#第2話-白咲真己②-

 Ltd.Ⅴがその名を轟かせた時分、同時に黒馬央司というプロデューサーの手腕にも注目が集まった。無名の天才。今までの経歴も年齢も不詳。取材やメディアに対する露出は全てNG。しかも、メディアにおけるメンバーの発言の端々から、メンバーですらその正体を知らないのではという噂が流れることもあった。それは事実だった。黒馬と直接話がしたい時であっても、事務所の代表である田辺健治たなべ けんじを仲立人にしなければならなかった。オーディションの時も、私たちの前には現れなかった。後から、ミラーガラス越しに採点していたのだと聞かされた。

 もちろん、その正体が気にならなかったわけではなかった。何度かメンバーが田辺さんに尋ねたが、決まって苦笑いとセットの「あの人は色々と特異だから」と曖昧な答えが返ってくるだけだった。ネットで検索もかけてみた。黒馬央司は複数の業界人が運営する集合体のようなものだという説。そもそもそんな人物は存在せず、運営が話題作りのために作り出しているという説。某アイドルグループのプロデューサーが名前を変えているだけという説。どれもぴんとは来なかったが、思わず納得してしまいそうになるほど上手くこじつけてそれらしく仕上げられていた。

 それが思わぬ形で解決した。柊樹のノートには、まだ公開されていないはずのLtd.Ⅴの情報が構想として綴られていた。未公開なだけじゃない。公開される予定のない裏情報まで。しかし決定的だったのはそこじゃなかった。昨年初め、初単独ライブを実施すると知らされたとき、現時点での大雑把な構想が示された。その時提示された黒馬プロデューサーの手書き資料と記憶の限り対比させてみても、構成、字体、細かい癖、全てがこのノートと一致する。

 これだけ確信を得ても、にわかに信じ難い。黒馬央司の正体が自分と同じ高校生の、しかも同い年だなんて。

「電話、出たらどうだ」

 鞄の中で、スマホが鳴っていた。案の定、待たせているマネージャーからだった。何かあったのかと電話の先で心配するマネージャーに対し、短い謝罪とすぐ合流する旨だけを伝える。彼からはまだ明言された追認は得られていない。否認もしていない。むしろそれが雄弁に物語っていた。私の非現実的なはずの問い掛けが、正に現実なのだと。

 始業式が終わってしまう。迎えも待っている。これ以上の遅刻は仕事に支障が生まれるかもしれない。これ以上、ここにいても何も解決しない。彼の横を超然と通り過ぎて、教室を後にした。


 そういえば、スタッフのどこまでが知っているんだろう。後部座席から運転席にいるマネージャーを不意に見る。とはいえ尋ねる気にはならず、再び車窓を眺める。新しい学校から事務所に向かう景色は新しかった。埼玉の都市部から離れた場所で生まれ育った私にとって、Ltd.Ⅴの二次オーディションを受験するために初めて訪れた東京は思わず泣いてしまうほど恐ろしい場所だった。元々、極度の人見知りだったこともある。高校生になっても人見知りが改善しない私を懸念して、当時大々的に募集をかけていたアイドルグループのオーディションに両親が勝手に応募するという荒療治に出るほどだった。空間に必要以上のものを詰め込んで構築された迷路。標本のように空を四角く切り取る高いビル。屍のように右往左往する人混み。それらは衝撃的で、ちっぽけな憧れなんて簡単に支配されてしまうほど恐怖を感じた。人混みの真ん中で泣いてしまい、オーディション前には疲れ切っていたことを今でも覚えている。それから1年以上が経過した。きっかけは受動的だった。それでも人見知りも少なくなり、今では堂々とアイドルをしている。普通の女の子になるために普通の女の子を捨てることになるとは、なんとも皮肉なことである。

 私を乗せた車が都内のハウススタジオに着く。青年漫画雑誌「週刊ウォーリー」の巻頭グラビア撮影。私待ちなんだなという様相が、ハウススタジオ周辺で構えるスタッフのまんじりともしない様子から伝わってきた。それでも車から降りて小走り気味にスタジオに入ろうとすると、「焦らなくていいよ」と諭される。優しい世界が遅刻に対する罪責感を再起させる。仕事は仕事と、言い聞かせる。楽屋に入ると、先に来ていたメンバーの吉岡咲よしおか さきの姿があった。

「遅かったね。何かあったの」

「ううん。ごめん」

 咲とは同い年であることもあり、話しやすく仲が良かった。でも、黒馬央司のことを話す気にはなれなかった。そういえば、まだ制服のままだ。3回、ドアがノックされる。返事をすると、マネージャーに連れられた2人の男性が部屋に入ってきた。1人はカメラマンだと分かった。前に別の仕事でお世話になったことがある。

「週刊ウォーリー編集部グラビア担当の嶋岡です。今日はよろしくお願いします」

 こちらも「よろしくお願いします」と深々頭を下げ、同時に遅れてしまったことを再度謝罪する。嶋岡と名乗る担当者は、「気にしないでください」と笑顔で答える。少しふくよかな頬が吊り上がる。顔立ちだけでなく、雰囲気も穏やかだ。

「むしろこの機会に感謝しているんです。Ltd.Ⅴの一ファンとしてね。特に、吉岡咲さんのことはLtd.Ⅴ以前から応援させてもらっていて」

 咲の芸歴はLtd.Ⅴデビュー時からではない。元々、違うアイドルグループに所属していたが、諸事情により解散。アイドルを辞め、個人でのタレント活動を続けた後、Ltd.Ⅴで二度目のアイドルデビューを果たした。しかし、実はオーディションを受けていない。プロデューサーの熱烈なオファーを受け、引き抜きという形で加入している。咲もその由縁に心当たりがないため、黒馬央司に派生する謎の1つとなっている。そうした加入経緯から、デビュー時は「不正加入」、「運営との癒着」などと非難の対象となったことは、無情にも自明のことだった。

 Ltd.Ⅴ以前の芸能活動について、咲本人の口から少し聞いたことがあった。今の私たちがどれだけ恵まれた環境にいるのかを痛感するほど、劣悪な環境で戦っていた。それがトラウマとなっていることを知っていたから、恐る恐る咲の顔を一瞥する。やはりアイドルだった。過去も今も悟らせない、華のある笑みで「ありがとうございます」と言葉を返す。

「だから今回、私ごり押しでキャスティングさせてもらったんです。実は去年、週刊ペガサス編集部から異動になって。私情はさみまくりなんですけどね。グラビア担当になったからにはどうしても実現したくて」

 少年漫画雑誌「週刊ペガサス」。柊樹が連載していた雑誌だった。だめだ。また何か、変な衝動が突き動かす。

「柊樹を、ご存じですか」

 声が震えた。禁忌に触れている気配がしたのだ。マネージャーもカメラマンも、咲ですら温かみのない視線を送る。当然だ。なぜそんなことを聞くのか、怪訝に思っているのだろう。嶋岡も少し目を見開いている。そうして目を細め、再び穏やかな表情を繕う。

「知ってますよ。誰よりも。彼を担当していたのは、私ですから」

 世間は狭い。そんな言葉で片づけられるには、都合が良すぎたように思う。ひたむきに回る個々の人生の歯車が、今ようやく誰かの手によって嚙み合わされたかのような。そんな人間など、いるはずがないのに。

「柊先生は、アイドルがお好きでしたか」

「好きではなかったですね。むしろ不愉快にすら思っていたかもしれない。アイドル関連のイベントがある時は、毎回といっていいほど嫌がる先生を連れて行こうとしてましたから。当然、全て断られたんですがね」

 それが楽しい思い出だったのだと、嶋岡の円かな含み笑いが物語る。咲が横から「どうして」と覗き込む。「ううん。ファンだったから。少し気になっただけ」と答えた。咲を把捉させるほどの回答にはなっていなかったらしい。「今日、らしくないね」と、とうとう言われてしまった。

「さて、そろそろ打合せに入ろうか」

 会話の節目を探していたように、マネージャーが溜めていた台詞を吐き出す。時間が押しているのだろう。確かに私らしくない。遅刻にしても、冗多な雑談にしても。らしくなかった。Ltd.Ⅴは私たちがかつて想像していた以上に、社会に対して大きな衝動をもたらした。女性アイドルの魅力は成長過程にあるのだと、誰かが言っていた。確かに、Ltd.Ⅴは流動的だった。いくつもの変遷が世間の感情を動揺し、エンターテイメントとして人々の心に生きている。それは演者である私にとってもそうだった。そうか。なるほど。やけに腑に落ちた。結局、私たちは皆、黒馬央司の描いた戯曲の中に存在しているんだ。

 撮影自体は、いつも通り順調だった。私も咲も、現在17歳。華のセブンティーンを趣旨とした撮影だと聞かされているが、実のところ再来月にリリースを予定している4枚目シングルの告知のためのグラビアだろう。そもそも、華のセブンティーンと表される芸能人には懐疑的だった。勉強も部活も恋愛も、普通の青春なんて謳歌できているはずがないのに。斜に構えているつもりはないが、業界の利己主義から生まれた現実との乖離にどうにも胡散臭さを覚えてしまった。


「さっきの、1つ訂正させてください」

 帰り際、マネージャーの車に乗り込んだ私は、見送りに来た嶋岡に呼び止められる。

「一度だけ、柊先生とアイドルのライブに行ったことがありました。弊社との契約打ち切りを伝えた日。先生と会ったのは、それが最後でした」

 咲は興味なさそうに隣でスマホをいじっていた。運転席から、シートベルトを装着する音が聞こえてくる。エンジンをかけていないから、当然暖房がされていなかった。シートの冷たさがお尻から伝わってくる。

「その1回が、かけがえのないものになっていることを祈っています」

「ええ、私もです」

 ようやく、マネージャーがエンジンキーを回した。いつもエンジンをかけてからが早い。暖機も待たぬまま、そそくさと走り出す。次はいつ学校に通えるのだろうか。帰宅する前に確認しなければならない。柊樹ではない。今度こそ、黒馬央司と話がしたかった。それが実現できるのは、あそこしかないと直覚していた。彼にとって唯一の、共犯者なのだから。


          *


 しかれども、時宜を得ることが叶ったのはそれから1週間後のことだった。その上、書類や教材を受領するために仕事の合間をぬって学校に寄っただけに過ぎなかった。既に放課後。寂々たる校舎内とは対照的に部活動で溌溂としたグラウンドが、モノトーンな青春を染筆している。素敵だなと、職員室の窓から遠目に見ていた。学校での所用自体は、ものの数分で終わった。このままマネージャーの車に乗って事務所に戻るだけ。黒馬央司と話がしたい気持ちは日増しに強くなっていたが、さすがにもう帰っているだろうと思った。にも関わらず、屋上の扉の前に来ていた。今まで信じてきた自分を裏切った。理性じゃなく、ここにいるという確証があったのだ。放課後に屋上。なんとも漫画らしい。施錠を解き、慎重に扉を開く。やはりうるさく軋めく。乾いた風と共に、少しずつ夕暮れ時の光が差し込む。その途中、フェンス近くにあぐらをかいている黒馬央司の姿を見つけた。左の太腿には、例のキャンパスノートが置かれている。思いがけず、破顔する。

「何を笑っている」

 一瞥した彼が言う。「いえ」と、表情を引き締めながら距離を詰める。

「どうして、プロデューサーになったんですか」

 黒馬央司が、こちらを向いた。視線の先に、確かに私がいる。今話しているのは、プロデューサーとアイドルだった。

「なぜ知りたい」

「アイドルに対して、あまり良い印象を持っていなかったと聞きました。嶋岡さんから」

 彼の表情が緩む。「嶋岡か。懐かしい名前だな」と呟くように言葉を溢す。嶋岡も、同じような表情をしていた。

「嫌いなのにここまでするわけないだろ」

「そうですよね。やっぱり——」

「ただ、あながち間違ってもない。半分正解で、半分不正解といったところか」

 意味が分からなかった。嘘は言っていないのだろう。それだけは何となく分かった。

「別に今でもアイドルが好きなわけじゃない。動機も、特にはなかった。あったのは衝動だけだ」

「衝動?」

 ほぼ同時だった。2人のスマホが鳴る。待たせているマネージャーからだった。我に返ったように慌てて電話に出る。先ほどまで赤く染まっていたはずの空は、薄暗い闇に侵食されつつあった。黒馬は着信画面を見ると、「タナケンか」とぼやく。タナケンとは、Ltd.Ⅴの所属事務所の代表取締役である田辺健治の愛称だった。

 マネージャーにひとしきり謝罪をした後、身の縮む思いで電話を切る。以前とは違い、時間管理に厳しい人だった。先に連絡しておくべきだったと省みながら、そっとスマホを鞄にしまう。彼はまだ通話していた。黒馬と田辺。こうやって普段会話しているのかと、関係性が見え隠れする。

「今から事務所か。まあいいが、少し時間が——」

 そう言いかけて、黒馬が私の方を見る。何か企図した人間の、悪い顔だった。

「いや、問題ない。米山に同乗者を1人許すように一報しといてくれ」

 強引に電話を切った。米山は、ここまで送迎してくれたマネージャーの名であった。唐突に荷物をまとめだす彼。妙な気配がして、「まさか」と思わず表情が強張る。

 嫌な予感は的中した。先ほどの電話は、私と同伴で事務所に向かうと言う意味だった。彼と一緒なら、これ以上怒られることはないと楽観的に考えていたが、米山は黒馬の正体を知らないと告げられた。この状況をどう説明すればよいのだろう。単に追撃を受けた形になった。空は完全なる夕闇を形成していた。

 職員用の駐車場を抜けると、門前の通りに停められているマネージャーの車両を視認する。普段はこの駐車場を借りていたが、今日はそこまでの所要はないと考えていた。裏口のようで、ここが正門なのだと後から知った。2人して、車に近づく。傍から見れば、同い年の男女ペア。片や、日本を代表するトップアイドルである。反対車線に路上駐車していた黒いワンボックスカーの車窓が少しだけ開かれていた。不穏にも、その隙間からカメラのレンズが覗き込む。

 カシャッ——

 不都合な空間を切り抜く禍々しいシャッター音が、太陽も月もない空に溶けていった。

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