#第5話-吉岡咲②-
萌香の葬儀は、関係者のみでしめやかに営まれた。嗚咽する彼女の両親の姿見て、佐倉萌香という人生の存在を知る。
索条痕も綺麗に修復されており、死化粧された萌香の表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。自ら命を絶った人間のそれには相応しくないほどに。ずっと笑顔だったけれど、この表情こそが自然体だったのだなと今になって気づかされる。
何より衝撃を受けたのは、彼女のお腹に新しい命が宿っていたことだった。その命の父親は誰か、分かっていない。にも関わらず、事務所側はその事実を否認して隠蔽することに必死だった。腐った大人たちの不自然な行動からもたらされる憶測が、芸能界の深淵に沈吟していく。
私は、何も知らなかった。何も知らなかったんだ。萌香が知らないところで、もがきながら、別の何かと戦っていたことに。知らないところで、その何かから私たちを守っていたことに。自分のことしか見えてなかった私は、どうしようもなく、愚かだった。
「萌香、どうして大学受験なんてしたんだろう」
火葬場に向かうマイクロバスを横目に見送って、沙耶が細い声で聞いてきた。
「ううん。わからない」
わからないことだらけだった。私が知っている萌香は、本当の萌香だったのか、それすら定かではない。
プロデューサーや事務所の幹部を乗せた車が、マイクロバスに続いてせこせこと走り去っていく。萌香の訃報を業務用メールで送ってきたきり、私たちなどかまっている暇はないと言わんばかりにほったらかしだった。それどころじゃないのだろう。メジャーアイドルの奇妙な自殺を口火に、事務所がしてきたこれまでの悪事が暴かれていく。警察に労働基準監督署、叩けば埃は出てくるようで、脱税疑惑で国税庁までが動き出している。きっと、あまりの世間の関心に、今まで事務所を裏で守ってきた連中もお手上げだったのだろう。保身に必死な様子だった。
2人して、葬儀場の最寄りより1つ先のバス停まで歩いてきた。示し合わせたわけではなかったが、無言のまま気脈が通じたようにここまで来ていた。道沿いに並ぶ桜はほとんどが散っていて、それを追い越さんとするばかりに若葉が覆っている。「桜餅みたいだね」と言いかけて、まだ無言の空間を貫いた。薄紅色の花びらが昨夜の雨で湿った地面に残っている。
暫くの静寂が破られる呼び水となったのは、バス停に着いてから鳴ったスマホの着信音だった。沙耶のスマホも同時に反応していたから大方の送信者を予測して画面を開くと、マネージャーから「グループは解散する」と一文だけ記されていた。別に驚かなかった。最後まで雑な扱いだったなという乾いた感想が、「はは」と2文字の冷笑に変換されて口から零れた。
「沙耶は、これからどうするの」
「もういいかなって思ってる。元々、アイドルに拘りなんてなかったから」
「芸能活動自体、もうしないってこと?」
「うん。もう色んなバイトもできるようになったし、何より萌香が命を賭して切り開いてくれた脱出口だから」
「なんか、最後まで守られっぱなしで、すごく惨め」
「惨めだし、自分が許せないよ」
沙耶が下唇を噛む。彼女の正面には、無数の車が行き交っている。
朝のワイドショーで、最近テレビでよく見るコメンテーターが「なぜこうなる前に逃げなかったのか」と無責任に言っていた。そんなこと、何回もやっている。辞めると言えば違約金を支払えと脅され、親を仲介しても本人の問題だと突っぱねられ、強行突破を試みれば命の保証はなかった。私たちにもう幾ばくかの知恵と勇気があれば、逃走を成功させることができたというなら正論に近づくかもしれない。けれど、面白おかしくトリミングされた情報だけで、私たちの人生を軽薄に侮辱することは許せなかった。
所詮、世間の関心なんてさっきの桜と同じで一瞬にして儚く散っていくというのに。散った後に懸命に芽吹く若葉には、一切の興味なんてないのだから。
「普通の女の子に戻れるの」
「わかんない。でも、戻りたい」
沙耶の言葉は力強かった。そんな彼女の姿に、私は安心した。
「咲は。咲はどうするの。これから」
「別の事務所のオファーを受けようと思ってる」
「芸能界に残るんだ」
「アイドルはもうやらないけどね」
憧れだったモデル業に挑戦したいと言葉を続けようとして、言葉にならなかった。いつの間にか幼い頃からの夢でさえ雲散霧消していたことに気づく。すると突然、とてつもなく空虚な感情に晒される。今の私には、何もないのだ。
萌香が亡くなってからというもの、いくつかの事務所から転籍のオファーが来ていた。悲劇のヒロインでも求めてるのだろう。個人的には、そんな不謹慎な事務所などろくでもないと思っていたが、受けることにした。これからどうするべきなのか、何かしたいのか。もう、自分でも分からなかった。
「軽蔑した?」
「いや、全然」
バスは時刻表通りに来た。ドアブザーを鳴らしながら乗車口が開くと、沙耶はICカードを読み取り部にかざしながら粛然と乗車する。席はほとんどが埋まっていて、優先席が1席空いているだけだった。沙耶は振り返ると、バス停で立ち止まったままの私を不思議そうに見ている。
「乗らないの」
「1つ後のバスで帰ることにする」
「そう。ずっと、応援してるから」
「そっちこそ。楽しいJKライフ、聞かせてよ」
話している途中にドアブザーが鳴り、後半をかき消された。沙耶を乗せたバスが、走り去る。車体の大きなバスは他の車両群に溶け込むことはなかったが、次第に視界から消えていった。
次のバスが来るまで、20分はあった。それでも、同じバスに乗ることはできなかった。沙耶のこれからの人生に、私がいてはならない。
スマホの画面を再度開くと、グループの公式サイトの更新通知が届いていた。昨日更新された萌香の訃報に続き、グループが本日付で解散されるという内容が新たに加えられている。事務所は公式サイトにおいても、記者の取材に対しても、佐倉萌香の遺書は見つかっていないため自殺の理由は不明だと主張していた。その真偽は定かではないが、私のところには萌香から私用のSNSにダイレクトメッセージが届いていた。多分、沙耶のところにも。内容は私の未来に関することだった。けれど、そこにグループの未来については一切記されていなかった。
だから、これだけは分かった。萌香はメジャーという、より多くの人目につく世界で自ら命を絶つことで、事務所の悪事を暴露し心中を図ったのだ。そうすることで、屈辱的な扱いをしてきた奴らに対し復讐を果たした。そして、同時にその呪縛から私たちを解き放ってくれた。
「お姉さんぶらないでよ……」
喉がぎゅっと締め付けられた感じがして、しわがれた声になった。気づけば、私がアイドルになった時の萌香と同じ歳になっていた。高校一年生。誕生日を4月頭に迎えている私は、16歳になっている。いざこの歳になってみると、まだまだ全然子供だなと思う。萌香はこの年齢の時から、ずっと芸能界に蔓延る見えない何かと戦っていたのだろうか。未熟な身体と、見栄でしか大人になれない心で。
結局私は、次のバスにも乗ることができなかった。
*
——夜遅くにごめんね。咲が寝ているであろうこの時間に送ってしまいます。
佐倉萌香の死から、半年が過ぎた。グループ解散を発表した後、事務所は呆気なく潰れ、私は沙耶に話した通り別の芸能事務所に転籍した。オファーを出してきた事務所の思惑通り、当初は話題性も手伝って仕事の話がいくつか舞い込んできたが、それらを受けることは萌香の死を利用しているようで、胸を締め付けられる思いがした。
——まずは、勝手な行動で咲たちにまで迷惑かけたこと、謝らせてください。多分、大変な騒ぎになってるよね。でも、私にはこれくらいしかできなかった。
それでもやはり、世間の関心なんて一瞬だった。芸能人が不倫しようが、ひき逃げ事故を起こそうが、とどのつまり仮初の正義と使い物にならない綺麗事を並べる人間が一時的に繁殖するだけで、1か月後にはそのほとんどが忘れている。それがたとえ、18歳のアイドルが陵辱された挙句、自ら命を絶つという悲劇だとしても。
——事務所からグループのためだと言われて、これまで身も心も汚してきた。2人には言えないようなことも、たくさんしてきた。2人を守るためだと言い聞かせて。でも同時に、アイドルとしての私は死んでしまった。そんな自分が、許せなかった。
今でも時々、萌香からの最期のメッセージを読み返すことがある。もう暗唱してしまうほど繰り返し読んだが、やはり文字として目にしたかった。読み返すたびに、毎回違う感情が現れる。憤怒、悲哀、同情、自己嫌悪、悲憤、後悔、感傷。この時だけ、感情の機微に聡い血の通った自分と巡り会うことができた。
——私には、もう何もない。もう戻れない。
アイドルでなくなった私の芸能活動は、どうにも冴えないものだった。映画でよくある、正解を選ばないと同じ日常のタイムループから脱出できない世界を生きているように、うだつの上がらない日々を脱力的に処理しているだけ。かつて強欲なほどにあった原動力ともいえる自己顕示欲は、影も形もなくなっていた。
——けど、咲は違う。咲は、才能に溢れてるから。もっともっと、輝ける。でもそれは、今いる場所じゃない。
今日も色気のない末枯れた木々が並ぶ街道を通って事務所に向かう。惰性に生きる時の移ろいは、味気なく刹那的だった。
「吉岡、ちょっといいか。君にお客様だ」
しかしこの日は少しだけ違った。事務所に着くとマネージャーに呼ばれ、応接室へと通された。この事務所に転籍して半年が過ぎたが、来客用の応接室に入るのはこれが初めてだった。
——これから記す内容は、私が見届けたかった咲の未来の話です。
応接室に入ると、大きな黒いソファに小ぢんまりとした様子で1人の中年男性が座っていた。中年男性というにはまだ若い気もする。30代前半、いや、童顔なだけで40歳は過ぎているかもしれない。とにかく、如何にも高級そうなスーツを清爽に着こなしており、この人は裕福で何一つ不自由ない生活を送っているんだなという独りよがりな印象が目に張り付いてきた。いわゆる、勝ち組というやつなのだろう。
男性はすぐさま立ち上がり、手慣れた様子で名刺をこちらに差し出してくる。
「はじめまして。私はLtd.プロダクションの田辺健治と申します。本日はLtd.Ⅴプロデューサー・黒馬央司の代理人として話をしに参りました」
「Ltd.Ⅴ……黒馬央司……?」
社会人のマナーは分からなかったが、それっぽく名刺を受け取った。聞き慣れない名前ばかりで困惑していると、一緒に入室したマネージャーがとりあえず座るように促す。対面するようにソファに座ると、田辺は背筋をぴんと張り、姿勢を正した。
「単刀直入に申し上げます」
——そのためにはまず、あの時答えられなかった質問に今、答えようと思います。
「Ltd.Ⅴのメンバーとして、もう一度、アイドルをしていただけませんか」
分水嶺は、出し抜けにやってきた。
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