【EPISODE】2022.1.11-2022.2.18
#第1話-白咲真己①-
「トップアイドルがうちの学校に転校してくる」と、冬休み明け初日の朝は騒がしかった。2年B組の教室にできた野次馬の数の多さに、「それ」が自分と同じクラスであることを教えられる。席替えで一番の当たりと名高い窓際の最後列にある自分の席に向かうと、今まで空席であったはずの隣の席が用意されている。ああ、これは転校生がここに来るんだなと思う。
ホームルーム開始を知らせるチャイムが鳴ると、野次馬は自分たちの教室に帰っていった。若干の緊張だけが残り、教室は静寂を守るいい子ちゃんだけが存在している。それでも、それから数分間経過しても担任教師は来なかった。
「遅くない?」
しびれを切らして誰かが言った。仮初のいい子ちゃんは刹那的で、お喋りが加速し始める。それを制止するかのように教室の扉が開いた。普段は無言で教卓の前に来る担任が、今日はやけに陽気に俺たちに挨拶する。お前もか。場当たり的に良い先生の仮面をつけても、少し強張った表情が混じるその不慣れな笑顔は似合わない。
担任教師に少し距離をとって華奢な少女が姿を見せた。その瞬間、興奮とも驚きとも言えぬ喧噪が教室を支配する。静かに涙を流す女子生徒もいた。余程のファンなのだろう。
「
歓声には慣れた様子で、真己が丁寧に頭を下げる。名乗らずとも、恐らく学校中が知っているだろう。同世代の女子と比較するとより際立つ。余分な肉が一切見当たらない細い身体、漫画に描いたようにくっきりとした二重瞼と涙袋。テレビが映し出している清楚なイメージが等身大で目の前に存在している。
白咲真己が所属するのは
そんな彼女らをプロデュースしたのは、メディアに対する露出の一切ない、未だ全てが謎に包まれた
「みんなも知っていると思うが、白咲は仕事で学校を休みがちになる。困ったことがあったら助けやれよ」
ぎこちない笑顔で担任が言う。「席は後ろの空いているところな」と付け足すと、真己は軽く一礼して歩き始める。クラス中の視線を一点に集め、俺の隣に来る。
「よろしくね。えっと」
「柊。柊樹だよ。よろしく」
「柊くんね。……柊樹?」
何かを思い出そうとするかのように真己が首を傾げる。次いで言いかけようとしたところで担任が進行をはじめ、2021年最初のホームルームが始まった。
*
Ltd.Ⅴについて特筆すべきことがある。それは昨年2月の初単独ライブでのことだった。セットリストを終えた後、グループのリーダー的存在である
「5年後——東京ドームでの『年越しカウントダウンライブ2025→2026』をもって、Ltd.Ⅴは解散します」
来月にシングルデビューを控えていたグループが解散時期を誓言した。しかも、東京ドームを約束の地をとして。既にミュージックビデオが話題になっていた時期ということもあり、各メディアが取り上げ、この衝撃はグループに対する世間の注目度を一気に増大させた。
女性アイドルは短命。こうした不文律のようなものが女性アイドル自身によって宣布された。この裏に隠された黒馬央司の思惑を、誰もが理解できないでいた。
「あ」
ホームルームの終わりと同時に、真己は思い出したかのように声を漏らす。
「柊樹。もしかして天才中学生漫画原作者の」
「だった」。天才も、中学生も、漫画原作者も。全てが中学時代に完結している。真己の漫画やアニメ好きはどこかの雑誌のインタビュー記事を見て知っていた。それでも、てっきり胡麻すり営業の一環だと思ってた。出版社との契約が打ち切られ、もう2年が経とうとしている。連載終了からは3年。ネット上ではなく、現実世界においてその謳い文句で呼ばれたのは結構久しぶりかもしれない。沈黙は肯定に捉えられる。
「やっぱり。私中学生の時、柊先生の漫画読んでたの。今は——」
「アイドルなんでしょ。あんまり男と関わらない方が良いんじゃない。商品価値、落ちるよ」
「……そう、だね」
気づけば真己の席の周りには人だかりができている。いや、教室中にだ。明らかにうちのクラスだけの人数ではない。柊の席が台風の目のような異様さを生む。「今日は仕事お休みなの」「どうしてうちの高校に来たの」「紅白見たよ」庶民的なガヤが渦を巻いている。
駆け出しの芸能人であっても、いわゆる芸能人御用達の学校に通うことが多い。しかし真己は芸能コースのない、普通の高校に来た。昨年にデビューしたばかりとはいえ、今や老若男女問わず注目される、国民的アイドルグループの人気メンバーが転校してきた。こんな顛末は、馬鹿でも容易に想像できる。
無気力の平穏が、転校生の所為で崩壊していく。言葉を交わさないようにしているのに、自身の領域が侵されていく。この感覚は、高校の入学式の日に経験したそれとどこか類似しているのだ。
「白咲はこの後仕事で始業式には参加できないから、村上、お前始業式までに学校案内しといてくれ」
満員電車のようにすし詰め状態となっている2年B組の教室の外で、入ることを諦めた様子の担任が叫ぶように命令する。真己の右隣の女子生徒がご指名だ。先ほど言い忘れたのか、それにしてもこの現状に教師として注意すべきことはないのだろうか。とどのつまり、生徒たちと一緒に鼻の下を伸ばして、大人にも子供にもなりきれていない。まあいい、偶然隣の席になっただけの俺にだって助ける義理はない。
担任からご指名のあった村上は、まるで水を得た魚だった。表情から嬉しさが隠しきれていない。トップアイドルの転校初日、学校中が騒然となっている。そんな中、先ほどの担任の指令により十分程度、真己を独占できる拠り所を手に入れた。さぞ垂涎の時間だろう。
「村上さん。始業式前の時間にバタバタさせてごめんね」
教室を出て、渡り廊下まで来ると真己が申し訳なさそうに口を開いた。ほとんどが流石に諦めたが、まだ何人かは2人の後をついてきている。村上は真己の気遣いを口火に溜まっていた言葉を吐き出そうとするが、実際に出たのは無愛想にも「全然」の一言だけだった。そう溢して、すぐさま後悔したように足下を見る。
この高校は、本館と別館とに分かれており、渡り廊下で繋がれている。なんでも、元々は本館だけだったのが生徒数の増加により10年ほど前に別館を新設したらしい。そのため、本館は屋上を除いて3階建てであるのに対し、別館は屋上無しの2階建てで、2年生全クラスと体育教官室が主な用途である。村上は本館の方から真己を連れて行った。途中、1・3年生と遭遇すると、好奇の目に晒される。それでも、意外にも別館ほどの喧騒にはならなかった。始業式直前で移動が始まりかけていたこと、事前に教師たちの指導が入っていたこと等々、理由をいくつか挙げることはできるが、間違いなく一番に起因するものは、悪者を寄せ付けようとしない村上の強い意志がこもった威嚇が効いていたことにあるだろう。
体育教官室の前まで来ると別館の案内も終わった。あとは自分たちの教室に戻るだけというところで、ようやく村上は学校案内に関係のない私的な言葉を発することに成功する。「あの私、白咲さんのことデビューの時から応援してて。ライブも関東で行われたものは全て参加してるし。YOUTH TEENSも毎月読んでて」村上が早口でまくしたてる。YOUTH TEENSは真己が専属モデルを務める女性向けファッション雑誌だ。「ありがとう」と、真己はここに来て初めて、心からの笑顔を見せる。
「だから、さっき柊が言ったようなこと、気にしないでください。その、商品価値がどうとか。あんなのはアンチコメントみたいなもので。そもそもあいつ、口が悪いし。あ、席が近かったから聞こえちゃって。ごめんなさい」
色んな感情がちゃんぽんになって、整理がつかない可笑しな台詞になっている。敬語のよそよそしさに、どこか歯がゆさのようなものを感じた。
「大丈夫。それに、私も知ってる原作者さんを目の前に興奮して、モラルに欠けてたところあっただろうから」
村上は言うべきか言わないべきか、考えあぐねた様子で渋い顔になる。やがて周りを見渡し、人がいないことを確認すると、声量を落として言う。
「柊、もう出版社とは縁を切ってるんです」
驚かなかったわけじゃなかった。実際、うつけたようにその場で立ち尽くしてしまった。それでも、どこかでそんな気はしていたのかもしれない。柊と言葉を交わそうとした時分、人気商売という同士の勘が、何かを警告していたようだったから。
「不良…ではないけど、とっつきにくい感じで。やたらと毒舌だし。授業とか、行事とかサボりがちで。大体いつも屋上に」
とっかかりを掴んだ興奮冷め切らぬ信奉者の独占欲は止まらないらしい。冗長に知り得る柊の情報を話し始めた。聞いてはいるが、真己は心ここにあらずといった様子で呆然としている。一方通行で盲目な話を続ける村上にも、どうやら一抹の理性はあるらしく、始業式の存在を思い出し、話を中断する。「私たちの教室は2階に上がってすぐだから」と残し、大講堂のある本館の方へと向かって行った。村上の小さくなっていく背を見ながら、真己も少しずつ歩き始めた。十数分前の喧騒が嘘のように、別館は閑散としている。教室にも、誰も残っていなかった。
*
至って質素な造りの屋上だった。転落防止に配慮された、一面の高いフェンス。端には別のフェンスで守られた貯水タンク。法律で義務付けられた、最小限度のもののみが設置されている。村上の言うとおりだったと、真己は目を丸くした。確かに屋上の真ん中で男子生徒が1人、仰向けで寝そべっている。柊樹だ。こちらの存在に気付いている。当然だ、屋上を繋ぐ扉が甲高く軋む。今度は両手を添えてゆっくり試してみても、やはり静かには閉められない。
「始業式、出ないの」
「お互い様だろ」
「私は仕事があるから」
「じゃあ、早く行けよ。迎えも待ってるだろ」
「謝りたくて。柊くんに、余計なこと言ってしまったこと」
寸刻の沈黙が屋上を支配して、乾いた風の音だけが感覚として残る。柊は上半身を起こし、その場であぐらをかく。離れたフェンスの隙間から、外の景色を見下ろしている。真己がその視線の先を追おうとした瞬間、柊が呆れたように短く溜息を吐く。
「お前、ほんとプロ意識低いのな。そんなことで、わざわざ二人きりになりにくるな」
ようやく、柊と目が合った。
「気にしてない。その件については、とっくに救われてる」
勘違いだろうか。そう言った柊の表情が綻んで、優しく微笑んでいたように見えたのは。
「どうして屋上に」
「馬鹿なのか。漫画好きといえば、屋上だろう」
「何その感性」
柊は立ち上がると、ゆっくりと伸びをする。深呼吸するように息を大きく吐き出すと、胸ポケットから一本の鍵を取り出し、合図をした後に優しく放る。綺麗な放物線が、おおよその着地点を教えてくれる。目の前に落ちてくるそれを、確かに捕らえた。
「屋上の合鍵の余り。隠れ家にでも使えよ」
悪びれもなく、柊が言った。「道理で」屋上が開放されているなんて、漫画みたいな学校だなとは思っていた。ようやく合点がいく。しかも共犯者にされてしまった。
「そろそろ始業式も終わるぞ」
「うん。じゃあね」
今度は無遠慮に扉を開いた。勿論、甲高い声を上げる。ここでは当たり障りなく過ごすことが最善のような気がしていた。芸能界に足を踏み込んだ手前、もう普通の女の子には戻れないと分かっていたから。少しばかり、後悔していた。でもそれはないものねだりで、我儘なのだと諭されてきた。実際、仕事は楽しかった。相反する感情が交錯して、どちらも自分勝手だと諫めた結果、いつも建前に終始する。余計な気遣いが、普通の女の子という理想像を自ら払い除けていたように思えたのだ。
教室に戻り、自身の鞄を手に取る。荷物を出してはいないが、一応周りに忘れ物がないことを確認する。予定より随分長居してしまった。今日はマネージャーが車で職場まで送ってくれることになっているのに、少し待たせているかもしれない。ふと、柊の机に目が行く。机の中に一冊だけ、キャンパスノートが入っていた。妙に存在感のあるそのノートに視線を向けながら、矢庭に疑問が浮かぶ。
そういえば、どうして柊くんは迎えが来ることを知っていた——
無意識だった。その時ばかりは、欠片の悪意も常識もなかった。魔が差したように、そのノートの中身を見ていた。その内容を見て、現実に引き戻され、感情を取り戻す。愕然としたのだ。違和感はずっとあった。どこか、初めて会ったようには思えなかった。教室の扉が静かに開く。見なくても分かる。柊だろう。「それ、取りに来たんだけど」案の定、彼の声だった。
「見たのか。お前、勝手に人の机の中漁るとか趣味悪いな」
見られては困るもののはずなのに、なんでそんなに冷静なのだろう。ノートを持つ手が震える。感情に対する理解が追い付かない。怒り。恐怖。緊張。どれも違う。きっと、好奇心に近い。理性では形容し難い感情だった。
「まあいいや。それ渡——」
「ごめん。でも」
そう言って彼の言葉を遮った。正直、この時の私には罪悪感なんてどこにもなかった。それでも謝った。一刻も早く、追認を受けたくて。私の瞳が、彼の瞳を捉える。お互いに、余計な感情が無い。
「あなただったんだね。黒馬央司」
私はこの日、1年越しにプロデューサーの正体を知った。
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