第64話
「――この話は、内緒だよ」
リベルトお兄ちゃんがそう言った。私は首を傾ける。これは夢であり、前世の記憶でもある。ほとんどの前世の記憶をはっきりと覚えている中、この記憶はやけに曖昧だった。
「イルゼちゃんにも?」
「ああ、イルゼには特に」
「うーん……」
「難しい?」
「うん」
素直に頷く私に、お兄ちゃんは笑っていた。呆れた顔じゃなくて、さもありなんと言うように。
「じゃあこれから僕が話すことは全部忘れてほしい。それならできるかな?」
「わかった、忘れる」
こんな提案に頷く辺り、単純すぎて今思えば笑ってしまう。何歳だったかも覚えていないけど、学校にはもう行っていたから、六歳より上だった。お兄ちゃんはイルゼちゃんより五歳上の為、私からは七歳上だ。まだ小さいあの頃は特に、大人の人みたいに感じていた。
「天才だなんて笑ってしまうよ。僕は凡庸だ」
「ぼんよう?」
当時の私にとってお兄ちゃんの扱う言葉は時々難しい。繰り返した私に、お兄ちゃんは目尻を下げた。
「普通の人ってことだね」
「だけど、みんなはお兄ちゃんが、一番強いって言ってる」
「そうだね、でも僕はそれがあんまり、好きじゃないんだ」
私は首を傾ける。褒められるのが嬉しくないって言うのは、よく分からなかった。前世の私は特に突出したものがなくて鈍くさくて臆病で、周りから何かを褒められることはほとんど無かった分、稀に褒められれば何であっても嬉しかったのに。お兄ちゃんは、毎日のように与えられるその言葉が、好きじゃないらしい。
「天才というのはね、イルゼのような者を呼ぶんだよ。僕は五つも年下の妹に負けないように、いつも必死だ」
お兄ちゃんは眉を顰め、溜息を吐いた。いつでも口元に浮かべられている笑みも、いつの間にか消えている。
「リーチも力も、決して負けない。積み重ねてきた時間だって五年も多い。それでも、イルゼの剣が時々すごく怖い。あれが、本当の天才だ」
私はお兄ちゃんが語る言葉を一生懸命に聞きながら、ずっと首を傾げている。
「イルゼちゃんの方が、お兄ちゃんより強いの?」
「今は未だ僕の方が強いよ」
「ふーん……難しいね」
「そうだね、フィオナちゃんにはまだ難しかったね。ごめんよ、聞いてくれるだけでいいんだ」
まだ話を理解できないくらいの幼い私だから、聞いてほしかったのかもしれない。
大人ならきっと色んな言葉を重ねて彼を慰め、彼の言葉を否定する。だけどお兄ちゃんはこの事実がどんなに辛くても、誰にも否定されたくなかったんだ。
「本当は僕よりイルゼに才があること、皆も分かってる。だけどイルゼは女の子だし、王都騎士にも興味がない。だから僕を持て
今から思えば当時のイルゼちゃんに対する指導は、男の子達と比べれば緩く、『本人が望む範囲』に留まっていたように思う。イルゼちゃんも稽古自体は熱心に受ける割に、騎士を目指したことは一度も無くて。大人達から見ればあくまでも『遊び』の延長だったのだろう。だから、そこに才を見出して熱心に指導をしたとしても、いつかは本人の方から手放してしまうと予想していたのかもしれない。事実、十八歳になっても前世のイルゼちゃんは王都騎士を目指す気持ちを全く持っていなかった。
「さっき、未だ僕の方が強いって言ったけれど、どうだろうなぁ。本当はもうとっくに、追い抜かれている気もするんだ。勝負には勝てているけどね、それはイルゼの剣の癖をよく知っているからだよ。弱点もね」
空を仰いだお兄ちゃんに倣って私も空を見つめた。特に何も無くて、いつもの青空だ。またお兄ちゃんに視線を戻すと、一緒になって空を見ていた私が可笑しかったのか、笑いながら頭を撫でてくれた。
「教えてあげないの?」
「ふふ、そうだね、本当は教えてあげなきゃいけないんだけど。教えたら負けちゃうからなぁ。酷いお兄ちゃんだよね」
私は首を傾けた。お兄ちゃんのことを『酷いお兄ちゃん』だと思ったことは一度も無かったせいだ。でもお兄ちゃんは微笑むだけで、それ以上を説明してくれなかった。
「だからね、フィオナちゃん」
「うん?」
「僕が酷いお兄ちゃんだってことは忘れてほしい。イルゼには言っちゃだめだよ?」
「うん、忘れる」
約束したから。単純にそう思って頷いていた。
「ありがとう、いい子だね。だけど、これだけは覚えておいて」
忘れてほしいとか覚えていてほしいとか、ややこしいお願いだった。とにかく、今から言われることは覚えて、他を忘れる、小さく繰り返したら、お兄ちゃんは「そうだよ」と言いながら楽しそうに笑った。
「いつか世界で一番強くなるのはイルゼだよ。フィオナちゃんは、ずっとイルゼの傍に居るんだ。そうしたら、悪い奴らにいじめられたりしないからね」
「うん、いつも一緒に居る!」
誰に言われるまでも無くそれは私の望みだったから、覚えるとか、忘れるとかも関係が無かった。ただ、これから先もイルゼちゃんと一緒に居る、その未来を思い描くだけで嬉しくて笑顔になる。お兄ちゃんも、嬉しそうに笑っていた。
そう言えばあの時は、私が同級生の男の子に意地悪をされて、イルゼちゃんが傍に居なくて、偶々通り掛かったお兄ちゃんが助けてくれたんだ。だからお兄ちゃんと二人だけで一緒に居て、ああやってゆっくりお話をしていたんだと思う。
「さて、じゃあフィオナちゃんを最強のナイトの元まで、送り届けようかな」
長い両腕が私を引き寄せ、ひょいと抱き上げてくれる。私はお兄ちゃんの肩にぎゅっとしがみ付いた。
高くなった視界に怯えた私に気付いたからか、お兄ちゃんはゆっくり歩いてくれた。イルゼちゃんの所に連れて行ってくれるつもりだったらしいので、多分、稽古場の方に向かっていたんだと思う。
「あ」
「うん?」
不意に私が声を上げて、お兄ちゃんが私の顔を窺った瞬間。
「――何で兄貴がフィオナを抱っこしてんだよ。返せ」
イルゼちゃんが背後で、お兄ちゃんを睨み付けていた。お兄ちゃんは振り返ってイルゼちゃんを見ると、くすくすと笑う。
「今、お前に返しに行くところだったんだよ」
優しく地面に下ろしてくれたと同時にイルゼちゃんが正面で腕を広げたから、条件反射でその胸に飛び込んだ。私を抱き締めて見下ろしてくれる時だけ、イルゼちゃんはいつも通りの優しい笑みをくれた。
「兄貴。勝手にフィオナに触んないでよ」
「そうしたいのは山々だけどね。さっき、同じくらいの男の子らに髪を引っ張られて泣いていたよ」
「なっ――」
「お、お兄ちゃんが、すぐに来てくれたから」
息を呑んだイルゼちゃんが私を見下ろすのに合わせ、私は慌てて補足する。実際、そんなに長い時間じゃなかったはず。私が泣き出してすぐに、お兄ちゃんが男の子の手を振り払ってくれた記憶があった。
「イルゼ。それで守ってるつもりなのか? 僕から奪い返せても、本当にこの子を傷付ける者から守れていない」
先程とは違って厳しい声に、私は戸惑ってお兄ちゃんを見上げた。でもお兄ちゃんは姿勢を下げることも無く高い位置からイルゼちゃんを見下ろし、眉を寄せている。私と話す時は必ず屈んでくれるお兄ちゃんなのに、この時は酷く怖かった。
「お前が守れないなら、その役目は僕が代わった方がいいかな?」
イルゼちゃんはお兄ちゃんの言葉に、ぐっと歯を食いしばった。悔しそうに顔を歪めながらも、お兄ちゃんを睨むように見つめ返す。
「いらない。フィオナを守るのは私だから。……今日は、ありがとう、でも、今度からは私が傍に居る」
「そうか。ならいい。……次は簡単に返さないから、そのつもりでね」
冷たい声でそう言うと、リベルトお兄ちゃんは私達に背を向けて立ち去って行った。つい一瞬前までとは別人みたいな様子で、私は戸惑いながらイルゼちゃんを見上げる。目が合ったら、イルゼちゃんは眉を下げて少し悲しい笑みを浮かべた。
「傍に居なくてごめん、フィオナ。学校の後、私がちゃんと家に送ってあげなきゃいけなかったのに」
「ううん。お兄ちゃんとね、私も約束したの、イルゼちゃんとずっと一緒に居るって。そうしたら意地悪されないよって」
さっきのお兄ちゃんの様子から、そんな言葉は想像が付かなかったからか、イルゼちゃんは少し目を丸めていた。
「……そっか。うん、ずっと一緒に居よう。他には何を話したの?」
「うーんと……なんだっけ?」
この時には本当にもう、私は約束通りお兄ちゃんが語ってくれた話を忘れていた。もしかしたら抱き上げてくれた辺りですっかり忘れていたのかもしれない。それはお兄ちゃんとの約束だったからか、単に記憶力が弱かったからかは、定かではない。
「まあいいや、これから稽古なんだけど、フィオナもおいで」
首を傾け続ける私を見て可笑しそうに笑うと、イルゼちゃんはそう言って私の手を取り、稽古の見学に連れて行ってくれた。
私の中で、リベルトお兄ちゃんと長く話した記憶は、多分、これだけ。
普段から優しくしてくれていたし、短い会話はあった。だけどお兄ちゃんはずっと年上だったこともあってか、いつも一歩離れて見守ってくれていたように思う。
結局、この夢から目覚めた後も、私はリベルトお兄ちゃんが「内緒だよ」と言っていた話だけは思い出せなくて、お兄ちゃんの夢を見たこと、それだけが強く記憶に残っていた。
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