【EPISODE】2020.4.8(後編)

#MC-柊樹②-

 ライブ前の暗晦が、心の機微と調和して安らぎを与える。2千人は収容できる規模だった。ライブ会場中に響くオフボーカルの音楽、観客同士が話す声。すべてが雑音という一言に換言され鼓膜を叩く。1階はスタンディング、2階は座席。入場開始と同時に、2階の最前に構えた。15歳とは不相当にやつれた表情だったのだろう。嶋岡が俺の顔を覗き込む。

「誘っといてなんだけど、本当に良かったのかい」

「こういうのも、たまにはいい」

 出版社から契約を打ち切られ、漫画原作者を引退すると伝えても、嶋岡は繋縛しなかった。ここではもう、柊樹はオワコンなのだと悟ったのだろう。編集者としての直感と、原作者としての予見が合致した。それだけの話。いつものように「アイドルのイベントに行かないか」と別れ際に誘ってきた。普段なら断る。嫌味の1つも言っていたかもしれない。でも今日は首を縦に振った。何に期待しているのだろうか。自分は、何を求めているのだろうか。制服のまま。明日から学校も本格的に始まると言うのに、何を考えているのだろう。

 間もなく開演だと、女の子の声でアナウンスが入る。インディーズからメジャーに進出したばかりの今話題の3人組アイドルだと、横で嶋岡が浮き立ちながら饒舌に語り始める。そのほとんどを聞き流していたけれど。そうこうしているうちに開演を知らせるOVERTUREが流れ始める。呼応するかのようにコールするファンたち。初めて経験するにはあまりに奇々怪々で当惑した。可愛い衣装を纏った女の子たちの登場に、会場がさらに白熱する。アイドルとファンが共鳴し、1つのステージを作り出す。そんな単純な話じゃない。女の子、衣装、音楽、ステージ、裏方、ファン……すべてが一体となって織り成す総合芸術の名を、人々は「アイドル」と呼んでいるのだろう。

「あのセンターの子、名前なんて言ったっけ」

吉岡咲よしおかさきだよ。気に入ったのかい」

「いや、なんていうか、もったいないなって」

 嶋岡は小首を傾げた。その時の俺は、上手く説明できなかった。吉岡咲と後ろの2人が魅せるアイドルとしての笑顔の裏に隠された闇のようなものの正体を。それでも美しかった。居ても立っても居られなくなり、席を立ちあがる。後ろの観客が不快そうに顔をしかめる。マナー違反なのは分かっていた。周囲を気にしながら「もう帰るのかい」と嶋岡がせかせかと荷物をまとめ始める。

「大丈夫。1人で帰りたいんだ」

 俺の清爽な表情を確認して、安堵したのだろう。「そうか。じゃあ、元気で」と力強く別れを告げる。また今度、がない。もう、会うことはないのだろうと互いに予感していた。だから、「嶋岡こそな」とだけ返した。盛り上がるライブ会場を1人後にする。

 アイドルという芸術の存在を、真に知る。神も奇跡も信じてこなかった。救いの手など、差し伸べられないと知っていたから。必死に繕ってきた。これまで数えきれないほど苦患の連続だったはずなのに。——それでも今、涙が止まらなかった。

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