#第3話-白咲真己③-

 2月に入ってすぐのことだった。朝起きると、マネージャーからの不在着信とメールの通知に気づく。急ぎの呼び出しだった。場所はLtd.Ⅴ専属事務所「Ltd.プロダクション」内にある田辺健治の執務室。扉の前に来て、そういえば役員室に入るのは初めてだなと思う。ノックする手の指先がうずく気がした。「どうぞ」と声が聞こえ、一呼吸おいて扉を開ける。空中を爽やかなオーデコロンの香りが漂っている。真っ先に目に入ったのは、奥にある執務用の大きなデスクだった。その手前の光沢あるテーブルを挟むように、2つの大きなソファが平行に横たわっている。私服の黒馬が偉そうに右側のソファを陣取りながら足を組んでいる。今日は平日だった。柊樹はどうしているだろう。

 田辺は落ち着かない様子で執務用デスクの前に立っていた。苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべている。私を黒馬と反対側のソファに座らせると、A3サイズにモノクロで印字された雑誌の記事が目の前に提示される。

「この記事が、2月17日発売の週刊誌に載せられる」

 2枚の写真が作興して、喋喋しく文章が並ぶ。男子生徒と共に学校から出てくる一齣。そして、そのまま2人で車に乗り込む一齣。この男子生徒が黒馬央司だという発想に至る者など普通いない。撮影者の意図するように、同じ学校の男子生徒と仲良くしていると捉えるのがほとんどだろう。まさしく、スキャンダルだった。

「ご丁寧に新曲MV公開予定日の前日。俺に似て良い性格してるな」

 黒馬が顎をあげながら言う。唇を歪めながら田辺が私たちの顔を見比べる。

「こればかりは笑い事じゃない。白咲、お前だって自分の立場を理解してるだろう」

 高校生につきつけられた大人の世界の話だった。アイドルというパッケージに入った私の、商品価値の話をしているのだ。需要が減ったスーパーの食材に値引きシールが貼られる。そんな感じなのだろう。

「タナケン、落ち着け。白咲に当たっても仕方ないだろ。あの日、強引に同伴させたのは俺だ。責任は俺にある」

「ああ、もちろんだ。白咲に正体がバレたのもそう。でも、あんたに言ったところで伝わらない」

「手厳しい」

 黒馬が手を叩く。終始眉間にしわを寄せている田辺とは対照的だった。部屋には無駄なものが一切ない。電子機器を源流とするケーブルは見事にまとめられ、目立たないように壁の隅で処理されている。エアコンが規則正しく鳴り続けていた。

「当然、記事の差し替え交渉はするが——」

「やめとけ、無駄だ。放っておけ。別にやましいことなんてないだろ」

「それはこの3者間の話だ。記事が出たらファンはどう思う。ファンだけじゃない、世間に、白咲は糾弾されることになる。あんただってネット上で特定されて、平穏無事じゃすまない」

 田辺の見解は正論だった。下を向いて嘲笑する黒馬。感情が伝わらなかった。肯定も否定もせず、こくりと頷くと、静かに立ち上がる。扉の前で立ち止まると、私に言った。

「定期試験は14日からだ。もう芸能コースじゃないんだ、ちゃんと試験受けれるようにマネージャーと調整しとけよ」

 口調は平常だった。それでも違和感がある。田辺が深いため息をつきながら黒馬の座っていたソファに倒れるように座り込む。眉間を指で押さえながら、自身を消耗させる何かを鎮めようとしているようだった。

「あの、プロデューサーはなぜ、世間に正体を隠しているんですか」

「さあ。私じゃあ、考えが及ばないからね。ああ見えて、色々抱えているから。あの人なりの自己防衛かもしれないな」

「自己防衛……」

 復唱してみても完全には氷解しなかった。一角にはあっただろう。核心には、何かもっと大きなものが蠢いている気がしてならなかった。


 プロデューサーの意思とは裏腹に、田辺はスキャンダルを水面下で食い止めようと奔走した。しかし、叶わなかった。既にネット上では話題になっていたが、週刊誌発売の2日前になってようやくメンバー全員にスキャンダルの件が伝えられた。スキャンダルの相手が黒馬だとは、もちろん知らされずに。運が良いのか悪いのか、学校の定期試験や個人での仕事が重なって、ここ数日はメンバーと顔を合わすことがなかった。それでも、ゆいの怒っている顔が目に浮かぶ。夏蓮かれん日和ひよりは私をかばって宥めてくれているだろう。さきあおいはこの状況では焼け石に水だと諦観していそうだなとか。メンバー1人ひとりの反応が、ありありと見える。迷惑かけといて不謹慎だなと自分でも思う。普段なら決して潔しとしないはずなのに、道徳とは別の世界にいる自分が感動しているようだった。アイドルとしての人生、これが私の青春だったのだと。普通じゃなかっただけ。かけがえがなく、美しいもの。それを自ら傷つけてしまった。やはり、けじめはつけなければならない。


          *


 スキャンダルが掲載された週刊誌が発売された。想像以上の反響だった。この日は定期試験4日目でもあったが、学校周辺に待ち伏せしている人がおり、一時警察沙汰になるまでに至った。教師陣から苦言を呈され、試験は他の生徒から隔離された部屋で受験することになった。事務所の電話は鳴り止まず、中には脅迫まがいなものまであったと聞いた。SNSではトレンドになり、ファンやアンチ以外にも波及していく。そしてアイドルの恋愛の是非について議論が再開される。自分の願望を主張するだけなのだから、決着などつくはずがないのに。無実だからこそ、水晶玉占いをするように社会を一歩退いて見ることのできる自分が存在していた。事実を話せば傷つく人がいる。そのために都合よく脚色されたシナリオを描いたところでまた別の誰かを傷つける。ここに正解なんてない。スキャンダルの当人はどうするのが正義なのだろう。いや、この選択にも正義はない。だって、撮られたのはただ、同じ学校の男子生徒と一緒の車に乗った場景。手を繋いでいたわけでも、キスをしていたわけでも、一緒にホテルに入っていったわけでもない。それなのに社会は、アイドルが恋愛をしたと独断している。事実なんてどうでもいいのだろう。肯定派も否定派も、アイドルの本当の幸せなんて願ってない。どこからか恣意的に手に入れた正義を物差しに、過剰に反応しているだけ。のために、どうして傷つける誰かを選択しなければならない。だから、選択自体に正義はない。社会に蔓延する偽善未満の片手間の正義。これらを相殺する力の名を、正義と呼ぶのかもしれない。

 スキャンダルから一夜明けた。世間はまだ炎上していた。当の本人である私が誰よりも冷静だったのは烏滸おこの沙汰かもしれない。予想を遥かに上回る燃え広がり様が、自分の選択が間違っていなかったと裏付ける。定期試験最終日でもあったこの日、私は学校には向かわなかった。普通も特別も、すべて捨てていく。私の会見のために用意された会場には、多くのメディア関係者が準備を整えていた。都内ホテルの会議室に厳重な警備。田辺が手配してくれたのだろう。Ltd.Ⅴの公式動画チャンネルでもライブ配信されることになっている。プロデューサー、怒るだろうな。止められると思って、ここまで内緒にしてもらった。会場の入り口付近で待機する。覚悟はできていたはずなのに、喉元がぎゅっと掴まれる感じがする。約束の時間は目前だった。突然、後ろから「おい」と呼び止められる。見慣れないスーツ姿に、最初に目がいく。顔を確認するのは二の次になってしまった。黒馬央司だろう。こちらも見慣れない表情だった。息は荒く、目つきは険しい。ネクタイを直しながら、彼が会場に近づく。

「馬鹿なのか。試験はちゃんと受けろと言ったはずだ。お前は、学校に戻れ」

「プロデューサーは——」

 柊樹は、死んだ。私を会場の外に残し、記者たちがカメラを構える会場に踏み込んで。一斉にロックオンされる。もう、後戻りできない。

 記者たちは一時、呆気に取られたように思考停止した。そうして若干のどよめきが起こり始める。

「はじめまして。私はLtd.Ⅴプロデューサー、黒馬央司と申します」

 出し抜けの告白は、人間の理解の範疇を超えていたらしい。会場には整理に困るほど人が押し込められているはずなのに、呼吸音すら聞こえぬほど無の時間が支配した。所作こそ大人びているが、顔立ちが明らかに成人しているそれではなかった。マイクを通した彼の声は、いつもより低い。メディア関係者は自らの使命を思い出したようにカメラを回す。短兵急にたかれたフラッシュが彼の火照った表情を煌めかせた。

「本日は大変お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。このたび、Ltd.Ⅴのメンバー、白咲真己、そして、私がしてしまった軽率な行動により、関係者の皆様及び視聴者の皆様にご迷惑をおかけしてしまったこと、心より深くお詫び申し上げます」

 深々と頭を下げる。彼がスキャンダルの相手だと、次第に認識され始める。ようやく、世間が現実に追いついた瞬間でもあった。それでも、疑惑が完全に晴れたわけではない。引き続き、スキャンダルが掲載されるに至ったあらましを自ら詳説した。嘘偽りのない事実を。彼は話し終えると、「質問には時間が許す限りお答えいたします」と締めくくった。ここからはただの抗弁だった。終始、身体中が重苦しい感覚に襲われる。

「ええと、つまりあなたが実はLtd.Ⅴのプロデューサーで、たまたま白咲真己さんと同じ学校に通っていると。そして2人で職場に向かう途中、写真を撮られたと。そういった認識でよろしいでしょうか」

「間違いありません」

「いやあ、それは理解に苦しむというか。百歩譲って、ですよ。あなたが本物の黒馬央司プロデューサーだとして、異性としての関係もないとして、偶然と呼ぶには少しできすぎている気がしてならないのですが」

「ええ。しかし、それが事実の場合もそう言うでしょう」

「あなたが黒馬央司だとしても、結局は多感な思春期の男女に変わりない。本当に白咲真己さんと異性としての関係がないと証明できるのですか」

「それは悪魔の証明というものでしょう。異性としての関係があると疑惑をかけるのであれば、その主張者が証明するというのが人道だと心得ていますが」

 一応、敬語は辛うじて保っていた。彼の毒舌っぷりは相変わらずだったが。

「白咲真己とは私的な関係は一切ない。といっても、特にファンの皆様にとっては確かに疑問の残るところでしょう。先ほど、在学していた学校の退学届が正式に受理されたとの連絡がありました。昨日付で、私は白咲真己の通っている学校を中退しています。これにより、私が白咲と学校において接触することは一切なくなりました。そして、白咲真己、いや、Ltd.Ⅴのメンバーとの私的な接触を一切しないと、この場を借りて誓約させていただきます」

 言葉を失った。周囲がぐるぐると回るように、彼の姿を目に留めることができない。柊樹がこれまで粛然と守ってきたものを、私は侵してしまった。

「黒馬央司プロデューサーは、メディアに対する露出を一切控えていたはずです。なぜ今回は公の場に姿を見せたのですか」

「プロデューサーだからです。白咲の立場では、私が黒馬だと隠して会見することになる。それでは、あなた方の前で恰好の的になるだけ。それが、許せなかっただけです。今後もメディアに出るつもりはありません」

「今回の件で、ご自身の責任をどうお考えですか」

「プロデューサーとアイドルの通勤が重なったという事実に、どんな責任が生じるのか。誤解を生み、世間を動揺させてしまったことに関しては繰り返し謝罪します。しかし、責任の所在というならば、事実誤認の記事を出した週刊誌側はどうです。スクープを本職としながら、相手が黒馬央司だとも裏が取れず、早とちりして捏造記事を売買したわけですから」

 スタッフがもう時間だと会場中に訴える。黒馬は「最後の質問にしましょう。何についてでも構いません」と仕舞いに入る。会場の後ろで群衆に潰されかけていた記者が権利を得た。

「Ltd.Ⅴというグループは全てが規格外だ。5年という限定された活動期間。Ltd.Ⅴの、あなたの目的は、一体何なのですか」

 会場中に轟く声量だった。黒馬がほくそ笑む。

「良い質問ですね。アイドル戦国時代を終焉に導くこと。ただ、それだけです」

 マイクをスタッフに渡し、頭を下げる。アイドル界全体に、激震が走る。Ltd.Ⅴの目的が、プロデューサー自身の口から明言された。胸に温かいものがこみ上げてくる。そう感じた頃には、一筋の涙が頬を伝っていた。退出間際、黒馬は思い出したように振り向く。

「ああ、そうそう。本日12時、予定通り4枚目シングルのMVが公式動画チャンネルにて公開されます。是非、ご覧ください」

 不気味なほど弾けた笑顔。会場から出てきた彼と相見する。紅潮した私の顔を見て、呆れたと言わんばかりに眉をひそめる。彼は、学校に行けと言ったはずなのに。私は逆らった。

「もう、誰も守ってくれないぞ」

 そう言って、彼は私の前から姿を消した。柊樹は、やはり死んだのだ。


 2022年2月18日のLtd.Ⅴに関する一連の出来事は、まさに日本中を席巻した。平日の午前中だというのに、公式動画チャンネルにてライブ配信された会見動画の同時接続数は9万人を超えたらしい。アーカイブの再生数は今もうなぎ登りだという。ネット上ではスキャンダルを欺瞞するための運営側のシナリオだというのが多数派だった。しかし、彼がかつての天才中学生漫画原作者・柊樹であると特定されると、柊樹=黒馬央司である証拠が次々に列挙され始める。あとはもう、匿名同士の代理戦争だった。

 そして、会見終了から2時間後にはLtd.Ⅴの最新シングル『沈黙の螺旋』のMVが公開された。無限に続く螺旋階段を上る少女たち。彼女らはこの世界から抜け出そうとする少数派の人間だった。途中、この世界を妄信する多数派が彼女らの行く手を阻む。懇願するも同調圧力に負け、逃走するも仲間が次々と囚われていく。次第に孤立していく恐怖と葛藤する中で、彼女らはようやく螺旋階段の正体が長い物に巻かれている自分自身であったことに気づくというものである。

 現代社会を風刺する一曲。然るに撮影時にはなかった既視感がある。間違いない。まるで今日という1日を表しているかのようだった。やはり、偶然なんかじゃない。徐々に世間も気づき始めるだろう。果然として私たちは皆、黒馬央司の描いた戯曲の中に存在しているのだと。


          *


 MVが公開されてから十数分は経っていただろう。移動中の車内で、黒馬のスマホの着信音が騒々しく鳴り響く。どこで音量設定を間違えたのか。眠気で虚ろとしていた意識が呼び戻され、顔をしかめながらスマホを探す。信号が黄色に点滅し、ドライバーが数回にわけてブレーキを踏む。そういえば、後部座席の隣に鬱陶しいスーツと一緒に放り投げていた。上衣の内ポケットからスマホを取り出し、電話の相手を画面で確認する。そこには懐かしい名前が表示されていた。

「久しぶりだな、嶋岡」

『久しぶり。会見、見たよ。驚いたな、君が黒馬央司だったなんてね』

「どうした、うちのメンバーと繋がりたいって話ならすぐ切るぞ」

『はは、アイドルオタクとしての節度は守るさ。それより、1つだけ聞いてもいいかな』

 じんわりと瞬きする。無言の肯定。スマホを介して、お互いの気配が伝わる。

『どこまでが、計算なんだい』

「人為的だとでも言いたげだな」

『ある程度はね。すべてが偶然だとは思えないよ』

「事実は小説よりも奇なりというだろう」

『君に限っては、どうかな』

 2人して、顔が綻ぶ。

『新たな場所で君がどんな物語を見せてくれるのか、期待しても良いんだよね』

 信号が青に変わる。じわじわと踏み込まれるアクセルが、加速度的に車体を動かしていく。

「さあな」

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