Ⅳ.アマイニオイの果てに

 ほどなくして、車太は朱希のマンションに到着した。

 一見して特に荒らされた雰囲気はなく、平穏そのものだ。

 ほっと安堵あんどすると、大きく深呼吸し、エレベーターの前まで来る。

 彼女の部屋は5階にある。張り過ぎて軋む太ももをほぐしながら、エレベーターが下りてくるのを待つ。

 チン、という軽快な音が鳴り響き、扉が開くと。


 そこからむせかえるようなほどの濃厚なチョコレートの匂いが溢れ出して来た。


「なんだよ……これ」

 

 エレベーターの内部は壁や結果、天井にまでチョコが飛び散り、チョコのりとなって張り付いている。

 あまりにも凄惨な状況に震えながら、汚れた5階のボタンを押す。

 

 胸の動悸どうきが急激に高まっていく。

 どうして、ここにチョコレートが。

 ふと、chocolaterチョーコレーターの言葉が頭によぎる。


 ――あのような法律を生んだのが【第一】の要因だと結論付けた。他にもいくつか要因はあるが……。

 ――他のやつらはインプットされた使命に従い【それぞれの対象】をchocolateチョーコレートする役目を担っている。


 なぜ、あえてあのような言い方をしたのか。

 なぜ、chocolaterチョーコレーターはそれぞれの対象と指定していたのか。


 急激に重くなった足取りで、彼女の部屋の前に行く、と。

 玄関ドアが鋭利えいりなカッターで切り抜かれており、人が通れるほどの四角い大穴が作られていた。


 中をのぞき、そこに広がる光景を、脳が必死に否定しようとする。

 だが、それは、紛れもない現実だった。


「あ、あ、車太。来てくれたんだ。ねえ、どうして、私、なんで、こんなになっちゃったの」

「しゅ……き……」


 そこにあったのは、下半身と腕が全て溶け、既に胸部から上のみの無惨な姿に変わり果てた朱希だった。


「嫌だよ、痛いよ、助けて、助けて、助けて、助けて」


 声帯まで達し始めているのか、繰り返される願いは、少しずつ雑音が混じり、こぽこぽと空気音が混じり、かすれていく。

 車太は駆け寄り、抱きしめることもうまく出来ず、服を溶けた彼女で汚していく。

 どうすることも出来ないまま、立ち消えた救いを求める声に変わって、甘ったるい匂いに満ちた部屋に車太の嗚咽おえつだけが響き渡る。


     *


 どれくらいの時間が経ったのか。

 車太は、こめかみに押し付けられた金属の感触で我に返った。

 緩慢な動作で振り向くと、例のchocolaterチョーコレーターが無表情で見下ろしていた。

 それを見た瞬間、カッと熱くなり、激情が全身を駆け巡る。


「……返せよ、返せよ!」


 立ち上がった車太は、chocolaterチョーコレーターに全力でタックルする。

 だが、男はびくともしない。

 その鉄のように硬い身体に触れ、改めて目の前に居るのが、人ではない、血も通っていない機械生命体アンドロイドなのだということを思い知らされる。


「どうして、朱希を狙ったんだよ……!」

「天塔朱希は確かに甘いものが好きだったようだが、彼女もまた、チョコレートだけは駄目だった。とうやら体質的にアレルギーだったようだな。SOURNETはそれを【第二の要因】とし、C12H22O11型の一体にchocolateチョーコレートするよう命じた」


 その言葉で、そういえば、と車太は思い出す。

 今まで彼女と居たどの時間でも、チョコレートだけは口にしていなかった。

 なのに。


 ――今日は車太にすんごく美味しいチョコも作っておくから、楽しみにしててね!


「朱希……」


 おそるおそる、彼女だったものに触れる。

 粘り気のある感触が手に貼り付く。

 かろうじて面影カタチを残していた部分は崩れ落ち、完全なチョコ溜まりとなった。

 顔を上げる力すら無くなった車太に、chocolaterチョーコレーターは静かに口を開く。


「返せ、か。出来なくはないかもしれない」

「え……?」

「見ての通り、天塔朱希は既にchocolateチョーコレートされた。だが」


 車太を見る赤い目が、明滅する。


「第一の要因たる貴様がchocolateチョーコレートされれば【未来】は変わる」

「どういうことだよ……」

「私達の未来に貴様と天塔朱希がchocolateチョーコレートされた事実はない。これは歴史を大幅に変える現象だ。すなわち、未来が変わる。そうなれば、私はここに来る必要がなくなるだろう」


 実に珍妙な話だ。

 卵が先か、にわとりが先か、のような。


「未来から過去を変えるというのは、そういうことだ。そこに矛盾パラドックスが生まれるわけだが、互いの因果を修正、補完し、正しい形へ整えるため、無かったことになるというのがSOURNETとその製作者の回答だ」

「……だとしたら、お前達も居なくなるんじゃないのか」

「おそらくそうだろう。我々chocolaterチョーコレーターは世界の滅びが無ければ、不必要な存在だ」

「お前達はそれでいいのか」

「無論だ。貴様は見ていないから分からないだろうが、私達の居る世界は本物の地獄だ。生き残った人類や動植物は、この世界のように美しい形をしておらず、自然繁殖はんしょくすら不可能になっている。毎日、確実に終わりへと突き進んでいる。このような甘い匂いが香る品も本作戦のために全て投入したため、もはや存在しない。油と鉄の匂いだけが世界に溢れ返っている」

「……」


 車太は再び男を見る。

 左半身は金属骨格が痛々しいほどに露出し、所々油のようなものが漏れ出ている。

 だが、人の形を保った右目はなぜだが分からないが、やけに人間味を感じる。


「さっきはどうして子供をかばったんだ」

「私の役割は貴様をchocolateチョーコレートする事。それ以外はインプットされていない。たまたま偶然、この時代の命を一つ気晴らしに守っただけだ」


 この機械の身体を持った男は、不思議なことに、人の感情をまた、持ち合わせていた。本来は心優しい存在だったのかもしれない、と車太はどこかで感じ始めていた。

 よくよく考えてみると、機械の身体であるこの男が本気になれば、自分をすぐさまchocolateチョーコレート出来ただろう。

 だがしかし、「あえて」理由を語り、「あえて」逃げ出す隙も与えていたのだ。


「僕がchocolateチョーコレートされれば、朱希は、未来は救われるのか?」

「100%断言は出来ない。だが、SOURNET……貴様の子供が作り出した優秀な機械頭脳はそう試算した」

「……分かった。俺をchocolateチョーコレートしてくれ」


 どうせ、朱希の居ない世界に、未来はない。

 目を閉じ、こうべを垂れる。

 ゆっくりと、その頭部に優しく金属が押し付けられ、


「さらばだ。――」


 父さん、という言葉を最後に、全ては暗転した。

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