第36話
愛らしい。愛おしい。
フィオナとイルゼの二人に対して、グレンはそれ以外に言いようの無い想いを抱いている。
「おい、グレン。あんまりニヤニヤしてんなよ、お前は人相が悪いんだ。通報されるぞ?」
「……ニヤニヤなどしていない」
不意に隣から掛かった声に、何処を指摘すべきか少し迷ってからグレンは低くそう唸り、口元を引き締めた。アマンダがけらけらと笑う。それ以上、彼女から揶揄われることを避けてか、つい先程まで隠すことなく視線を向けていたフィオナとイルゼから顔を背け、視界の端で意識するだけに留めた。だが意識の外へと外すことは出来そうにない。
彼が飽きることなく見つめていた二人は、何か特別なことをしていたわけではなく、市場の中、果物を選びながら穏やかに笑い合っていただけだ。
けれどそんな日常を切り取る一瞬が、彼にとっては愛おしくてならない。
二人が当たり前のように生きていて、歩いていて、笑っている。それがいつもグレンの心の中へと形容しがたい喜びを齎していた。
フィオナとイルゼは前世で、魔王封印の犠牲となった。グレンの一族が導き、死へと追いやったのだ。
だがその命がこうして『次』を得て、生きていて、笑ってくれている。その事実はグレンの救いだった。自らが救いを得ることなど到底許されないと思う一方で、どうあっても二人を守り抜きたいという気持ちが、共に過ごす日々を重ねるごとに強固になっていく。
しかし、こうして彼女らが今も戦わなければならない状況は、きっと二人が本当に願った『次』の形ではなかったはずだ。だからこそグレンは、その二人の本当の望みを叶える為、心置きなく『次』の命を生きていけるように、自らの全てを懸けて尽くそうと思っている。
「――何か気になりますか、フィオナ様」
「あ、いえ、大したことでは」
イルゼが会計の為に少し傍を離れた時、フィオナが市場の何処か一点をじっと見つめて不自然に立ち止まっていた。彼女は小柄である為に遠くから見て目立つことは無いが、近くで視界に入れば男女問わずつい振り返ってしまうほどの美しい容姿をしていた。邪な目を向ける者に見付かる前にグレンは傍に立って彼女を隠し、ぼんやりしていた彼女に声を掛ける。
いつもはその役をイルゼが担うのに、今は傍を離れていた。彼女にしては不自然に不用心なことだ。グレンはフィオナが何かを話そうとしているのを促す意味で、彼女を見つめて少し首を傾ける。同時に、何故か彼女を残して傍を離れたイルゼを窺った。
そして即座に納得する。どうやら、会計の相手が男で、フィオナを気に入っていた様子だったのだろう。イルゼの対応をしながらもフィオナの姿を窺おうと妙な動きを見せている。その度にイルゼも動いてフィオナを隠していた。あっちを塞げばこっちが開いてしまったということか。ならばやはり、今フィオナを守っているべきは自分だとグレンは確信していた。
「小さなことでも構いません、何なりとお聞きください」
彼女は『大したことではない』と思ったそれを何故か質問するのを躊躇い、中々話し出さない。グレンはそんな彼女に出来る限りの優しい声を掛ける。するとようやく、フィオナは彼を見上げて口を開いた。
「えっと……市場のあちこちに、同じものがぶら下がっていて、一体あれは何の飾りなのかと」
「ああ、あれは――」
フィオナが気にしていたのは、この街の古い風習によるもので、店を訪れる客に幸福が訪れるようにという願いを込めた飾りだった。大小の違いはあるものの、この街ではほとんどの店がそれを飾っている。小さな飾りは会計場の脇などにあって見付けにくいこともあるが、大きな飾りは店の前や屋根にあって目立つ為、フィオナの目に止まったのだろう。
飾りの風習と、その形が持つ意味、由来などについてグレンが詳しく話すのを、フィオナは熱心に聞いていた。他三名ならば最初の一分で音を上げるだろう長い内容だったのだが、フィオナはこのような話が随分と好きであるらしい。
色んな町を訪れる中、何度かこのようなことがあると、次第にフィオナがグレンに話し掛けることは増えた。逆にグレンも、フィオナがこういう話に興味を持つと理解した為、訪れる町に関して情報を集めておいたり、グレンの方から話して聞かせてやったりした。
そんなある日のこと。グレンの話を熱心に聞くフィオナを見て、アマンダがつまらなそうに呟く。
「お前めちゃくちゃグレンが好きだなぁ。この無愛想の何処が良いんだ?」
「……余計なお世話だ」
グレンは即座に眉を寄せた。無愛想という指摘を受けたこともそうだろうが、折角フィオナが楽しそうに話を聞いてくれていたのに、アマンダが水を差したことが最も不満だったのだろう。
「いえ、そんな。グレンさんを特に無愛想とは思いませんし、ええと、お話が楽しくて、つい……あっ、グレンさんには、ご負担だったかもしれません」
「とんでもありません、光栄です」
言葉通りグレンはフィオナから頼られることを心から光栄に感じており、役立てることはこの上ない喜びだった。その為、アマンダの揶揄いによってその機会が損なわれてしまっては困るのだ。フィオナの言葉に間髪入れずにそう返し、全く迷惑などではないと伝えることしか頭になかったグレンは、傍らでイルゼが酷くショックを受けたような顔で大口を開けて固まっているのに気付くのが遅れた。
「おい、イルゼがすごい顔してるぞ」
「え? ど、どうしたの、イルゼちゃん」
忙しなく目を瞬くフィオナと、彼女からの視線を受けてもいつもの凛々しい顔に戻らないイルゼを見て、自らの行いが招いた事態であることにゆっくりとグレンは気付く。彼が眉を顰めている横で、アマンダは笑いを堪えていた。
「ぐ、グレンのこと好きなの……?」
「うん? 好きだよ、え、どうして?」
「イルゼ、はっきり聞かんとフィオナには伝わらないだろ」
指摘を受けたイルゼは頭を抱え、フィオナはそんな彼女を心配そうに覗き込む。イルゼはその状態でしばし悩んだ末、両手でフィオナの肩を引き寄せ、真剣な表情で彼女の瞳を見つめた。
「私とグレン、どっちの方が好き!?」
「そうなるのか……」
最初の問いも大概ではあったが、悩んだ末に出てきた問いにもアマンダは呆れて笑っていた。グレンは成り行きを見守って黙り込む。今、二人の間に介入するのが悪手であることは明らかだった。
「勿論、イルゼちゃんだよ」
不思議そうに首を傾けつつフィオナが即答した。これは少しアマンダにとっても意外なことだった。フィオナであればもう少し、グレンに気遣って「どちらの方が」という明言は避けてしまう気がしていたのだ。そして更にややこしい展開に陥るのだと――幾らか楽しみにしていたのかもしれない。
しかしフィオナにとって『イルゼが一番』であることは否定し難い当然の事実であるように、彼女の回答には躊躇いが無かった。そして口に出したことを後悔する様子も、全く見えない。お陰でイルゼは心から安堵した顔をしてそのままフィオナを抱き締めている。どうやら、早くもイルゼの憂いはすっかり晴れてしまったらしい。
「そんなんで良いのか」
つまらない。
そう言いたげな顔をして二人を眺めるアマンダに、更にグレンが眉を顰める。
「俺をダシにしてイルゼ様で遊ぶんじゃない……」
低い声にも長い溜息にも、アマンダは楽しそうに笑うばかりだ。遊ばれたのはイルゼであり、そしてグレンでもあるのだろう。改めて彼は、長い溜息を零す。
グレンにとってはフィオナだけではなく、イルゼも等しく尊い勇者だ。そしてフィオナ同様、イルゼにも幸せでいてもらわなければ困る。その為にはどうやらフィオナに対しては適切な距離感を保って接する必要があるらしい。
「ならば文化などをお教えする際には、文書で……」
「それは止めろ。面白すぎる」
妙な方向へ舵を切り始めたグレンに対し、流石のアマンダも真面目に制止する。だがそれならばどうすれば二人に喜んでもらえるのか。真剣に悩む彼に、アマンダは面倒くさそうに首を傾けていた。
しかしこの後、幸いなことにこの件について上手くバランスを取るようになったのはグレンではなくフィオナだった。おっとりとしている彼女ではあるが、イルゼの不安には少なからず気付いたのだろうか。グレンから楽しく話を聞いた後は必ずイルゼの傍に寄り添い、聞いた話を共有するようにいつも以上に沢山、二人で話をしている。するとイルゼもあまりこの件を気にしなくなり、且つ、グレンも二人の為に役立っているとあって、傍から――つまりアマンダから見れば、最も平和的な解決をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます