お母さん


「誕生日に、お母さんの手料理をお願いしたんだって?」

 リョウスケが、読んでいる本から視線を外さないままに言った。ほかの奴らに同じことを言われたら、からかわれていると思ってムカついただろうけど、リョウスケの言葉なら許せるのだから不思議だ。「うん」と、僕は正直に頷いた。

「婆ちゃん直伝のちらし寿司が、めちゃくちゃ美味しいんだ。多めに作ってくれるらしいから、リョウスケも食べていいよ」

「……うん、楽しみにしとく」

「ねえ、ほかに欲しいものはないの?」

 僕に質問したのはユキだ。相変わらず氷の女王のような鋭利な横顔から、大きな黒目だけをこちらに向けている。

「誕生日なんでしょ?」

「うん。だけど、ここにいたら誕生日じゃなくたって、大抵の者は手に入るからさ。欲しいものなんて……」


 自由、と言いそうになって、押し留めた。僕たちは常日頃から、ここに閉じ込められているという現実をなるべく忘れようとしている。どんなに願ったところで絶対に叶わない望みを口に出すのは、僕にとっても彼らにとっても残酷なことだった。

「新作のゲームかなあ」

 僕は、肩をすくめながら言った。「そればっか」と、ユキが呆れた声を出した。


 僕の誕生日には、ささやかながらパーティを開くことになった。ヨシムラさんも来てくれるらしいし、なんとあのユキも来るというのだから驚きだ。みんな、外の味が恋しいのだろうと僕は考えた。ここの食事は完璧に美味しいけれど、その完璧さがかえって不自然に感じることもある。手作りの不完全さを感じるためには僕たち自身が料理をするしかなく、それはもうとっくに食べ飽きていた。僕の母親の手料理は、きっと新鮮な不完全さを提供してくれるはずだ。



「誕生日、おめでとう!」

 そして誕生日当日、クラッカーが盛大に鳴らされて、ヘリウムの充填された風船が飛ばされた。施設の天井は無駄に高いので、風船はまるで空まで飛んでいったかのように浮き上がり、視界から消えていく。

 ヨシムラさんは、格好良いスニーカーをくれた。「何をあげたら喜ぶか分からなかったから、息子が欲しがったのと同じものを選んだ」そうだ。ヨシムラさんがそこまで考えてプレゼントを選んでくれたのも驚きだけど、ヨシムラさんに息子がいたのも驚きだった。

 ユキは、なんだか高そうな紅茶の茶葉缶をくれた。「私のお気に入りなの。この施設に来てからも、毎日飲んでるんだ」と言っていたので、ユキはもしかしたら、物凄いお金持ちだったのかもしれない。美人で頭も良くて、その上お金持ちだなんて。こんな施設に入ることにならなければ、ユキと話す機会なんてきっと一生なかっただろう。


「誕生日、おめでとう。これ、あげる」

 リョウスケからのプレゼントは、いつもリョウスケが読んでいるのと同じ本だった。宮沢賢治の詩集、「春と修羅」だ。ぱらぱらとめくって流し読みしてみる。旧仮名遣いの言葉たちが難しそうに並んでいる。

「ごめん。どんなプレゼントが良いか、全然思いつかなかったんだ。だから、僕のお気に入りをあげることにした。期待はずれだったろ?」

「……そんなことない」

 それは、僕の本心だった。自他の境界をしっかり持っているリョウスケが、自分の領域に一歩踏み込むことを許可してくれたような気がして嬉しかったのだ。

「みんな、ありがとう」

 施設での暮らしは、不自由はないけれど、自由もない。そんな環境でできた友達というのは、きっとかけがえのない宝物なんだろう。


「よし、いよいよお待ちかねの、ちらし寿司だ!」

 ヨシムラさんが、ちょっと上ずった声で言った。

「こんなにたくさん、わざわざ作ってもらったんだから、みんなありがたく食べるんだぞ」

 大きな寿司桶には、薄手の布巾がかけられている。あの下に宝石のようなちらし寿司があるのだと思うと、無意識に微笑みが溢れる。布巾が取られた。視界に飛び込んでくる、鮮やかな錦糸玉子と桜でんぶの彩り。真珠みたいにつややかな酢飯。そこに混ぜられているニンジンとレンコンと――……


「……シイタケが入ってる」

 僕は、呆然と呟いた。予想とは違う僕の反応に、みんな混乱しているようだったけれど、そんなことに構っている余裕はない。僕は目の前の現実を処理するのに、手一杯だった。

「シイタケが、どうかした?」

 僕に尋ねたのはリョウスケだった。いつもの冷静な口調に、もうひとさじ慎重さを加えたような、そんな声色だった。「お婆ちゃん直伝のちらし寿司だって、言ってたろ?」

「……僕が」

 声がかすれる。

「僕がシイタケ食べられないから、母さんはいつも、ちらし寿司にシイタケは入れないんだ」

 顔を上げてリョウスケを見る。リョウスケは無表情で、僕を見ている。

 大したことじゃないはずだった。もう高校生になったんだから、シイタケくらい食べられるようになりなさいという、母さんの思惑かもしれない。けれど、これはそうじゃない。そういうものじゃない。確信に近い直感が働いていた。

「婆ちゃんのレシピには、シイタケを入れろって書いてあるんだ。でも母さんは、シイタケを入れないんだよ。母さんは……これが本当に、母さんが作ったものなら……」


 首筋に、小さな痛みを感じた。痛みは一瞬だけで、だけどすぐに妙な温かさが全身に広がっていく。立っていられなくて膝を折った。倒れかけた僕を、ヨシムラさんが支えてくれた。

「困るよ。そういう大事なことは、ちゃんと教えてくれなきゃ」

 リョウスケの声だった。僕は朦朧とする意識の中で、それを聞いていた。視界が薄闇の中に溶けていく。憐れむような目で僕を見る、三人分の目玉がある。彼らの頭上では、天井に引っかかって行き場を失った風船たちが、虫のようにざわざわと蠢いていた。




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