崩壊


 目が覚めると、世界の色が変わってしまっていた。彩度が高くなったと言えばいいのか、とにかく何もかもが明るく感じられた。首の後ろが痛むので触ってみると、丁寧に縫合されている、ごく小さな傷があった。


「気分はどう?」

 ヨシムラさんが、何事もなかったかのように二人分のココアを持って、ベッドサイドに腰掛ける。僕は一瞬ヨシムラさんに強い怒りを覚えたけれど、それは本当に一瞬で、火花のように散って消えてしまった。ココアを受け取って、一口飲む。酷く甘ったるい。砂糖の分量を間違えているのかもしれない。

「息子の写真を見るかい?」

 何の脈絡もなくヨシムラさんが言った。僕がうなずくと、ヨシムラさんは胸ポケットから小さな手帳を出して、そこに挟んである一枚の写真を差し出した。僕と同じ年頃の少年が、はにかみながらピースをしている。両目はヨシムラさんよりもかなりぱっちりしているけれど、目から下はヨシムラさんそっくりだった。


「きみはね、本当に特別なんだ」

 ヨシムラさんは、いつもと同じ事務的な口調で言った。

「いつかきみが質問したことに、今だったら答えられるよ。きみの対となる『セカイの中心』は誰なのか……それはね、きみも知らない、一人の女の子だ。彼女はきみのクラスに転入してくる予定だった。きみと出会った彼女は、きみと二人一組で『セカイの中心』になるはずだった。

 きみたちの持つ因果値は、常軌を逸しているんだ。最初は計測ミスだと思われて、何度も計算をやり直した。けれど、それは間違いなく正しい値だった。きみたちは出会うこと自体が危険だと判断されて、それぞれ別個に隔離された……」

 ヨシムラさんが持っているカップの中で、一口も飲まれていないココアが波打っている。僕はそれを見て、なんだかおかしくなって、声を立てて笑った。ヨシムラさんは笑わなかった。


「女の子の方は、元々酷く情緒不安定だった。セカイの中心は、その精神状態がセカイに影響力を及ぼす。野放しにしていては危険だし、かといって隔離保護という処置も、彼女の精神状態を余計に悪化させる恐れがあった。そこで我々は彼女に……きみにしたのと同じ、非人道的な処置を……」

 波打ったココアがヨシムラさんの膝にこぼれて、茶色いシミを作った。僕は耐えられなくなって、腹を抱えて大笑いした。僕のベッドにもココアが飛び散る。それがまた愉快で、僕は腹が痛くなるほどに笑った。

 痙攣しながら笑い続ける僕を、ヨシムラさんは強く抱きしめる。母さん以外の人に抱きしめられるなんて、初めてかもしれない。いや、僕がまだ小さかった時に、父さんも抱きしめてくれたっけ。ヨシムラさんは僕のお父さんみたいだ。顔は全然似ていないけど、こんなにも僕を抱きしめてくれるんだから、きっとそうだ。


「母さんは?」

 そういえばちらし寿司を食べずじまいだったことに気が付いて、ヨシムラさんに訊いてみる。「母さんはどこ?」

 ヨシムラさんの顔が、さっと青ざめた。覚悟していた瞬間が訪れた。そういう表情だった。

「……きみの精神状態を正常に保つためにも、きみに真実を伝えるわけにはいかなかったんだ」

 僕を抱きしめるヨシムラさんの腕に、力がこもった。痛いくらいだった。

「きみのお母さんそっくりの精巧なバーチャルモデルが作られて、声のサンプリングから、仕草、記憶に至るまで忠実に再現した……。きみのお母さんは……」

 ヨシムラさんは、嗚咽と共に言葉を絞り出した。

「きみが保護されてすぐ……もう二度ときみに会えないと知って……自ら、命を……」

 ヨシムラさんは、僕を抱きしめたまま泣き始めた。変なの。まるで小さな子供みたいだ。ヨシムラさんは大人なのに。僕は大きな声で笑う。あはは、ヨシムラさん、変だよ。あははは、ふふふふふ。


 笑いながらも、僕はちゃんと理解していた。母さんは、もういない。今まで話していた母さんは母さんじゃなかったんだ。ひどい。心の片隅で、僕の正気が呟いた。ひどいよ。

 せめて、僕の中の母さんを上書きしないでいてほしかった。母さんの声、母さんの仕草、母さんの笑顔。愛してるという言葉。偽物の母さんの記憶が、本物の母さんの全てを上塗りしていく。母さん。本物の母さんは、どんな声で僕に話しかけていたっけ。本物の母さんは、最後に僕になんと言ったんだっけ。

 ――ああ、でもなんにせよ、もう母さんはどこにもいないんだ。


 僕は笑い続けた。おかしくってたまらなかった。暴力的なまでの笑いの前では、どんな怒りも悲しみも無力だった。

「許してくれ……許してくれ……」

 笑い続ける僕を、ヨシムラさんはいつまでも抱きしめていた。僕の手の中でくしゃくしゃに丸まってしまった写真の中から、ヨシムラさんの息子が、僕にピースサインを向けていた。


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