第37話

 ジェフは大きな身体を少し屈めて、宿の入り口から外に出る。扉前で、左右を見回して、首を傾けた。探し人の姿が見当たらない。どちらへ向かうべきだろうか。しばらくそのままで静止した彼は、右側へと足を進める。此処は港町であり、彼が向かった方角に港がある。逆側には市場がある。港の方が可能性が高い――と、ジェフは考えたわけではない。とりあえず右から順に探せばいい、そのような考えだった。

 だがその直感――と呼ぶべきかどうかも定かではない思い付きの行動は功を奏し、目的の人は港の端にある展望台で見付かった。

「おーい、アマンダ、此処に居たのかぁ」

 手を振らずともその体躯があれば目立つだろうに、それでも彼は高く手を掲げて大きく振る。何処か子供のような仕草に、振り返ったアマンダが微かに口元を緩めた。

「何だいジェフ。あたしに何か用だったのか?」

「いいや、用はねえが。買い出しが終わったらとっとと出てったもんだからな」

 昼過ぎに到着したこの街に、彼らは二泊をする予定を立てている。フィオナとグレンがその間に保存食を多めに作るそうだ。適した食材も多くあるらしい。先程までは市場の方で皆が手分けして必要な食材を買い出ししていたが、アマンダだけはそれを宿に届けた直後、休憩することも無く外へ出た。ジェフはそんな彼女が気になって、わざわざ追ってきたらしい。

「あんたは相変わらず心配性だね。別に、ちょっと懐かしいなと思って散歩をしていただけさ」

「そうか」

 この街は、彼らが十七年前の旅でも立ち寄り、一泊した場所だった。今回とは違いたった一泊で、多くの思い出があるわけではない。それでも、あの時と同じ街に立ち寄ることはこの旅で初めてだった為、アマンダも多少は感慨深く感じていた。

「あたしはあれから一度も此処には来なかったからねぇ」

「俺もだ。いやあ、何処を歩いても、寂しくなるもんだなぁ」

「ハハ、見た目に似合わず繊細だね」

 だがそう感じる心があったからこそ、一人で宿を出ていく彼女をジェフは心配してしまったのだ。それに気付かないアマンダではない。水面が陽の光を反射して眩しく輝いている様を見つめながら、彼女は小さく息を吐く。

「……あたしは今も、ルードの故郷を知らない」

 アマンダが彼と過ごした時間はあまりに短い。彼が勇者として旅をしていた最中に出会い、そして勇者として務めを果たしたその時に途切れた。恋人として親密な関係を持っていたからと言って、互いの全てを打ち明け合うには、時間が無さ過ぎた。

「海沿いの街だとは、聞いたんだがね」

「そうらしいな、俺も何度か話を聞いた。街の名も聞いたはずだが、……覚えとらんのだなぁ、これが」

「あんたらしいよ」

 くつくつと肩を震わせて笑うアマンダの笑い声にも横顔にも、普段と違う様子は無い。けれどジェフは笑みを向けながらも、眉だけは気遣わしげに下がっていた。

「この街でも妙にはしゃいでいたよ。『俺の故郷も海が見えるんだ』ってな」

 当時、この街に到着するとすぐにアマンダはルードによって散歩へと誘われ、連れ回されていた。たった一泊だけの休息だと言うのに、昼過ぎに到着してから日が暮れてしまうまで。海が見える街が好きなのだとアマンダへ語り、彼は嬉しそうに笑っていた。

「『この旅が終わったら連れてってやる』とも、言ってたな」

 恋人に伝えるそれは、求婚のようにも聞こえる。しかしジェフにまで「ばか」と称されるルードという青年がどの程度それを意識していたのかは分からない。アマンダにとってはどうだったのだろうか。口元に浮かぶのは笑みだったのに、彼女はまるで海から目を逸らすようにして、視線を落とした。

「あたしはもう、海が嫌いになったよ。あいつを失って以来」

 アマンダは山奥の生まれ育ちで、海を見たのはあの日が初めてだった。だからこそ、彼と思い出は鮮烈だ。そして最後の街も、港町だった。彼を失い、失意の中で過ごした船。海の上。アマンダにとっては最早全てが辛い思い出となった。

 俯く彼女を隣から見つめるジェフは、彼女よりずっと苦しそうな顔をしていた。彼の大きな手で握り締められる展望台の手摺は、今にも形を変えてしまいそうだ。

「連れてってくれると思うぞ、あいつは馬鹿だからなぁ、十七年経ってようと、千年経ってようと、『約束しただろ?』っつってなぁ」

「ははは!」

 大きな声で笑った後、アマンダは顔を上げたが、ジェフが立つのとは逆側に顔を向ける。だからこの時の彼女がどんな顔をしていたのか、ジェフには少しも分からない。

「十七年越しの口約束がどうなってんだか、そっちも楽しみにしてようかね」

 軽く肩を竦めると、アマンダは手摺から離れて踵を返す。宿へと戻るのだろうか。ジェフは何も言わずに、彼女の後に続いた。

「ジェフ、今夜は酒でも飲むかい。明日は出発しないんだろ」

「ああ、そりゃいい!」

 弾む声を返すジェフに、アマンダが振り返らずに微かに笑っていた。

 その夜、夕食後に食堂へ留まって二人は酒を飲み交わしていたが、そんな二人をグレンはやや険しい表情で見つめる。

「何だよ羨ましいのか? お前も飲むか」

「飲まない。全員が酔ってしまったら、お二人を守る者が居なくなるだろう」

 生真面目な彼らしい返答を聞いて、アマンダは呆れた様子で大袈裟に肩を竦めた。

「あいつらを守る必要が何処にあるんだよ。此処は街中だぞ?」

「街中でも、大人に絡まれることが無いとは言い切れない」

「イルゼが居りゃあ心配なんぞ無いわ! 最近はもう俺よりよっぽど強いぞ!」

 ジェフも豪快に笑っている。毎日のように彼女と手合わせをしている身からしても、そこらのゴロツキに絡まれた程度で彼女が後れを取るとはとても思えないのだろう。当然、グレンも彼女の強さをよく分かっている。イルゼならば何があっても大事なくフィオナを守り通すだろうことは、分かっているのだ。

 けれど心配に心配を重ねてしまうのが彼の性分だ。「しかし」と続け、未だ渋るグレンに、アマンダは少しトーンを落とした。

「前後不覚になるほど飲めとは言わないから、少し付き合えよ。あの旅じゃ、あたしだけが飲めなくて、これでも寂しかったんだ」

 当時、他三人は二十歳を超えていたが、アマンダは十八歳だった。時々食事の際に酒を飲む三人を、羨ましく思ったこともある。しかし状況的には、男の三人旅に連れている未成年女性。酒を飲ませるのはあまりに体裁が悪い。不満そうにする彼女を不憫に思っても、飲ませてやることは出来なかった。

「……少しだけだ」

 彼も当時を思い出したのか、難しい顔で沈黙した後でグレンはそう言って、アマンダらと共にテーブルにつく。少しと告げたにも拘らず、目の前のグラスにはジェフによって酒がなみなみと注がれた。グレンはまた顔を顰めたものの、それ以上の文句を口にしようとはしない。

「あいつが戻ったら、今度こそ四人でたらふく飲みてえなぁ」

 三つのグラスを鳴らせば、足りない一つが際立った。

 豪快に酒を流し込むジェフの仕草とかけ離れたような寂しげな声に、二人は「そうだな」と短く返す。十七年も経ってしまった。彼ら三人はあの頃と同じ顔では笑えないし、同じ心で酒を傾けることも出来ない。

 けれど彼が帰ってきて、こうして四人でテーブルを囲んだら。

 あの日が、戻って来てくれる気がした。

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