第82話
宿に戻った私がしっかりとアマンダさんに怒られた後。見計らったかのようにイルゼちゃんが稽古から帰ってきた。見計らったとすれば当然イルゼちゃんではなくアマンダさんの方だろうけど。
「あ、た、ただいま」
私と目が合うとイルゼちゃんはちょっと緊張した顔でそう言った。
「おかえりなさい」
いつも通りになるようにと努めて笑って応えたのに、イルゼちゃんは何処か焦った表情に変わる。上手に笑えなかったらしい。思わず視線を逸らして、顔を見られないように背を向けてしまったせいだろうか。「フィオナ」と呼ぶ声には更に焦燥が乗った。却って不安にさせてしまった。
「あの、まだ怒ってる……?」
慌てて駆け寄ってきたイルゼちゃんが、体温を感じるくらいの距離で後ろに居るのが分かる。多分、いつもみたいに抱き寄せようとして、稽古後だとか、私が怒ってるかもしれないって考えて留まったんだと思う。私は首を反らして上を向く。たっぷりと身長差があるので、こうするだけで私を見下ろすイルゼちゃんの表情が良く見えた。
「怒ってないってば」
後ろに立つイルゼちゃんに凭れるように背中を預けると、イルゼちゃんは受け止めながらも「でも」と呟き、そわそわしていた。
「その、確かに女の人に声掛けられて、断り切れなくて一緒にお茶はしたんだけど、それだけで、えっと、フィオナが好きそうな茶葉を売ってる店を教えてくれてね、そこに連れてってもらって」
お土産も買ってきているのだとイルゼちゃんの説明が続いた。ひと悶着があったからまだ渡せていないだけで、明日はそれで一緒にお茶を飲もうと思っていたのだと。
「浮気じゃないよ……」
最後にそう弱々しい声が続く。眉も八の字を描き、垂れ下がっていた。
「そんな風に思ってないよ」
正直な思いだ。イルゼちゃんの振る舞いを浮気だとは思っていないし、怒りのような感情も無ければ、特にこれと言った不満も無い。だけどそれを伝えても、イルゼちゃんの表情は悲しげなまま。
「なら、どうしたら元気出してくれる?」
「うーん」
グレンさんに励ましてもらったことで、気持ちは少し晴れている。ただ、確かに私は今、まだ元気ではないのかもしれない。――『我儘』を、言えば良いのかな。
「……じゃあ」
私の言葉の続きを、何処か期待の目で待っているイルゼちゃんを、改めて振り返った。
「一緒にお風呂入ろ?」
「え」
イルゼちゃんの表情が凍り付いただけで既にちょっと楽しくなってしまって、気は済んでしまいそうだけど。折角だから、このまま通してしまおう。今日の私はちょっとだけ勇気があった。勿論、相手がイルゼちゃんだからというのも多分にある。
「それで前の、最強になれるおまじないをイルゼちゃんがしてくれたら、元気になるかな?」
「へぁ……」
困惑して返事をしてくれないイルゼちゃんだけど、頷いてくれる方法は知っている。普段は、絶対に頷かせてしまうから、使わないだけで。
「だめ?」
「い、いや、駄目じゃない、けど」
「じゃあまた呼んでね」
「はい」
案の定、困惑の顔のままでも頷いてくれたイルゼちゃんを、にこやかに浴室へと見送り、私も手早く自分の着替えを用意した。
「お前……」
一部始終を見守っていたアマンダさんが、呆れた顔をしている。私は苦笑を返した。
「ちょっとだけ意地悪と、我儘です」
私の言葉にアマンダさんは目を丸めて、それからふっと、力が抜けたように笑う。
「まあ、そうだな、偶には良いんじゃないか。……ところであたしは出ていた方が良いか?」
「何も無いので大丈夫です……」
思わず私の方も力が抜けてしまった。アマンダさんは最初からこの反応も知ってたみたいに、けらけらと笑った。
その後イルゼちゃんが私を呼ぶまで三十分ほどあった。いつも十数分で湯浴みを終える彼女にしては珍しい。何か葛藤してそう。さておき前回は酷く緊張をしていたけれど、今回はそうでもなかった。自分の求めた『意地悪』である意識があるせいかな。逆に前回は何ともない顔をしていたイルゼちゃんの方が、今は酷く落ち着かない顔をしていた。
でも全て知らない振りをして、前回同様、洗い終えたら浴槽に居るイルゼちゃんのお膝に乗る。この宿の浴槽は広いので、どうしてもこの体勢でなければならないわけではない。イルゼちゃんが何か言いたげにしたのもそのせいだと思うけど、何も言わなかったので気にしないことにした。
「はい、おまじないして」
「うっ、あ、えっと、うん……」
至近距離から見上げて言うと、イルゼちゃんは頻りに瞬きをして一度私から視線を逸らした。そして重大な覚悟を決めるかのように口を引き締めてぎゅっと目を閉じてから。ようやく、私の頬にキスを落としてくれた。
「ふふ」
イルゼちゃんがあの時、頬を緩めた気持ちが分かった気がした。妙に嬉しい気持ちが胸の奥からむずむずと湧き上がって、堪らなくて両腕をイルゼちゃんの首に回してぎゅっと抱き付く。
「どぉあっ、フィ、フィオナ」
ちょっと太い声でイルゼちゃんがリアクションした理由も大体分かっている。でも、無視してそのまま身体を寄せ、首筋に額を擦り付ける。
「私はイルゼちゃんみたいに強くないから、最強にはなれないけど、でも元気出たよ」
「そ、そう……あの、あんまりそこで喋らないでほしい、なー……」
「ん?」
「いや、何でも無い……」
結局イルゼちゃんは、私に欲があるのやら無いのやら。お風呂に入ったからと言うには赤すぎるイルゼちゃんの頬の色も知らない振りで、そのまま甘えるみたいに腕の中に留まる。イルゼちゃんに「そろそろ上がる?」と言われても「もうちょっと」と返して、この意地悪な時間を三回延長した。
それでも長風呂と言うほどだったわけじゃないのに、私よりずっと体力のあるはずのイルゼちゃんが、上がった頃にはのぼせたみたいにヘトヘトになっていた。
「……お疲れ。懲りただろ」
私が髪を乾かしている後ろでアマンダさんが小さくイルゼちゃんにそう声を掛けていた。タオルに隠れてこっそり笑った。
この日以来、私はイルゼちゃんに自分から引っ付くことが増えた。
イルゼちゃんが腕を広げて呼んでくれた時に向かったことはあったものの、それ以外の時に急に抱き付いたり寄り添ったりは、前世でもほとんどしなかった。そのせいか、私から唐突に引っ付くとその度にイルゼちゃんが異様に驚愕して固まる。ちょっとだけ面白いから続けようと思う。あと私の中で思い浮かぶ『我儘』がこんなものしか無かったという下らない話でもある。
それから、イルゼちゃんの方も少し変わった。
キスをしてくれた頬に、手や指先で触れてくることが多い。切ない目で見つめられても、どういうつもりで、どういう意味なのか私には難しくて分からない。
無かったことにしたくて拭っているのか、それとも、もっと触れたいと思っているのか。いつかその心を私が知る日は来るのかな。
変わったと言ってもこの程度の距離と、変化。私達は将来、どういう形で『添い遂げる』のだろう。
……知る為にも、今の旅をまず、完遂させないといけないのだけど。
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