第17話

 私がイルゼちゃんを抱き、グレンさんが差し出してくれた手拭いで彼女の額を拭き終えるのを待つように沈黙していた女神様は、何処か遠くを見るように顔の向きを変えた。

「汝の願いは、我々、神にとっても益のあるものだ。封印は、回数を重ねるごとに弱まっている」

 その言葉に強く反応を示したのは、グレンさんの方だった。息を呑み、女神様を仰ぎ見る。

「一体、ど、どういうことでしょうか。我々が受け継いできた方法に、何か不備が?」

 焦りを含んだグレンさんの問いに、女神様はゆっくりと首を横に振ってそれを否定した。人の行ってきた儀式には何の不備も無く、勇者の魂も常に正しく丈夫なものが選び続けられていると。だけど、それでも、封印には綻びが生まれてしまった。

「魔王は負の感情を集めている。この場所で、勇者が命を落とす度に注ぎ込まれる感情を得て、力を強めていたのだ」

 どれだけ不備なく封印を繰り返したとしても、魔王が封印を上回る力を得てしまえば意味が無い。この神殿から出られないような状況でもそうして魔王が力を強める事態を、いくら神々であれ、予期できなかったようだ。

 私が死ぬんだと知った時、イルゼちゃんは泣いた。サリアちゃんも泣いてくれて、ダンさんとヨルさんは寂しげに眉を下げていた。今世の勇者も、そして歴代の勇者にも仲間が居たはずで、誰もが同じく痛み、悲しんできた。それが、魔王の糧になってしまった。つまりこの仕組みが続いていたら。

「そう、遠からず、封印は再封印不可能な形で破壊されることになった」

 神々の姿も失ってしまったこの世界ではきっと、封印を失うことは滅びと同義だ。隣でグレンさんは言葉を失っていた。色んなものを失い、目の前で石像になってしまった彼を失ってでも、一族が必死に守ってきた封印と、世界だったのに。

「私の知る限りのことは、紋へと宿した」

 突然、私の喉元がじわじわと熱くなる。瞬きをすると、視界が微かに揺れた。女神様の姿が揺らぎ、その形が曖昧に見えた。眩暈のせいかと思ったけれど、どうやら本当に女神様の姿が薄まっている。彼女が纏う布がゆらゆらと動き、そして空中に溶けるようにして消えていく。

「稀有な境遇を経て、記憶と意志を持ち、全てを救いたいと願う真なる勇者よ。汝の旅に、神々の祝福があらんことを」

 最後の言葉は耳鳴りに混ざってよく聞こえなかった。イルゼちゃんを支えているのとは逆の腕を咄嗟に地面に付いたけれど、身体が大きく傾く。気付いたグレンさんが私を支えてくれた。

「フィオナ様、大丈夫ですか、……フィオナ様!」

 だけど座り直すことも出来ないまま、私の視界は暗転した。


 次に意識を取り戻した時には、もう日が暮れかけていた。神殿に着いたのは昼頃だったから、数時間も気を失っていたらしい。身じろいだのに気付いたか、慌てた様子でグレンさんが私の傍に来てくれたのが見えた。

「フィオナ様、ご気分は」

「大丈夫、です。ごめんなさい。私まで倒れてしまって……イル、ゼちゃんは……」

 問い掛けようとしたけれど言葉が止まる。問うまでも無かった。私の膝辺りに寄り添う形で彼女もまた、横たわっていた。彼女の手が私の服をしっかりと握り締めているのを見て、何となく事情は察したけれど、深く眉間に皺を刻んだグレンさんが、まるで懺悔するように事情を説明してくれた。

「その、イルゼ様がお放しにならず、当然、フィオナ様の服を脱がす訳にも……。私がお二人をまとめてお運び出来れば良かったのですが、申し訳ありません……」

 一人ずつならば運べたのだろうに、イルゼちゃんがこの手を離さないことにはまとめて運ぶ必要があって、グレンさん一人ではどうすることも出来ず、目覚めるのを待ってくれていたらしい。謝ることは何も無いのに、何故かグレンさんは私の前に正座して俯いていた。

「いえ、居て下さって助かりました。ありがとうございます」

 封印中の神殿の中は、基本的に魔物が居ないけれど、絶対に入って来ないように作られているわけではない。私とイルゼちゃんだけだったら、この数時間は危なかった。グレンさんが一人ずつを運べたとしても、もう一人は無防備となる為、イルゼちゃんが掴んでくれていてむしろ良かったのかもしれない。ゆっくりと身体を起こす。硬い地面で横になっていたせいで少し痛むけれど、それ以外の不調は無い。心配してくれるグレンさんに大丈夫だと告げ、座り直した。

「私の方は、女神様が多くの情報を下さったので、目を回してしまっただけだと思います。……だけど、イルゼちゃんは」

 再び引き寄せた身体は酷く熱くて、イルゼちゃんの呼吸はいつもよりずっと浅く、苦しそうだ。

「フィオナ様が気を失われた辺りから、発熱をされていて……命に関わるほどでは無いと思うのですが」

 確かに熱は高い様子ではあれど、異常とまでは思わない。実際、女神様も大事は無いという表現をしていた。それでも苦しそうなイルゼちゃんの表情を見れば、心配しないなんて無理だ。彼女がしっかりと握り込んでいるローブの端を無理に解くことなく、私はそのローブを脱いだ。

「イルゼちゃん一人だけなら、運べそうでしょうか?」

 今の私達は普段よりずっと荷が少ない。ほとんどを船に置いているから、装備や他の荷物なら、私だけでも持って行ける。グレンさんが頷いてくれたのを見て、自分の荷は勿論、新たに受け取った短剣と、イルゼちゃんの長剣を腕に抱えた。

 グレンさんは一見、細身なので少し心配したけれど、イルゼちゃんのことを難なく背負って歩き出す。イルゼちゃんは女性の中ではかなり長身で、二人の身長はあまり変わらないように見えるのに。ちょっと驚きながらも、彼の後ろを付いて歩きながら、大神殿を後にする。一度だけ、勇者の石像を振り返った。

 船に戻るまでの道中に遭遇した小さな魔物は、私が魔法で追い払っていく。グレンさんはイルゼちゃんを背負っていて戦えないけれど、魔王が封じられている状態の大神殿の周りは他と比べて穢れの薄い場所だから、何とかなっていた。

「フィオナ様の魔法、少し、大きくなりましたか」

「そう、みたいですね、おそらく女神様から賜った力の影響です」

「なるほど」

 私の喉元にある紋章へ短く視線を落としたグレンさんは、少し気まずそうにそれを逸らした。見られて困る場所にあるわけではないから、彼にとってはこの紋章を見ること自体が、まだまだ傷が痛むことなのかもしれないと思う。

「突然の変化は、身体にも負担が掛かります、どうかご無理なさらないよう」

「ありがとうございます。そうですね、第三の祠辺りで、私も一度倒れました」

 その言葉に、ふっとグレンさんが小さく息を零して笑った。驚いて振り返ってしまった。彼は確かに口元に笑みを浮かべて、優しい瞳をしていた。

「ルードも……いえ、今の勇者も、目を回していましたよ」

 名を呼ぶ時の優しい声が、彼にとって大切な人だったんだと伝わってくる。

「ルードさんと仰るんですね」

「……はい」

 返った声はやけに小さくて、静かだった。私はそれ以上、何も言わなかった。


* * *


 船へと運び込まれたイルゼは、この船に二つある船室の内の一つで、寝台の上に寝かされた。解熱作用のある薬を服薬させたことで少し落ち着いているものの、完全に熱が下がる様子は無い。しかし熱が下がるより先に、イルゼは目を覚ました。しばらくは意識があるのかも分からない様子で天井を見つめていたが、ゆっくりと視線を動かせば、彼女の傍に付いていた女性船員と目が合う。女性はそれに気付くと、黙って頭を下げ、一度、船室の外へと出た。

「イルゼ様がお目覚めです」

 女性の言葉に応じて入ってきたのは、グレンだった。女性はそのまま、グレンの指示を受けて何処かへと立ち去って行く。

「私が分かりますか」

「うん、グレン……此処は?」

「船内です。まだ陸へは半日ほど掛かりそうです。先程少し、波が荒れたので」

 予定通りであればそろそろ港町に到着できる見込みだったのだが、荒れている間は満足に船を進めることが出来ずに立往生が続いていたのだ。ようやく落ち着いて、港町の方へと舵を切ったところだった。

「フィオナは何処?」

「長くイルゼ様のお傍にいらっしゃいましたが、負担を考え、交替いたしました。先程までお休みなっておられましたが、今は甲板の方にいらっしゃいます」

 頑なにイルゼの傍を離れようとしないフィオナに対し、丸一日が経過した辺りでグレンが懸命に説得して休ませた。ただ、荒波が落ち着いた頃、外の空気を吸いたいと甲板に出て行った。揺れで気分が悪くなったのかもしれないと思い、グレンも止めていない。その話を聞いたイルゼは、様子を見に行こうとしたのだろう、少しふら付きながら、身体を起こした。グレンがやや慌てて制止する。

「私が呼んで参ります、どうかまだ安静に」

「……分かった」

 おそらくイルゼ自身、まだ体調が悪かったのだろう。彼の言葉を聞いて素直に身体を横たえる。その様子を見守って、グレンは甲板の方へと向かった。

 広くない船内だ。もしも甲板に居なくともすぐに見つかるだろうと思いながら外へと出れば、フィオナは甲板の目立つところで一人、立っていた。

「フィオナ様、イルゼ様が目を覚まされましたが、……大丈夫ですか?」

「え、あ、はい。すぐ行きます」

 近付きながら声を掛けたグレンは、言葉を途中で止め、目を細める。フィオナが喉元、勇者の紋のあたりを押さえて俯いていたからだ。しかし顔を上げたフィオナにおかしな様子は無く、すぐに紋からも手を離していた。考え事をしていたのだろうか。フィオナがすぐに船室へと歩き出した為、グレンはそれ以上を問わなかった。

「イルゼちゃん」

 地上ならば走って駆け込んでいただろうと思われるほど急ぎ足で、フィオナは船室に入り込む。ただ実際は船が絶えず揺れているので、あちこちに掴まりながら、頼りなくベッド脇に向かった。触れた頬はまだ熱く、本人よりも苦しげな表情をフィオナは浮かべていた。

「辛いよね、ごめんね」

「どうしてフィオナが、謝るの」

「私が勝手に決めたことで、イルゼちゃんにも影響が出てるから」

 泣き出しそうになっているフィオナに、イルゼは微笑む。そしてイルゼからも手を伸ばして、フィオナの頬に触れた。まだ涙は零れていないのに、見えない雫を拭うようにして撫でている。

「知らなかったんだから仕方ないでしょ。あの女神も意地悪だね、こんな影響出るなら、先に言ってよね」

 可笑しそうにそう言うイルゼに釣られて、フィオナも少し笑う。眉がまだ下がっていたせいか、イルゼは何度もフィオナの眉尻を指先で撫でた。

「私が気を失った後、どんな話をしたの?」

「……熱が下がってからでいいよ、イルゼちゃん」

 少しの戸惑いの後、フィオナはそう返した。何処か話題を避けたがるような気配があって、イルゼは少し不安そうに眉を寄せる。

「置いて行ったりしないよね」

 微かに言葉尻が震え、イルゼの不安を浮かび上がらせる。だけどその問い掛けにフィオナは当たり前みたいに首を横に振り、笑みを浮かべた。彼女の回答が言葉で聞かされる前に、イルゼの瞳は安堵を宿す。

「しないよ」

「なら、いいや。熱が下がってから、また話そう」

 傍にさえ居てくれるなら構わないと告げながら、イルゼはフィオナの手を握る。フィオナもその手を握り返して、何処にも行かないことを示すように、そのまま離れようとしない。

「フィオナ」

「うん?」

「こんな狭い寝台じゃなかったら、添い寝してほしかったんだけどなぁ」

 イルゼが横たわる寝台は、一人用であることは勿論だが、細いイルゼの身体の幅ぎりぎりしかない。狭い船だから寝台が置いてあるだけマシなのだろうけれど、フィオナと共に眠りたいイルゼには少々不便なものに感じる。フィオナは数度目を瞬いてから、くすくすと笑い声を漏らした。

「陸の宿に戻ったら、一緒に寝ようね」

 肯定してくれる甘い声に、イルゼは満足そうに頷く。そして一回り小さい彼女の手を離さないように握り直して、再び休むべく目を閉じた。

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