第63話

 夜、私がお風呂から上がったらもうイルゼちゃんはベッドに腰掛けていて、丸まった背中だけが見えた。

「イルゼちゃん?」

「ん?」

 そっと近付いて声を掛ける。振り返ったイルゼちゃんの表情に特に変わった様子はなく、背中を丸めていたのは手元で何かしていたせいだったと知る。

「ううん。何してたの?」

「新しい籠手の調整。今日ちょっと打ち合いした時にズレちゃったから、紐ちゃんと結び直してた。緩くしちゃってたみたい」

「怪我はしてないの?」

 慌てて確認する為に身を寄せたら、イルゼちゃんが驚いた様子でちょっと仰け反った。

「軽く擦れただけだよ」

「……赤くなってる。これくらいでも、言ってくれたらいいのに」

「ごめん」

 薄い治癒魔法を掛ければ、赤みはすぐに消えて行った。イルゼちゃんとしては隠したつもりじゃないんだと思う。実際、傷というほどのものじゃなかったし、私が心配性なだけなのも自覚していた。だから、眉を下げるイルゼちゃんをこれ以上責めようとも思わなかった。

「早いけど、もう寝よっか。明日は朝から、西の森に行くんだから」

「そうだね」

 今日はグレンさんの都合が付かなかったので、明日の朝からグレンさんとアマンダさんと四人で向かうことになっている。私達の話を聞いたグレンさんが、油断せず四人で行くべきだと言ったからだ。

 特に私は植生調査も目的にしている為、意識がそぞろになる瞬間が絶対にある。前回も地図や木々を見てぼーっとしていたせいで危なかったわけで。つまり護衛は多い方がいい、という判断だった。本当にお手数ばかりお掛けして申し訳ない。

 大きなベッドだけど、私とイルゼちゃんは相変わらず身を寄せ合って眠る。どんなにベッドが変わっても部屋が変わっても、この腕の中に居れば私は怖さが薄らいで、変わらず眠ることができる。すぐに身体の力を抜いて、心地良い温もりに目を閉じたのだけど。

「ねえ、フィオナ」

「うん?」

 眠ろうとしている私にイルゼちゃんが声を掛けてくるのは、ちょっと珍しい。目を瞬いて顔を上げる。イルゼちゃんは、少しぎこちない笑みを浮かべた。

「兄貴とかさ、他のみんなも……私達にみたいに、生まれ変わってるのかな」

 イルゼちゃんが前世の誰かを求めたのは、今日が初めてのことだった。私はしつこいくらいみんなのことを思い出して、叶うなら、直接償いたいと願っている。だけど、『叶わない』ことを知っているから、ずっと苦しい。

「魂は何処かにあると思う。だけど、千年の間に繰り返し転生しているから、もう全然違う人だよ。外見は勿論、性質も」

「……そういうものなんだ」

 本来、生まれ変わった後に記憶が残るということは無い。『死』というショックによって魂が傷付いて、記憶を宿せない為だ。これは今世で思い出す前の私達のように『忘れている』状態とは違い、完全に魂から失われている。よって、どのようなアプローチをしたところで記憶を蘇らせることは出来ない。これは千年間、たった一人で封印を支える歴代の勇者も同じことになる。

 そして転生時に『修復』された魂は、元の魂から少し形が変わってしまう。この結果、姿や性質が前世とは異なるものとなる。私達がそれを受け継いだのは結局、何処までもイレギュラーに魂の状態が保持されていたから。私達以外にこの例外は存在し得ない。

「一度くらいの転生なら、ちょっと雰囲気があるかもしれないけど。三回以上になるともう絶対に分からないと思うな。私とアマンダさんの間で、共通点を探すくらい」

「それは別人だな……」

「ふふ」

 来世以降の私達も、どうなるのだろう。流石に次は記憶を宿すことはないだろうけど、私とイルゼちゃんの魂が繋がっていることで、魂の形は少し保持される気がする。勿論、多少の変性はあるにしても。

 私が少し思考を逸らしている間、イルゼちゃんはもう静かになっていた。眠ったかと思ったけど、顔を上げたらまた目が合った。

「……イルゼちゃん、寂しい?」

「え?」

 あれ。お兄ちゃん達や他の人達、もう二度とその面影にすら触れられないことを辛く感じているんだと思ったのに、イルゼちゃんは私の問いに目を丸めていた。

「あー、いや、そういうわけじゃないよ。ただ」

「うん」

「兄貴が生まれ変わって、傍に来たら。フィオナはやっぱり兄貴のことを好きになるのかなって、思って……」

 今度は私が目を丸める番だった。何の話?

「私が、お兄ちゃんを好きだったみたいに言うんだね」

「え、いや、え? 違うの?」

 本当にこれは何の話なんだろう。私達は困惑の顔で互いを見つめていた。

「確かにお兄ちゃん達は他の男の子と違って優しかったから、好きだけど……お兄ちゃんは『お兄ちゃん』だし、私が一番好きなのは前世も今もイルゼちゃんだよ?」

 イルゼちゃんのお兄ちゃん達に意地悪をされたことは一度も無い。ずっと彼らは優しくて、私のことも妹みたいに扱ってくれたし、他の男の子に意地悪されたら必ず助けてくれた。前世では二歳上だったイルゼちゃんよりも更に年上だから、今思えば同世代と違って幼稚な行動をしないのは当たり前なんだけど。

 でも私がそう丁寧に伝えても、イルゼちゃんは不安げな顔をしたままで、口を引き締めている。

「信じてない?」

「いや、えっと、ううん。信じるけど、何だろう、少し不安」

「どうして?」

 問い掛けてもイルゼちゃんは難しい顔で視線を彷徨わせる。言い辛いことを問い詰めてしまっているのかなと思ったが、口を開くと同時に困った顔で首を傾けた。単に、説明が難しかったらしい。

「分かんない。なんか……あー、リィ兄には、勝てないって思うせいかなぁ」

 前世のイルゼちゃんには、リベルト、エドアルドという二人のお兄ちゃんが居た。今話題に挙がった「リィ兄」は、上のお兄ちゃんであるリベルトお兄ちゃん。

 リベルトお兄ちゃんは本当に剣が強かった。イルゼちゃんでも最後まで勝ち越すことが出来ずに、そのままお兄ちゃんは王都騎士となって村を離れてしまっている。そのせいかイルゼちゃんにとっては『敵わない』印象が特に強いらしい。

「私がイルゼちゃんを好きなのは、剣が強いからじゃないよ」

 イルゼちゃんが何度お兄ちゃんに負けても、好きな気持ちが損なわれたことなんて一度も無い。勝っていても負けていても、誰よりもイルゼちゃんが好きだった。

「いつでもイルゼちゃんが一番格好いいよ」

 前世にも似たような話をした気がするんだけど。イルゼちゃんの中では今も、……もしかしたら今だから一層、敵わなかった記憶が消せないのかな。「ありがとう」と応えるイルゼちゃんが照れ臭そうに微笑んでいて、その表情からは少し、さっきまでの不安が薄らいでいるように見えてホッとした。

 リベルトお兄ちゃんも、エドアルドお兄ちゃんももう居ない。償いたい相手とも、越えたい相手とも、再会できる奇跡は無いのだ。だから私はイルゼちゃんがこの不安を忘れてしまえるまで何度でも、迷うことなく同じ言葉を繰り返そうと思った。

 改めて、眠るべく抱き直してくれたのに甘えて目を閉じる。

 いつも通り安心してとろとろと眠りに就いた私は、直前まで前世の話をしていたせいだろうか。――自力では思い出すことも出来ない小さな頃の、前世の記憶を夢に見た。

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