気がつけば、私はさまよっていた。


 光とも闇とも分からない、ぼんやりとした空間で。



 右も左も、上も下も分からず、漂うように。


 ……私には体が無かった、すでに。





 不意に、覚えのある感覚が、私を刺激した。

 導かれるように「それ」に向かっていくと、突然世界が開けた。


 ……眼下に広がる、陰惨な光景。


 夜の闇の中、街灯に照らされて光る、真っ赤な血の海。

 その上に横たわる「もの」が、さっきまで「私」だったと理解するのに、さほど時間はかからなかった。


 信じられないとか、認めたくないとか、そういう感情は、全く湧いてこなかった。


 ……そっか、死んだんだ、私。


 そんなことよりも、気になるのは、私を導いた、あの「匂い」。


 山梔子の、花の、匂い。


 花の時期は、とうに過ぎたというのに、むせ変えるほどの、匂い。

 フラフラと、その匂いのする方に、漂っていく。


 隣の部屋の、ベランダ。


 眼に映るのは、盛りは過ぎたものの、まだ艶やかに咲き誇る、大きな百合の花。


 夜目にも鮮やかな白い花、アレルギーのある私は忌避してきた花だった。

 

 けれど、辺りに漂うのは、山梔子の花の匂い。

 既に花を落とし、葉ばかりの、山梔子の鉢植えから。


 そして、全てを、思い出す。





「でも、あの人が突然、ケーキ持って押し掛けて来た時はびっくりしたけどね」

「ああ、アンタが招き入れたことになってる場面ね。空気清浄器のこととか、しっかりチェックしてたしね」

「生活感ないとか、ちょっとドキッとしたわよ」

「実際、あの部屋で生活してないもんね」

「いくらなんでも、嫌だわよ。かと行って、出ていくわけにもいかないし」

「あと、山梔子の分だけでしょ? 落ち着いたら、また処分しよ?」

「うーん、あれけっこう丈夫でね、なかなか細かくならないのよ」

「あ、やっぱり硬いんだ。そりゃそうよね」

「考えたら、あの時も落としちゃえば楽だったのよね。今回みたいに」

「でもねー、昼間だったし、ちょっと無理だったかもね。あの人みたいに、自分で身を乗り出してくれればいいけど」

「そっか、運ぶのは難しいかもね」

「第一、あの時は突然だったし」


 フフフ……。


 トーンは潜めて、でも楽しそうな笑い声。


 女同士の他愛もないお喋り……のように聞こえるけれど。


 私は、そっと隣のベランダに眼をやる。


 隣の、ところ狭しと鉢植えが並べられた、ベランダ。

 その中で、ひときわ大きな、山梔子の鉢植え。

 

 鉢の横にうずくまる『彼』は、隣の部屋の様子など、全く興味がないらしい。

 もっとも、話を聞こうにも、様子を見ようにも、肝心の、耳も目も、ないのだから。

 それどころか、首から上が、全く存在していなかった。


 別に、怖いとも何とも、感じてはいなかった。『彼』が、私と同じ『幽霊』だから、というわけじゃない。


 それよりも、もっと怖いものを、知ってしまったから。


 幽霊なんかより怖い……生きてる人間の、心。


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