九
気がつけば、私はさまよっていた。
光とも闇とも分からない、ぼんやりとした空間で。
右も左も、上も下も分からず、漂うように。
……私には体が無かった、すでに。
不意に、覚えのある感覚が、私を刺激した。
導かれるように「それ」に向かっていくと、突然世界が開けた。
……眼下に広がる、陰惨な光景。
夜の闇の中、街灯に照らされて光る、真っ赤な血の海。
その上に横たわる「もの」が、さっきまで「私」だったと理解するのに、さほど時間はかからなかった。
信じられないとか、認めたくないとか、そういう感情は、全く湧いてこなかった。
……そっか、死んだんだ、私。
そんなことよりも、気になるのは、私を導いた、あの「匂い」。
山梔子の、花の、匂い。
花の時期は、とうに過ぎたというのに、むせ変えるほどの、匂い。
フラフラと、その匂いのする方に、漂っていく。
隣の部屋の、ベランダ。
眼に映るのは、盛りは過ぎたものの、まだ艶やかに咲き誇る、大きな百合の花。
夜目にも鮮やかな白い花、アレルギーのある私は忌避してきた花だった。
けれど、辺りに漂うのは、山梔子の花の匂い。
既に花を落とし、葉ばかりの、山梔子の鉢植えから。
そして、全てを、思い出す。
「でも、あの人が突然、ケーキ持って押し掛けて来た時はびっくりしたけどね」
「ああ、アンタが招き入れたことになってる場面ね。空気清浄器のこととか、しっかりチェックしてたしね」
「生活感ないとか、ちょっとドキッとしたわよ」
「実際、あの部屋で生活してないもんね」
「いくらなんでも、嫌だわよ。かと行って、出ていくわけにもいかないし」
「あと、山梔子の分だけでしょ? 落ち着いたら、また処分しよ?」
「うーん、あれけっこう丈夫でね、なかなか細かくならないのよ」
「あ、やっぱり硬いんだ。そりゃそうよね」
「考えたら、あの時も落としちゃえば楽だったのよね。今回みたいに」
「でもねー、昼間だったし、ちょっと無理だったかもね。あの人みたいに、自分で身を乗り出してくれればいいけど」
「そっか、運ぶのは難しいかもね」
「第一、あの時は突然だったし」
フフフ……。
トーンは潜めて、でも楽しそうな笑い声。
女同士の他愛もないお喋り……のように聞こえるけれど。
私は、そっと隣のベランダに眼をやる。
隣の、ところ狭しと鉢植えが並べられた、ベランダ。
その中で、ひときわ大きな、山梔子の鉢植え。
鉢の横にうずくまる『彼』は、隣の部屋の様子など、全く興味がないらしい。
もっとも、話を聞こうにも、様子を見ようにも、肝心の、耳も目も、ないのだから。
それどころか、首から上が、全く存在していなかった。
別に、怖いとも何とも、感じてはいなかった。『彼』が、私と同じ『幽霊』だから、というわけじゃない。
それよりも、もっと怖いものを、知ってしまったから。
幽霊なんかより怖い……生きてる人間の、心。
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