「人の迷惑ってもんを考えたらどうなの!」


 

 朝の出勤時間。慌てて部屋を飛び出した途端、耳に入った声。

 

「洗濯物に匂いが付いちゃって、洗い直しよ! どう責任とるつもり!?」


 その朝は、重い頭を何とか起こし、目覚まし時計代わりのスマホを見て一気に目が覚めた。起床予定時刻をとっくに過ぎていて、大慌てで身支度を整えて。

 ……あの花の匂いのせいだ。

 恨めしく思いながら部屋を出たら、まるで心の代弁をしてくれたかのような声に思わずうなづきそうになった。


「でも……花の香りですし……」

 ブツブツ言い返しているのは、例の右隣の……多分、OL。


 怒鳴り付けてるのは、右隣の、そのまた隣の部屋の、お姉さん。

 多分、お水系かなあ、という感じの、美人だけど派手なお姉さんは、何かあるとすぐに怒鳴り込んでくる、このアパートでも煙たがられてる存在だった。

 その癖本人は、女性専用アパートだっていうのに、夜遅くに男の人を泊めたり、お酒を飲んで騒いだりしている。


 まあ、絶対ダメ、っていう決まりはないんだけど、ヤクザっぽい人がいたりして(つまり、コロコロ変わる)何だか怖い。


 一方の彼女は、……一応お勤めはしているみたいなんだけど……男性どころか同性の人が訪ねてきたこともない様子。

 とにかく地味というか、ダサい。

 会社の制服なのかもしれないけど、白のブラウスに紺のベストとスカート、寒い時期はその上にコートやカーディガンを羽織って。

 長い髪の毛をひっつめて、黒いゴムで縛って、ヘアピンで留めて。

 化粧は一応してるけど、薄化粧かというと、そうでもなくて。

 ファンデーションの厚塗りに、ルージュだけだから、何だかのっぺりしてしまって。


 これが、なんというか……ホントに顔立ちが……だったら仕方ないのかな、って思うんだけど。

(って人のこと言える容姿じゃないんだけど)


 美人、とは言わないけど、そんなに悪い顔立ちじゃないんだ。

 だから、余計手抜きというか、人生投げてる感じが、嫌だ。

 神経質な感じがするし、着ている物も清潔でピシッと糊が効いてる。

 第一、花の手入れだってキチンとしてるのに、どうして自分の手入れはしないんだろう。


 そんなわけで、なるべく関わりたくない私は、足早に軽く挨拶だけして、通り過ぎようとした。


「ちょっと、待ってよ。アンタだって迷惑シテルでしょ!」


 お水の方に声をかけられ、私は仕方なく足を止めた。


「ベランダ中トイレの芳香剤撒いたみたいに、スゴいんだよ! ジャスミン、っていうの? おかげで洗濯物にまで染みちゃって」

山梔子くちなし、です」


「クチナシだろうとカオナシだろうと何でもいいから、どっかに捨てろって言ってんの!」


 ……昨日の匂いは、山梔子だったんだ。


 ぼんやりそんなことを考えていると、お水が「アンタだってそう思うでしょ」と畳み掛けてきた。


「あ、私は……あの……」


 正直、昨日は頭に来たけど、処分して欲しいまでは、言えないし……。


「迷惑ですか?」


 無表情でお隣さんに聞かれ、私は答えに窮した。


「……迷惑、までは、思わないけど……匂いの強い時期は、部屋に入れておいた方が……その……好きじゃない人もいるかも知れないから」

 そこまで言って、遅刻しちゃうから、と足早に立ち去る。

 鼻白んだのか、お水も「とにかく外には出さないでよ」とトーンを下げた声が後ろから聞こえた。

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