*


 まさか、あの人がそんなことするなんて思いもしませんでした。


 いえ、会えば挨拶するくらいで……お隣なんだから、何かのついでに立ち話をしたりとかは……まあ、ありますけど。


 だけど、そんなにお互いのことを知ってるわけじゃないし……あえて話すわけでもないですし。


 ……はい、たまたま行ったお店で、偶然会って……目が合っちゃったら、知らんぷりも何だし、一応挨拶はしましたけど。


 だって、ジッと見られてたら、無視できないじゃないですか。

 だから、とりあえず、挨拶しとけ、みたいな。


 いえ、そのあとは何も。


 こっちは一人じゃないし。アパートで会うまでは、何してたかなんて知りませんよ。


 花?


 ああ、山梔子のことですか?


 ええ、確かに香りが強いんで、好みはあるかもしれませんね。

 それでちょっとしたトラブルにもなったし。


 ええ、外で言い争いしたりして。


 あ、でも、その時だけで、それからは特にトラブルとかなかったですけど。


 そういえば、その日の夕方、ちょっとだけお茶したんですよね。

 いえ、別に、当たり障りないことだけで……恋人なんて!

 付き合っている人がいる様子はなかったし。


 そういう色っぽい話題は出なかったですね。


 ……親しい友達なんて、いたのかしら?


 少なくとも、アパートに訪ねてくる人はいなかったみたいですね。





   *


 だから、知らないって言ってるでしょ?


 そりゃ話くらいするわよ。一応ご近所だし?

 

 見せつけてた気なんてありませんよ!


 ほら、私こういう性格だから、気分次第で誰にでもペチャクチャ話しちゃうし。

 はあ?

 知るわけないでしょ? 恋人がいたかなんて、そんなの。


 興味ないもの、あの人のことなんて。


 ……苦手というか、そりゃ正直に言えば、嫌いでしたよ。あ、別に憎んでたとかじゃないからね。

 人間的に、好きじゃないって言うか、ムカつくって言うか……。


 何か言いたそうに見てるくせに、言わないし。


 花?

 ああ、そんなことあった、あった。

 クチナシ、だっけか。

 うん、結構騒いじゃって……その時は、凄く頭に来てたから。

 

 だから、何もないって!

 すこぶる友好的ですよ!

 

 あれがきっかけで、色々が上手く回り始めたって言うか……。


 え、別にこっちの話……だから、そのクチナシの花の匂いのついた服を着ていったことで、恋人ができたっていうか……ただの知り合いから進展できたのよ。


 知ってる? クチナシの花言葉……『幸福』なんだって。





    *


 はあ、何が何だか。


 突然『あなたは騙されている』って言い出して。

 そう、あの日。


 彼と待ち合わせしたお店で偶然会った、あの日です。

 彼の仕事の都合で、夕方には帰っていたんですけど、何だかドアの外で話し声が聞こえて。

 隣の……そう、ネイリストやってる彼女ね、彼女と話をしてたらしくて。

 夜は彼とデートだって言ってたから、丁度出かける時に、あの人が帰ってきたみたいで。


 彼女、珍しくご機嫌で話していたみたいで。


 気合い入れてコーディネートするって言ってたし、私も見たいな、と思って、外に出たんですよね……彼女、美人だし、派手だけどセンスあるし。でも。


 出かけていった彼女を見る、あの人の目が怖くて。


 よっぽど声をかけるのは止めようかと思ったんですけどね。

 あんまりに踊り場から身を乗り出しているから、思わず声をかけて。


 そうしたら、嫌みの連発で。


 デートの割には帰りが早いとか、付き合って日が浅いくせに馴れ馴れしいとか。


 おまけに、彼が信用できない人物だ、みたいに言い出して。


 ……はい、確かにまだ付き合い始めたばかりだし……いえ、とにかく、決して信用の置けない人なんかじゃありません。

 彼の勤めている会社、うちの社とも取引がある所で、お互いに知り合いもいますから。


 ええ、詐欺紛いの悪質な訪問販売するような会社じゃないですよ。

 そうそう、あの会社ですよ。


 大体、彼の営業相手は個人じゃなくて法人ですから。

 

 なのに、あの人、彼を二股かける詐欺師呼ばわりして!





   *


 テンション上がってたしね、つい見せびらかしちゃったのよ……。

 だけど、長続きすればいいけどね? みたいに言われて、カチンときて。


 プロポーズされるかも、って言っちゃったのよ、勢いで。


 まあ、されたらいいなあって願望というか、妄想もあったから、ちょっと気まずくて、とっとと外に出ちゃったンだけど。

 でも、ずっと視線を感じていたのよねえ。

 

 だから、あの時、あの人があそこにいたのも、不思議には思わなかったわ、実は。

 そう、常夜灯があるから、案外外から丸見えなのよね、アパートの通路って。


 ただ、ずっとそこで見張っていたのかと思ったら、さすがにぞっとしたわ。


 そりゃお泊まりはしなかったけど、それでも夜中の1時すぎよ?


 ありえなくない?




   *


 たぶん、夜中の1時は過ぎていました。


 喉が渇いて、起きて台所に行ったんです。

 そうしたら外で気配がするから、ドアの外覗いたら、あの人がいるじゃないですか!


 後ろ姿だったけど、分かりますよ。


 手すりにしがみつくように身を乗り出して。


 あっ、と思ったら……!?





   *


 あっ、と思ったら、フワッて体が浮いて。


 ……気付いたら、目の前に横たわって、いて……。


 あたり一面……血の海……真っ黒に光って見えて…………ダメ……ちょっともう、ムリ…………。





   *


 ドサッて音がして、下から悲鳴が聞こえて。


 慌てて外に出て下を覗いたら、隣の彼女が座り込んでいて……あの人が……ごめんなさい、ちょっと、これ以上は……スミマセン。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る