修羅


 それからの日々は、めくるめく色彩と見境のない喜びの中に過ぎていった。もう勉強をする必要もない。僕は与えられるままに食事をして、言われるままに運動をして、後の時間はひたすら笑いながら過ごした。

 いちいち声を出して笑っていては喉が疲れるので、僕は小刻みに肩を震わせて、ひそやかに笑うことを覚えた。照明の瞬き、自分の足音、換気扇のうなり。何もかもがおかしくて、僕はひっきりなしに笑っていた。


 誕生日から何日か経って、リョウスケが部屋に来た。相変わらず冷静な顔を崩さないリョウスケは、笑い続ける僕を見て、ちょっとだけ笑った。泣いているような顔だった。

「これを届けに来たんだ」

 リョウスケに手渡されたのは一冊の本だった。僕の誕生日に、リョウスケがくれた本だ。「春と修羅」……

 僕は本を開いて、最初の一行を音読した。旧仮名遣いで綴られている、昔の人間の心象スケッチは、僕には少し難しすぎる。難しすぎて、なんだか笑いがこみ上げてくる。ははは。

「面白い?」

「うん。面白いね。意味は分からないけど」

「そうか、良かった。そんなに面白いなら、毎日ここに来て、読み聞かせてあげるよ」


 それからリョウスケは、本当に毎日、僕の部屋を訪れた。そして、毎日少しずつ、難しい詩を音読してくれた。僕は声を立てたり立てなかったりして、いずれにせよ常に笑ったまま、それを聞いた。

 リョウスケの声に耳を傾けていると、笑いの奥底に押し込められた、なにかとても激しいものが、ふと頭をもたげる瞬間があった。しかしそれは形を成す前に霧散して、結局は笑いに変換され、僕の口から漏れ出していくだけだった。

 音読が終わると、リョウスケは必ず僕に尋ねる。「面白かった?」

 僕は決まって、「うん」と答える。僕はこんなにも笑っているというのに、リョウスケには、僕が面白がっているかどうか分からないのだろうか。不思議だった。



 今日も、リョウスケは来てくれるはずだ。今日のぶんの音読で、「春と修羅」を全て読み終えてしまう。そうしたら、リョウスケはどうするのだろう。また最初から、同じ本を音読してくれるだろうか。それとも、また別の本を持ってきてくれるだろうか。それとも……もうここには来なくなるだろうか。

 ははは。リョウスケが来なくなって、一人ぼっちになった自分を想像して笑った。出来れば、一人にはなりたくない。だけど一人になったところで、僕は変わらず笑い続けるんだろう。そう考えると、一人になろうとなるまいと、そんなことは別にどうでもいいことのようにも思えた。


 部屋の扉が開く。リョウスケが来た。いつもならば、部屋にある小椅子に腰掛けて、すぐにでも音読を始めてくれる。けれど今日は、リョウスケは扉の前に突っ立ったままだった。あはは。僕は笑う。

「リョウスケ。何で立ったままなんだよ、そんなところで」

 ふふふ。リョウスケも笑った。そして僕の手を掴んで、部屋の外に引っ張り出した。

 僕はこの部屋から出られない決まりだ。ヨシムラさんがそう言っていた。絶対に出られないし、出ようとしたら誰かが捕まえに来るんだと。けれど今、リョウスケに腕を引かれて歩く廊下は全くの無人で、誰も僕を捕まえには来なかった。変なの。ふふふ。


「僕はね、父親の仕事の関係で、しばらくイギリスに住んでたんだ」

 歩きながら、じっと前を睨んだまま、リョウスケが言った。「姉と一緒の寄宿学校に通っていた」

 リョウスケ、お姉さんがいたんだ。意外な驚きと共に、笑いがこみ上げてくる。リョウスケは早足になって、廊下の角を曲がった。やっぱり、誰もいない。

「僕と姉さんは、学校ではちょっと浮いた存在だったよ。寄宿学校では珍しい、東洋人だからっていうのもあるけど……僕たちは傍目から見ても、ちょっと仲が良すぎたみたいだった」

 長い廊下をどれくらい歩いただろうか。ようやくホールらしき、ひらけた場所が見えた。そこにはユキが立っていて、こちらに手を振っている。ユキに会うのは久しぶりだ。僕は満面の笑みで、ユキに手を振り返した。


 ホールまで到達すると、リョウスケはようやく僕の腕から手を離し、ユキに歩み寄って彼女を抱きしめた。それから、唇にキスをした。

 なんだ、二人はそういう関係だったのか。僕は心底驚いて、それから嬉しくなった。そりゃユキは美人だし、こんな女の子が彼女だったら素敵だろうなとは思っていた。けれど僕は、リョウスケのこともユキのことも大好きだから、二人が結ばれて二人がいっぺんに幸せになるなら、それはとても喜ばしいことだと思った。


「ごめんね、ユキ。つらい役目を任せてしまって」

 リョウスケがささやくように言った。ユキは、いつもの冷淡さからは考えられないくらい優しい声で、「いいのよ」と言った。よく見れば、ユキの手は赤黒く染まっている。ホールの隅には、同じ色をした包丁や果物ナイフが何本も、無造作に重ねて置いてある。

 僕は笑いながらそこに歩いて行って、赤黒いナイフのひとつを手に取った。そして、ヨシムラさんはもうここにはいないんだなと、なんとなく理解した。もちろん、全ての感情はすぐさま笑いに変換された。振り向くと、泣き出しそうな顔をした二人と目が合った。


「僕たちはね、悪いことをしたなんて少しも思ってないよ。きみに対してやったこともね。僕たちは僕たちの世界を守ろうとしただけだ。だけど二人で話し合って――……決めたんだ。もう、終わりにしようって」

 リョウスケは、赤いまだら模様のついたカードキーを、僕に差し出した。

「彼女の部屋は、これで開く」

 僕はへらへら笑いながら、カードキーを受け取った。そしてリョウスケに案内され、鉄さびの匂いのする施設の中を進んで行った。


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