまでだ。あとは自分の目で直接確かめろ』

 今のままでは、厨二じみた夢物語だ。それでも賭けてみたくなった。2度目のアイドル活動に。黒馬央司という人物に。


 ——願わくば、


 曇り空の裂け目から顔を出した漏れ日が、ブラインドカーテンの隙間を縫うようにして足元まで伸びている。

「——————」

 私の決断を聞き届けて、黒馬は静かに通話を切った。


          *


 あれから1カ月半程が過ぎた。世間はクリスマスやら年越し準備やらとイベント事に必死になる時期で、師走とは名ばかりに老若男女が忙しなくしている。

 私も例外ではなく、そして私たちにとって大切な日を迎えていた。この日、Ltd.Ⅴのメンバーが初めてマスコミの前で正式に発表される。会場の準備が終わるまでの間、楽屋での待機を命じられた私たちは、これから一緒に活動していく仲間に対してもまだ様子見だった。話しかけるタイミングを窺っている子。緊張で固まっている子。泣き出してしまった子。誰も彼も初々しい。今の彼女たちは良くも悪くも真っ新で、何色にも染められていない純白だ。でも私は違う。既に社会で醸成された汚れのイメージがある。オーディションを受けていないことも卑怯だと叩かれるかもしれない。間違いなくマイナスのスタートだ。それでも——

「それでは皆さんそろそろ移動を始めてください」

 スタッフのお姉さんが楽屋中に向かって声を張る。一瞬声が裏返った。お姉さんも慣れていない様子だ。他のメンバーに紛れて簡単に返事をしながら、萌香からのダイレクトメッセージに対して返信を打ち込む。

「吉岡さん、だよね。一緒に行こう?」

 震えた声で、1人の少女が私を誘う。きっと、今までとはらしくないことをしたんだろう。この子も、Ltd.Ⅴを契機に変わろうとしているのだ。見渡せば、楽屋には私と彼女の2人だけしか残っていなかった。

「白咲さん、だったよね。咲でいいよ」

「じゃあ、私も真己で」

 彼女の声がぱっと明るくなった。綺麗な顔立ち。オーラもある。目の前にすると、心が温まる。不思議と笑顔になる。天性のアイドルを形容した存在だ。この子はグループの顔になると、悟った瞬間でもあった。

「うん、一緒に行こう」

 萌香に「行ってきます」と送信して、真己と楽屋を後にする。その返信に既読がつくことはない。

 私は再び、アイドルとして生きていく——

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