第106話 休息の地
クーヴェリテの街を発った私達は今、何故か船に乗っていた。
大神殿に向かう船ではなく、また、大神殿ほど遠く離れた場所に行く為の船でもない。この船は、対岸から見える程度の距離にある島に向かっていた。曰く、その島全体が、『温泉地』であるらしい。
「一時的に魔王を解放するにあたって、離島の対岸部にある集落全てに兵を配置すべきだという話になっておりまして」
この地に向かう前、グレンさんが言った。
私が死んだら魔王は再封印されるだろうし、飛び火はあまり心配が無いはず。しかし『失敗』とは時に、思いもよらない形で発生する。陛下は国を統べる者として、可能な限りで対策を行う心づもりであるらしい。万が一の時のフォローを得られるのは、私達としても心強い。
つまりその大規模な兵の配置の為に、時間が欲しい、とのことだった。代わり、私達にはゆっくり休める場所を用意するから、魔王戦に向けての英気を養ってほしいのだと。そして向かう時はこの島から直接、大神殿の離島までの船を出してくれると言う。至れり尽くせりとはこのことだ。
とにかく、そうして用意されたのがこの温泉地。ただし島を貸し切りにするという提案は断固として拒否した。私達は急遽ここに来ることにしたわけだから、今から貸し切りにするということは既に予約を取っていた人達を押し退けることになる。一般的に、長い期間のお休みを作って旅行をするのは簡単なことではない。私達の都合でそれを奪うべきじゃない。
こういう点でも罪悪感が残るとすれば、私の旅の目的にはそぐわない。既に、充分に贅沢をさせてもらっている。これ以上は過度だ。少しの押し問答はあったものの、私の心よりの訴えは最終的に聞き入れて頂けた。
「夜は綺麗だろうねー、ほら、これきっと光るよ」
船が到着し、桟橋に降り立つ。手を貸してくれていたイルゼちゃんが、桟橋に沿って取り付けられている小さな街灯を指差している。
「本当だ。ねえイルゼちゃん、夜に散歩してもいい?」
「一人じゃなければ、勿論。一緒に来よう」
私も一人で来るつもりだったわけじゃないので、喜んで頷いた。
もうすぐ魔王戦を控えているという恐ろしさとか、緊張とか、焦燥も消えたわけじゃないけれど。国側の準備が整うまでは向かえないのだから、今はしっかりと休息するべきだろう。私も目一杯、楽しむことを考えていた。
「木々が多くて落ち着くねぇ」
後ろを歩くアマンダさんがのんびりと呟く。此処は温泉地として切り開いた場所以外は森になっている。アマンダさんは故郷に似ていて安心するらしい。
「ジェフは一度、来たことがあるんだったか?」
「そうなんですか?」
「ああ、小さい頃に、家族で来たことがある。夕方になると何処かから優しい太鼓と笛の音が聞こえて、風情があるんだ。うちの子らがもうちょっと大きくなったら、連れて来てやりたいなぁ」
そう言ってジェフさんは目を細め、辺りを見回していた。
宿泊施設は島の中に幾つもあって、今回、陛下が手配して下さった宿はジェフさんが以前に泊まった場所とは違うそうだ。アマンダさんが「下見に丁度いいじゃないか」と笑っていた。今回の宿はかなり高級宿だろうと思うんだけど……下見になるのかな。まあいいか。
「ところでイルゼ」
「ん?」
一歩後ろでアマンダさんがやや小さい声でイルゼちゃんを呼ぶ。私は少し嫌な予感がしたので、気付かない振りで明後日の方向をぼんやりと見つめた。
「温泉ってどういうとこか知ってるか?」
「は? 天然で湧いてる湯でしょ?」
「そうだ。そして宿ではその天然の湯で大衆浴場が作られている。分かるか? 流石に男女は分かれているが、みんな一緒に入るんだぞ」
「え、あっ、……えっ」
今更、何の話を……。何処か呆れた思いで聞いていたのだけど、イルゼちゃんが動揺の声を漏らしている。私に話が振られない限りは気にしないでおこう。前を歩くグレンさんがちらりを此方を窺った気がしたが、居た堪れない気持ちになっていることを気付かれると更に居た堪れない。他に気を取られている振りで、全部無視をした。
実際、目に映る建物に沢山の提灯がぶら下げられていて、いずれにも思い思いの絵が描いてあって面白い。夜に見ればまた違う趣なんだろうな。
いつの間にか少し歩みを遅らせたイルゼちゃんとアマンダさんが、離れた位置で何かこそこそ話をしている。本当に聞こえないので、ちょっと安心。何を話されているのかは、気にしないようにした。もしかしたら私の話じゃないかもしれないしね。……そんなこと考えにくいのは分かっている。
「――お部屋にも小さな露天風呂がございますが、我が宿の大浴場も是非お楽しみ下さい。また、他の宿の浴場も訪れることが可能です。それぞれ、趣は勿論のこと、効能の違いもございまして」
宿の方が、丁寧に説明をして下さっているのに耳を傾けながら、客室をきょろきょろと見ていた。落ち着いた木製の宿で、部屋の奥に見える大きなバルコニーの端が、個室の露天風呂になっているらしい。ただ、今の話の通り、大浴場にも色々あって、この宿以外へも、お風呂だけ入りに行くことが出来るという。色んな宿のお風呂を楽しむのが、この島の楽しみ方の一つだとか。
知らない人が沢山居るところを一人で歩くのは怖いけど、前回のリゾート地でもイルゼちゃんが傍に居てくれたら楽しめたから、きっと今回も楽しめるはず。イルゼちゃんが『温泉』に戸惑っている可能性を一旦横に避けて、勝手にそう思った。
「各宿の温泉については、此方の紙をご覧ください。また、気になることがあればいつでも受付まで」
宿の方はにこやかにそう言って、部屋を出て行った。
今回の部屋は寝室とお風呂が男女それぞれで、二つの部屋の間に食事をしたり寛いだりする為の共通の部屋がある形。今はその共通の部屋のソファで、のんびりとお茶を頂いている。
「折角だから今夜はこの宿の大浴場に行ってみるかね。フィオナ達はどうする?」
「私も、そうしてみたいです」
言いながらイルゼちゃんを見上げると、目が合った彼女は何度か目を瞬いた後で、了承するみたいに頷いた。アマンダさんがちょっと笑いを噛み殺した気がする。
「あと、フィオナはこの辺りも良いんじゃないかい? この宿からは少し離れるが、魔法水の温泉だそうだ」
「えっ」
差し出された紙をまじまじと見つめる。魔法水とは、私が以前、魔力切れで倒れた時に点滴してもらったものだ。魔術師の魔力の回復を早めたり、魔力を安定させたりする効果を持つ。魔物を寄せ付けないことでも知られており、魔物避けに利用されることも多い。
天然の魔法水というのは自然の中で偶に、湧き水として見付かることがある。それがこの島では、温泉として湧いているらしい。
「本当に珍しいですね。入ってみたいです」
「えー、効果あるのかな~」
「ちょっとはあるんじゃないかな。流石に点滴よりは低いと思うけど」
天然の魔法水は不純物が混ざっているから、そのまま体内に入れることは出来ない。飲み水にするなら加熱処理をするし、点滴にしようと思ったらもっとしっかり不純物を取り除く処理が必要になる。点滴が高価なのは魔法水の稀少さに加え、そのような処理の手間と技術が必要になるからだ。
最も効果があるのはやっぱり点滴で、次点で口から体内に取り入れる。温泉に浸かることの効果はその次だろうと思う。ただ、温泉で身体が温まることで相乗効果がある可能性も考えられる。その辺りも含め、とても気になった。
私が説明していると、イルゼちゃんは熱心な私が面白かったのか、ニコニコしながら聞いてくれていた。
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