第49話
夕食前にもう湯あみを済ませていたアマンダさん達は、食後そのまま飲みに出掛けるらしい。だから私とイルゼちゃんは食事が終わった時、先に部屋へ下がろうと、席を立った。
「あ、フィオナ様、すみません一点だけ確認を」
「はい」
不意に、私だけグレンさんに呼び止められた。以前お貸しした魔法書のことだった。解釈について理解できなかった点について問われ、私が丁寧に説明する。その数歩後ろで。いつの間にかイルゼちゃんの傍に移動したアマンダさんが、小さな声で彼女に話し掛けていた。
「風呂場でやると上せるからな、気を付けろよ」
「うるさいよ。そういう話はやめてって言ってるでしょ」
本当にやめてほしい。せめて私の聞こえるところでは。毎回聞こえていない振りをするのも無理が生じるので。イルゼちゃんも多分すごく私の方を気にしながら、小さな声で怒っている。
「あたしは心配して言ってるのに……」
アマンダさんは不満そうにぶつぶつとそんなことを呟く。一部は小さ過ぎて聞き取れなかった。いや、別に聞かなくていい内容しか、無いと思うんだけど。
グレンさんとの会話も終えて、相変わらず私は何も聞こえていなかった顔でイルゼちゃんと一緒に部屋に下がった。
「フィオナ、もうお風呂入る?」
「え、あ、うん」
あまりにもあっさりと聞いてくるから、今日ばっかりは私の方がうろたえている気がする。変に緊張してしまうのは、アマンダさんのおかしな忠告のせいかな。恥ずかしがっていることを気付かれたくなくて、誤魔化すみたいにして背を向けて着替えを用意した。その間に、イルゼちゃんは全く躊躇う気配もなく手早く用意を済ませ、お風呂場へ向かう。
「洗い場小さいから、私が先に入っちゃうよ。後で呼ぶね」
「うん」
最後にちらりと窺ったイルゼちゃんの背中は、何処かご機嫌だった。私は堪らず、小さく息を吐いた。
そしてイルゼちゃんはいつもお風呂が早いので。
お風呂場の形状は、その家や宿屋によってまちまち。だけど基本的にはお湯を溜めておける場所が二つあって、片方は髪や身体を流す時に汲み上げて使い、もう片方は今イルゼちゃんが寛いでるみたいに全身を浸けて温める。
溜める場所が一つしかない宿屋も時々ある。そういう所は浸かってしまったら次の人の為にお湯を溜め直さないといけないので、浸からないようにすることが多い。今回は二つの桶がある上、私達が最後だから存分に浸かれるのだけど。……明らかに、二人で入るほどの大きさじゃない。きっとイルゼちゃんは私を膝に乗せるつもりなんだろうなと、横目でイルゼちゃんの状態を確認した。
「一緒に入るの、久しぶりだね」
私が髪を洗い終えたところで、不意に声が掛かる。私はイルゼちゃんに背を向けた状態で洗っていた為、彼女の表情は分からない。
「そうだね。十歳からは、もう無かったかな」
「うん、多分」
髪をまとめ上げて、身体を洗う。のんびりと私に話し掛けているイルゼちゃんは、私の方を見ているのかな。見られながら洗うって恥ずかしいんだけど。見ないでと言うのも、意識していると宣言するようでもっと恥ずかしい。とりあえず、背は向けたままにした。
「それにしても……イルゼちゃん、今回はどうしてこんなお願いだったの? 前世は、一緒に入るのあんなに恥ずかしがってたのに」
「え、そうなの?」
返事に驚いて、私は思わず振り返った。するとイルゼちゃんは私を見つめていたわけじゃなかったみたいで、天井を見上げていた。私の動きが視界に入ったらしくて、応じるようにこっちを見る。視線を呼んでしまったのは
「覚えてないの?」
責めるみたいに聞こえる言葉だったかもしれないって、イルゼちゃんがバツの悪い顔をした瞬間に思った。単に驚いて確認しただけのつもりだったけど、もっと柔らかい言い方も出来たと思うのに。訂正の言葉を考えたけど、イルゼちゃんが「ごめん」と呟く方が早かった。
「実は、フィオナほど全部を思い出してないんだ。時々、断片的になってるっていうか」
「そうだったんだ」
相槌の声は努めて柔らかく聞こえるようにした。ちょっとだけイルゼちゃんの表情も和らいだから、私が怒ってないことは伝わっていると思う。
聞けば、両手を火傷したことも、私に食事を手ずから食べさせられたことも覚えているものの、一緒にお風呂に入るかどうかのやり取りは全く覚えていないらしい。そうやって、ごそっと一部が抜け落ちているとか、記憶がぶつ切れになっていて流れがよく分からない部分があるとのこと。
その話を聞いている間に、私は身体も洗い終えてしまった。ちょっと
「ごめんね、イルゼちゃん。私、同じだけ覚えてると思って話しちゃってたよね」
「いや、それでいいよ。その方が、私も思い出すかもしれないし」
ところでこの体勢とかこの状態、イルゼちゃんって、どう思っているんだろう。
私は会話とは全く違うことを考えていた。お互い裸で、湯船の中とは言え肌を触れ合わせている。それでも何ともないなら、普段引かれている一線とか、熱を帯びた視線とかは何? 私の気のせい? 結局、イルゼちゃんも別にそういう気は無かったのかな。ぐるぐると考えて。でも当然、一つも言葉には出来ない。
「むしろ、私の方がごめん」
「え?」
思考に意識が取られて私が黙り込んでいたら、また謝られてしまった。どういう意味か分からなくって、顔を上げて首を傾ける。
「自分だけが覚えてるの、寂しくない?」
その話題、忘れそうになっていた。やっぱり今日は私の方が意識をしてしまっているらしい。私は不自然に間を空けないように、大丈夫だと伝える意味で緩く首を振った。
「寂しくないって言うと嘘になるけど、でも、イルゼちゃんは前世も今世も、イルゼちゃんだから」
これは本心。前世と今世でイルゼちゃんが違う人みたいに感じたことは一度も無い。ちょっとした違いがあっても、彼女は根本的なところがずっと真っ直ぐで、何にも変わらないから。
「それで、……前世の私は、一緒にお風呂に入るの、嫌がったの?」
「うん。無理無理無理無理って言ってた」
「えー、勿体ない」
それは、どういう意味なのかな。意識しないようにと思うのに、今日はちっとも上手くいかない。返事に迷って沈黙すると、腕に柔らかく添えられていただけのイルゼちゃんの手が動いて、私の脚とか背中とか触り始めた。待って、これ本当に、どういう反応をすればいいの。アマンダさん助けて。
「な、なに、イルゼちゃん」
「んー、フィオナの肌、柔らかくて気持ちいいなって思って」
だから。どういう意味? いい加減にこの疑問が口から出そう。
でもイルゼちゃんの表情や声には特別な熱なんて籠っていない、と思う。言葉通りに受け止めることしか今は出来なくて、「そう?」みたいな当たり障りのない言葉だけを口にした。
「うわ~、腕もふにゃふにゃだ~」
イルゼちゃんの大きな手が私の二の腕を包み、もにもにと感触を確かめている。これ、アマンダさんに報告したらすごい顔しそう。何度もアマンダさんのことを思い出して冷静さを保つ。
「そんなの、イルゼちゃんのと比べたら仕方ない……え、イルゼちゃんの腕すごい」
流れで私も彼女の腕を触ってみて、びっくりした。硬いだろうとは思っていたものの、想像以上にガチガチで石みたい。え、人の身体ってこんなに硬くなるの? 一生懸命に突いていたら、イルゼちゃんが楽しそうにくすくすと笑う。ごめん、突き過ぎたかも。慌てて慰めるように撫でたら、「大丈夫だよ」と目尻を下げていた。
「胸も全然、違うよねー」
「わ」
流れ、だと思うんだけど。二の腕と同じ感覚で胸も触られて身体が強張る。イルゼちゃんの手の中で自分の胸が形を変えたのが分かった。あまり長くこんな状態が続いたら、心臓が高鳴っていることが気付かれてしまいそう。呼吸を止めても何にもならないけど、ぎゅっと息を潜めて鼓動を抑えようと努める。
イルゼちゃんは私の緊張なんて何も知らない顔であっさりと手を放し、感触の違いを確かめるみたいに、同じ手で自分の胸も触っていた。そう、比較しようとしただけだよね、うん。
私も流れで真似を……とは言え、イルゼちゃんの胸をそんなにしっかり触る度胸は無かったから、指先で突いて、自分の胸も突いてみて、硬さを比べた。え、確かに全然違う……。
「同じようなもの食べて育ったはずなんだけどなぁ」
「あはは」
イルゼちゃんと私じゃ、運動量が全く違うのは分かっているけれど。身長も全然違うし。前世でも同じくらいの体格差があったことを思えば、魂ってそんなところにも影響するのかな。ちなみにイルゼちゃんは今も身長が伸びている最中で、前世より数センチ低いと思う。多分。私からしたらみんな高くてよく分からない。
結局、そんなこんなで特に性的な雰囲気など微塵も発生しないまま、イルゼちゃんからのよく分からないお触りは終わった。再び彼女の両腕は私を支える為にただ回されるという位置で落ち着く。
「はぁ~、でも今回のは本当に凹むなぁ。私が一番、臆病だなんて……」
「私が心配させちゃったせいだよ」
「だからってさ、ジェフとグレン以下ってのが……」
「し、失礼だよ」
どうしてその二人なのかって問わなかった私も割と失礼だったかもしれない。でもアマンダさんってどう考えても精神面では最強なんだもの。彼女になら精神の強さで負けても、イルゼちゃんは納得なんだと思う。
「二人も、私達よりずっと大人だから、目に見えなくてもずっと強いんだと思う」
「そういうものかなぁ」
誤魔化す意味ではなくて、改めて考えればやっぱりそう思う。勇者を失った彼らが十七年間をどんな思いで生きたか、想像することも出来ない。いや、多分想像することが怖い。それは私がヨルさん達に押し付けた未来だったと思うから。……だからこそ、その時間を過ごした彼らの強さって、計り知れないように思う。
「フィオナ、私、格好悪かったよね」
ぽつりとイルゼちゃんが呟く声は弱くって、いつになく落ち込んでいる様子だった。
「ううん。イルゼちゃんはいつも一番格好いいよ」
心からそう思っていた。前世からずっと、ずっと。私はイルゼちゃんを格好悪いと思ったことなんか一度も無い。今回だってそんな風には少しも思わなかった。
「フィオナがそう言ってくれるの好き。嬉しい」
すりすりと、イルゼちゃんが私の頭に頬を寄せた。悲しい顔をしていないか心配で顔を上げたら、目が合った途端にイルゼちゃんの目尻は垂れ下がる。寄り添うように互いの額が合わせられて、鼻先が触れた。
「ねえ、ちゅーしてフィオナ、そしたら最強になれる気がする」
何処か楽しそうな色を瞳に乗せてそう告げるイルゼちゃんに、目を丸めた。悪戯っ子みたいな顔をしている彼女がちょっと珍しくて、幼くも見えて。なんだか可愛いと思った。
「……イルゼちゃんって時々そういう変なこと言うよね。前世から」
私は少し笑いながら、イルゼちゃんの濡れた項に手を添えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます