第6話

 しっかり休めたと言うには、浅い眠りだったかもしれない。それでも、私は出発を翌日以降にしようとは思わなかった。私のような臆病者は、一度足を止めたら、もう前に進めなくなる気がしたから。

「チェックアウト、お願いします」

「ああ、はいはい、ちょっと待ってくださいね」

 人の気配も感じられないくらいの早朝、そっとロビーに下りて受付の女性に声を掛ける。こんな時間に出て行く者も少ないからだろう、慌てた様子で台帳を開いていた。少し申し訳ない。部屋番号が書かれた鍵を渡して、女性が示す箇所にサインをする。支払いはチェックインの際に済ませているので、礼を述べて去ろうと顔を上げた、その時。ロビーに、新しい人影が入り込んだ。反射的に目を向ければ、今世で誰よりも見つめたさび色の瞳だった。向こうも私を見付けて、目を見開く。

「――フィオナ!!」

 大きな声に思わず身体が跳ねた。けれどそれは私だけじゃなくて、受付の人も同じく肩を震わせて慌ててその人――イルゼちゃんを、振り返る。

「お、お客様、その、まだお休みの方もおられますので……!」

 女性の言葉に、イルゼちゃんはハッとした顔で口元を押さえた。それでも私に向き直ると何かを言おうと口を開いてしまうので、私は人差し指を自分の口に当てて、静かに、と示しながら、カウンターから離れる。その動きを見たイルゼちゃんは、酷く慌てた様子で私の腕を掴んだ。

「フィオナ、待って」

「イルゼちゃんも、チェックアウトするの?」

「え、する、けど……」

「じゃあ待ってるから、話すなら外にしよう」

 私を見つめるイルゼちゃんが、戸惑った様子で何度も目を瞬く。何となく気持ちは分かっている、と思うけれど、此処で話し込んでしまうと、宿に迷惑だから。多分イルゼちゃんもそれは分かってくれたんだと思う。微かに眉を寄せたけれど、小さく頷き、カウンターの方へと向かった。そして手続きの間、何度も私を振り返っていた。逃げ出すと思っているみたい。いくら何でも、イルゼちゃんと面と向かって追いかけっこをして、勝てるつもりは無かった。

 チェックアウトを済ませた後は、宿から少し歩いて、北側の門まで二人で移動した。町全体がまだ眠っている時間だから人が少ない場所に移動したかった。ついでに、元々、私が此処に向かう予定だったから。周りに人は居ない。見張り台の上には誰か居るみたいだったけれど、門の傍には誰も居なかった。改めて、イルゼちゃんに向き直る。見たことが無いような顔をしていて、私もどんな顔をしたらいいか、分からない。きっと、不格好な笑みが浮かんだと思う。

「イルゼちゃんなら追い掛けてくるかもしれないって思ってたけど、こんなに簡単に捕まっちゃうもの?」

 もう少し村から離れたら手紙を出すつもりだったし、その内に移動経路が予想されて、何処かで捕まってしまう可能性は、正直、あると思っていた。だけどまさか手紙を出すより先に、二つ目の経由地で捕まってしまうなんて思いもしなかった。目的地も経路も誰かに話したことは無く、部屋にそれが分かるようなメモも残していないのに。

「夜中に、馬小屋のじいちゃんが北の門で見たかもって言ってて。それならセトラタに行ったんじゃないかって」

「あー……」

 くたりと頭を下げて脱力した。出て行った門と方角が知られてしまっていたならどうしようもない。北門近くで人が来そうな場所は、おじいさんの馬小屋だけだ。彼は最近少し体調を崩していて、あまり外に出ていなかったはずなのに、あの日はきっと調子が良かったんだろう。良いことなのに、私としては不運だった。村を出て二日目で捕まった事実は、あまりに鈍くさくて私らしい。

「一体、どういうつもり?」

 現状を恥じて黙ってしまったのをどう思ったのか、イルゼちゃんは一歩私に近付いて、また腕を引いた。問い掛けてくる声は、いつになく低かった。

「手紙に書いた通りなんだけど……」

「ふざけないで。それで納得してたら、こんなとこに居ないよ」

 腕を掴んでいる手に少し力が込められる。見上げたイルゼちゃんの表情を見て、私は怖いと思うよりも先に、前世と一緒だなと思った。大神殿の中で、あの時、生まれて初めてイルゼちゃんを怒らせた。そして、泣かせてしまった。今のイルゼちゃんも、瞳がひどく揺れていて、泣き出してしまいそうだ。……私は本当に、生まれ変わっても、何も変われない。思わず視線を足元へと落とした。

「……ごめんなさい。だけど、用が済んだら本当に、戻るつもりだったから」

「用って何? 私、何も聞いてない。何で私を置いて行くの?」

 その言葉を飲み込むのが一瞬遅れた。一拍置いて、私はまた顔を上げる。イルゼちゃんは私が村を出たこと自体を、責めていない気がした。イルゼちゃんが今、怒って、私を責めているのは。

「どうして、そんなに簡単に離れられるの? ずっと一緒に居ようって、何度も……」

 苦し気にそう呟くイルゼちゃんは、酷く傷付いた顔をしていて、私の胸の奥も軋むように痛んだ。記憶が無くても、もしかしたらイルゼちゃんにも前世の影響があるのかもしれない。だとしたら、『離れる』ことの怖さだって、なのかもしれない。

 ……離れたくない。イルゼちゃんと離れることは何よりも怖い。だけど、今は行かなきゃいけない。

「迷惑、掛けたくなかったの」

「そんな風に思うわけ無い」

「危ない目にも、遭うかもしれないし」

「一人の方がずっと危ないでしょ」

 その通りだと思って、黙ってしまった。大丈夫だと言い張るほどの度胸も無い。心配ないって認めてもらえるような言い訳は何も思い浮かばない。そう言える根拠は一つも無いのが事実で、いい加減な言葉でイルゼちゃんを煙に巻くことも出来ないと思った。小さく息を吸って、またイルゼちゃんを見上げる。多分今までで一番の勇気を出したと思う。私の目を見たイルゼちゃんも驚いた顔を見せたから、表情にも、それが出たんだろう。

「イルゼちゃん、私、本当に、用が済むまで、……ううん、もしかしたら私の気が済むまで、戻れない。連れ戻しに来たつもりなら帰ってほしい」

「フィオナ」

「だけど、もし、それでも良いって言うなら」

 一緒に。

 そう言おうとして、私は言葉を止めた。まるで前世と同じだと思ったから。何の役目でもないこんな旅に、イルゼちゃんを巻き込んで、もしものことがあったら、前世と同じ結末だ。私のせいでまた、イルゼちゃんを皆から奪ってしまう。続きを言えなくて黙ったら、イルゼちゃんの方が、先に決断してしまった。戸惑って揺れていた瞳はもうすっかりその様子を無くし、強い意志を込めて私を見ていた。

「それでも良い。フィオナが行くなら私も行く。離れるなんて絶対に嫌」

「……イルゼちゃん」

 さざ波のように襲う後悔と恐怖。その中に混じる喜びが、私を何処までも苛む。

「いつも、ごめんね」

 前世からずっと。今日に至るまでずっと。込めた想いは届きようも無い。届けようともしないくせに、謝ったことが、もう卑怯だと思えた。

 身体中を這い回る自己嫌悪に顔を上げられないでいたら、イルゼちゃんは徐に、長い腕で私を強く抱き締めた。そして大きく、息を吐く。

「居なくなって、生きた心地がしなかったよ。……何処も怪我、してないよね」

「うん、大丈夫だよ」

「無事で良かった……」

 腕の力は更に強まって、少し苦しい。だけど震えているイルゼちゃんの腕を感じたら、何も言えなかった。それに私も、どうしてもこの腕の中は、安心してしまう。村を出てからずっと纏わり付いていた言いようのない不安や焦燥が、剥がれ落ちて行くのを感じていた。

 イルゼちゃんは数分間、そのまま私を離してくれなかったけれど、私もそれを振り解こうとはしなかった。

「――えっと、それで、もう出るけど構わない、かな?」

 落ち着いた後、私が聞くとイルゼちゃんは迷わず頷いてくれた。ただ、旅の支度は一人分しかしていない。今はまだ市場も開いてない時間で、追加で補充することは難しい。けれど、出発をこれ以上、遅らせてしまうわけにもいかなくて、少し迷った末、そのまま町を出た。食糧なら、イルゼちゃんにほとんどあげてしまっても構わないと思ったからだ。剣士のイルゼちゃんと魔法使いの私なら、道中、彼女の運動量の方がずっと多くなる。

「次は何処に、……っていうかそもそも何処が目的地?」

 歩き始めたところでイルゼちゃんが問い掛けてきた。改めて、そんなことも話していない私に、付いてくると即決できるイルゼちゃんの度胸がすごいと思う。私の持っているような、なけなしの度胸が百個くらい重なっても敵わないと思った。

「まずは王都。その後は、……そこで会う人の都合によるかな」

「誰かと約束してるの?」

「ううん、ぶっつけ本番だね」

 そんな言葉を私の人生で扱う日が来るとは思っていなくて、ちょっと笑った。イルゼちゃんは怪訝な目を向けてくる。旅の目的地ではなく、目的そのものをイルゼちゃんが知りたがっているのは分かっていたけど、その部分は避けて、王都までの経路だけを簡単に口頭で伝えた。次の経由地になる町は明日の日暮れ頃に着く予定だから、一晩の野営が必要になる。

 前世は、王都までの道のりは此処まで大変じゃなかった。故郷が王都騎士を多く輩出していたこともあって、王都との移動手段はそれなりに整えられていたのだ。けれど今の私達の故郷は違う。王都との繋がりが全く無い。野営が何回か挟まるのは仕方が無かった。それでも、一人で向かう予定をしていただけに、安全で、出来るだけ野営の少ない経路を組んだつもり。今、歩いている場所も見通しのいい平原で、木陰から魔物が突然出てくるような心配は無い。

 そうは言っても、魔物は居るんだけど。進もうとしている方向に見える小さな影に、歩調が少し緩む。イルゼちゃんは私のその動作を見てから気付いたらしく、すぐに私の前に出た。まだ少し遠いけれど、このまま前を歩いてくれるつもりらしい。

 近付くにつれ、魔物も私達に気付いて、警戒するように動いている。イルゼちゃんは私を守る為か、魔物の間合いに至るより早く前に走った。威嚇するように強く魔物が吠えた声に、私の身体が反射的に強張る。でも今の私には、戦える術がある。……考えてみれば勇者の剣を持っていた前世にも手段はあったのだけど、それはそれとして。

 私は愛用の木の杖を右の腰に差したまま、逆の腰から短剣を抜いた。イルゼちゃんの剣から擦り抜けた一体が、此方に向かって走ってきている。すぐに気付いたイルゼちゃんは、それを追う為に振り返ったんだと思う。でも一瞬、短剣を持つ私の姿に目を見張っていた。

 魔物に向けていた短剣を、斬り付ける為には使わない。迫る魔物から目を逸らさず、私は切っ先を真っ直ぐに上空へと向けた。

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