第76話
アシムの村にもう一泊してから、次の目的地へと向かう予定となったその夜。私はいつも通りにイルゼちゃんの腕に抱かれて安心して眠ったはずなのに、深夜に飛び起きた。
「……痛、い」
まだ、起き抜けで頭がぼんやりしていて、素直に声が漏れた。喉元を押さえる。勇者の紋が、締め付けられるように、痛い。
「フィオナ?」
イルゼちゃんがすぐに気付いて、寝起きの頼りない声で私を呼ぶ。痛みで目を覚ましたらどうしても、起き上がる時に気遣えない。起こしてごめんなさいって言いたかったけど、すぐに声が出なかった。
「痛むの?」
私はただ無言で頷いた。イルゼちゃんは起き上がると、私を腕の中にぎゅっと閉じ込める。その温もりが、私に呼吸を許してくれたように思う。ゆっくりと呼吸を繰り返した。締め付けるようだった痛みが、少しだけ和らぎ、じんじんとしたものに変わっていく。
「こわ、かったな」
「うん?」
「あの魔族、の、目が」
「……あいつに目なんかあったっけ……?」
イルゼちゃんの返答に、ちょっとだけ笑う。確かに、私が見つめたものが本当に魔族の目だったのかと聞かれれば、違ったかもしれないと思う。だけど天井を見上げた時、私へと向かって伸びる鋭く尖った岩の塊の隙間が、あの時の私にはそのように見えた。
「底の、無い、闇みたいな、戻れなくなる、暗闇……」
あの恐ろしさは何だろう。上手く言えない。だけどあの隙間の黒さが怖かった。説明しようとするほど鮮明に思い起こされて、身体が震えた。イルゼちゃんは私を繋ぎ止めようとするみたいに、強く抱き締めてくれる。
「私、闇が……暗闇が、こわい、の」
イルゼちゃんが少し戸惑ったのが分かった。多分、他の誰かであれば私がこのように呟くことを意外とは思わなかったと思う。だけどイルゼちゃんだから、戸惑っていた。それでもイルゼちゃんは私の言葉を否定せず、ただただ私を温めるみたいに包み込む。
「何処にも連れて行かせないよ。私が」
「……うん」
もしもあの闇に引きずり込まれそうになっても、イルゼちゃんはきっと私を捕まえてくれる。うん、絶対にそうだと思う。
信じることは出来るのに、恐怖は私の中から無くならなかった。不意に私の目からは涙が零れ、頬を伝ってイルゼちゃんの腕に落ちる。私が泣いていると気付いたイルゼちゃんが、慰めるように頭を優しく撫でてくれた。
「イルゼちゃん……」
「此処に居るよ」
応えるイルゼちゃんの声も少し震えていた。心配させてしまっている。泣き止んで、大丈夫だよって言わなきゃいけないのに。今夜はどうしても強がる余裕が無くて、涙が上手く止められなかった。その内、背をゆっくりと撫でる温もりに誘われ、私はイルゼちゃんの腕の中で、眠ってしまった。痛みはいつの間にか、薄らいでいた。
* * *
「……どうだったの、グレン」
眠ってしまったフィオナを慎重に抱き直したイルゼは、ベッド脇に膝を付くグレンを見下ろした。今夜は全員が同室で眠っており、フィオナが起きたのと同時に、全員が目を覚ましていた。
「何の異変も見付かりません。精神的なものだと仰る、フィオナ様の御言葉が正しいように思います」
グレンが此処まで彼女らに接近したのは、痛みが発生している際の、魔力的な異常を確認する為だった。音も無く接近したグレンをイルゼが許したのも、それを察したからだ。
しかし、彼の言葉にイルゼは眉を顰め、溜息を吐く。
「問題がないのは、良いことなんだけど。何にもしてあげられないのがな……」
そっとフィオナを横たえながら、イルゼは頭を抱えた。グレンも同様に、重苦しく頷く。
「今回のやつ、そんなに怖い見た目してたかなぁ……」
「……寝惚けたような声だったからな、それが痛みの理由かは分からないよ」
隣のベッドで横たわったまま、アマンダが言う。イルゼは軽く頷いた。前触れの無い話題だった為、フィオナは痛みから気を逸らしたくて、単に思い付いたことを口にしただけだったのかもしれない。ジェフもベッドの上で身体を起こし、心配そうにイルゼ達を見つめている。
「ところでフィオナは、暗いところが怖かったのか?」
「ううん。全然」
イルゼは一切の躊躇も無く否定をしたが、先程フィオナははっきりと『暗闇が怖い』と言った。しかし、イルゼは改めて首を横に振る。
「今よりずっと怖がりだった前世でだって、暗いって理由で怖がったことは一度も無いよ。たった一人で真っ暗な場所にボーっと座ってたこともあるんだよ。見てるこっちが怖いって思うような」
「聞いてるだけで怖い。なんじゃそりゃ」
フィオナが暗闇に一人でぼんやりしていたら誰が見付けても怖いだろう。普段は臆病な子だからこそ、そんな場所に一人で佇んでいる様子は異様に見えたに違いない。
「突然、誰かが飛び出してくるかも――みたいな怖がり方はするんだけど。暗いことを理由には怖がらないんだよ、ずっと」
だから知らない者の入り込まないような密室であれば真っ暗でも何でも、彼女は少しもそれが怖くないのだ。むしろ彼女を脅かすものが視界に入らなくて落ち着くのかと思うほど、小さな頃は、わざわざ暗いところに収まっていることも多かった。
「それが一変、『怖い』か」
「別の意味だったのでしょうか。それとも、勇者の力を得たことによって感じ方に変性が……?」
本来ならば人間が得ることのない特殊な力を身体に宿しているのだ。体質が変わったかのように、嗜好も変わり、今まで平気だったものが怖くなることもあるのかもしれない。
「まあしかし……この子が恐ろしいと思うなら、問い詰めてやるのも酷だね」
先程も、自ら語っていたものの、恐怖と向き合ってしまった為か身体を異様に震わせていた。此方から問い掛け、再び彼女が身体を震わせるような様は、流石に誰も見たくない。
「イルゼ、もしこの子から打ち明けてくることがあれば、可能なら共有してくれ。怖がる状況を避けてやることは、出来るかもしれないからね」
「うん、そうする。ありがとう」
眉を寄せていたイルゼは、アマンダの言葉に少しだけ表情を緩めた。案じているのは自分だけではないという思いが、少し彼女の不安も和らげたのかもしれない。
それぞれが静かにベッドに戻った頃、イルゼは改めてフィオナを温めるように抱き締める。幸いにもその後はフィオナが再び痛みを訴えて起きるようなことは無かった。
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