第3話

 カーテンを少しだけ開き、夜空を照らす明るい月を見上げる。前世に見たそれとの違いは見付けられない。星を専門的に観測している人であれば、星の数が増えたとか減ったとか言うのだろうか。何にせよ私には分からないことだった。

 まだ、前世の記憶と今世の記憶の中で、私は少し混乱している。記憶が混濁しているわけではないので、戸惑っていると言うのが正しいかもしれない。十六歳の誕生日に思い出して、あの瞬間、『前世の記憶』だと確信したけれど、落ち着いて考えればそれは私のただの妄想かもしれないとも思う。私が持つ記憶が『前世』である証拠なんて、何処にもない。

 なんて。こんな考えはむしろ、自分の罪悪感から逃げたいだけの、言い訳なのかな。

「ん……フィオナ……」

 背後で布擦れの音がして、頼りない声が私を呼んだ。振り返ればイルゼちゃんが目を擦りながら枕から頭を上げてこっちを見ている。今日は十日に一度の、一緒に寝る日だったから、私の家にイルゼちゃんが泊まりに来ていた。物音は立てていなかったと思うのに、私の気配が離れて起きてしまったらしい。瞬きを繰り返しても全然その目は開いていなくて、申し訳ない気持ちはあったけれど可愛くて笑ってしまう。

「ごめんイルゼちゃん、起こしちゃった」

「ううん、平気。フィオナは、どうしたの。怖い夢でも、見た?」

 眠そうにしているのに、少しも不快そうにはしない。相変わらず私に甘いイルゼちゃんは心配そうな顔で、私の表情を窺ってくる。両腕を広げてくれるのに応じて、私は彼女の腕へと戻った。

「……そうだね、そう、怖い夢」

 夢であれば良かったのに。これがただの、私の妄想であれば良いのに。繰り返しそう考える。けれど私はどうしたってこれを『記憶』と認識してしまった。根拠なんて無いのに、私の中の何かがこれを記憶だと知っていて、記憶だと教えてくる。どうしても振り払うことが出来ない。

「その夢に、私は出てこなかった?」

 イルゼちゃんの問いに、私は一瞬、言葉に詰まった。だけどイルゼちゃんの手が小さな子を寝かし付けるみたいに私の背を優しく叩くと、身体からは自然と力が抜けていく。

「もう、覚えてないや」

「そっか……じゃあ、そのまま忘れて寝ちゃったらいいよ」

「うん」

 生まれ変わっても、私はこうしてイルゼちゃんと一緒に居て、前世以上に同じ時間を過ごしている。それをとても幸せだと思う。あの大神殿で願ったことを、きっと神様が叶えてくれたんだろう。そうじゃなくても、イルゼちゃんが生まれ変わる時に私を離さないでくれたのかも。イルゼちゃんなら、神様が相手でも勝ってしまいそうだ。

「怖い夢、よく見るの?」

 優しい声が再び問い掛けてきて、顔を上げる。まだイルゼちゃんの目は心配そうな色をしていた。

「時々、日中に眠そうにしてるからさ」

 思わず苦笑を零した。見付かっていたらしい。ふと、前世を思い出して眠れなくなるのは一度や二度じゃ無かった。当然、翌日はとても眠かった。素直に頷けば、イルゼちゃんが慰めるみたいに抱き締めてくれる。

「一緒じゃない夜が、心配だよ。大人になったら、毎日、一緒に寝ようね」

「ふふ、うん」

 私が笑うから、イルゼちゃんも笑った。親達に『大きくなったから』と言われ、一緒に寝なくなったのに、今よりもっと『大人になったら』私達は一緒に寝ようと約束している。その違和感が、いつも可笑しい。

 この世界の文化は前世から変わらず、同性婚は認められていない。だけど私達は大人になったら、二人の家を建てて、二人で住もうと約束していた。それは「結婚」とは厳密には違うけれど、私達にとっての「結婚」だった。

 前世同様、私達は「結婚する」と言って親達を困らせたことがある。唯一あの時と違ったのは、「出来ないんだよ」と教えられた私達が泣いて怒らなかったことだろうか。イルゼちゃんは「えー」と言ってから、「じゃあ誰ともしない」と言った。そして「結婚できなくてもいいからフィオナと一緒に居る」と言ってくれた。

 当時、親達はきっと子供の一時的な夢だと思っていたのだろうけれど、この年になっても私達がそのつもりでいる為、最近はもう諦めた顔をしている。私達の「結婚」は、何の制度も無い口約束だ。だけど「結婚」するみたいに、ずっと一緒に生きていく。そう決めていた。前世の記憶が無くても、私達は今も一緒に居て、一緒に生きていくことを望んだ。

 背を叩いてくれていた優しいリズムがゆっくりになり、少し待つと止まった。そっと見上げれば、イルゼちゃんは再び眠りに就いている。眠かったのに、私を寝かし付けようと頑張ってくれていたようだ。何度も起こしてしまわないようにと、私は腕の中から出ることは止めた。

 後悔をしていないとは、とても言えない。

 私の選択が、イルゼちゃんを無用に殺し、その未来を奪った。ダンさんにイルゼちゃんを宜しくと頼んだその口で、イルゼちゃんに一緒に死んでほしいと願った。イルゼちゃんのお父さんとお母さん。お兄ちゃん達。ダンさんも、ヨルさんも、サリアちゃんも。誰もイルゼちゃんを失う未来は知らなかったし、それは勇者の旅の結末でなくて良かったはずだ。なのに私の我儘一つで、奪い去った。

 それでも今、イルゼちゃんの腕の中に居られる幸せを手放せない。これが私という人間の醜さであり、弱さだと思う。『善』ではなかった。『悪』だったと思う。私がもう少し強かったら。あの時、一人でちゃんと勇者になれていたら。だけど、そうであったら今イルゼちゃんと一緒に居なかっただろうと思うと、時間を巻き戻せたとしてもきっと私は同じ選択をする。本当に、どうしようもない勇者だった。

 こんな後悔は今更だ。千年以上も前のことだ。謝罪すべき相手はもう誰も、何処にも居ない。居るのはイルゼちゃんだけ。でもイルゼちゃんは前世のことなんて、何も覚えていない。記憶を取り戻した後、一度だけイルゼちゃんにサリアちゃんを知っているか聞いたけど、全く覚えていなかった。真剣に悩んだ後で「童話かなんかに出てた子?」と呟いた。その反応に嘘は無かったと思う。私が知っていてイルゼちゃんが知らない人の名前だとしたら、本の登場人物が有力だという考えは正しくて、ちょっと笑った。

 とにかく私が今思い悩んでも、悔やんでも、何も変わらないのだから、もう忘れてしまえばいいものだ。分かっている。分かっているのに、何度、自分に言い聞かせても思考を消すことが叶わなかった。

 十六歳の誕生日に思い出し、それから毎日悩んで、悩んで、思い止まってはまた悩んで、二か月が経ったある日。私は夜の内に逃げるようにして、一人、この村を出た。


* * *


 一人きりのベッドで起きる時の、イルゼの朝は早い。

 フィオナと共に寝ていても目覚めは同じく早いけれど、彼女を抱いている場合は中々ベッドから出ない。フィオナの寝顔を眺め、彼女が起きるのを待つことが好きなのだ。しかし彼女の居ないベッドの中では、イルゼを留めるものは何も無い。空が白んで少しするとベッドを出て、顔を洗い、軽く剣の素振りをして、庭の小さな畑や花壇の手入れをして。汗を流した頃に両親が起きてくる。そして朝食を取り終えたら村にある大きな畑の手伝いに向かう――べきなのだが、その前にフィオナの顔を見に行く。それが彼女の毎朝のルーティーン。

 今日もそうだと思っていた。彼女はそのことを少しも疑っていなかった。汗を流したら両親が起きてきて、朝食の準備を手伝った。だけど彼女の大切なルーティーンは朝食の半ばで途切れた。

 慌ただしくイルゼの家に駆け込んできたフィオナの両親は、イルゼの顔を見ると安堵と絶望をない交ぜにしたような顔を浮かべた。走ってきたせいでまだ呼吸の整わないフィオナの母の横で、先に息を整えた父が、イルゼの肩を優しく掴んだ。

「フィオナを、知らないか」

「え?」

 ぽかんとしているイルゼの顔を見つめたままで、フィオナの父はイルゼに一つの封筒を差し出す。表には『イルゼちゃん』と、宛名が書いてあった。その手紙を開くより先に、フィオナの両親は語った。起きたらフィオナの姿が無かったこと。そして机の上には二つの封筒があり、一つが両親宛て。もう一つがこのイルゼ宛て。両親宛てに残された手紙には、村を出て行くと書いてあった。

「まさか、そんな……」

 イルゼの声は自然と震えた。慌てて手紙を開く手も、同じように震えていた。

 昨夜も夕食前まで一緒に居て、いつもと変わらずにおやすみを言い合ったはずだった。だから何も変わらずに毎日が続くはずだったのに。だけど、イルゼに宛てられた手紙は間違いなくフィオナの字で、はっきりと、村を出ると書いてあった。

『――少しの間、旅に出ます。突然のことで、驚かせて本当にごめんなさい』

 その一行目から、イルゼは何度も読み直した。間違いなくフィオナの字であると、彼女の両親以上にイルゼにはよく分かるのに、それでも、フィオナが書いたと思えないくらい、そこには強い意志があった。

『どうしても確かめたいことがあるの。それが終われば必ず村に戻って来るし、定期的に手紙も出します。だからどうか、心配しないで待っていて』

 イルゼは短い手紙に何度も何度も目を走らせた。どれだけ見つめても、その文字が形を変えることは無い。けれど彼女には文面を信じることが出来なかった。

『戻ったらまた、ずっと一緒に居ようね』

 締め括られた言葉には、自分に宛てられた確かに変わらない気持ちがあるはずなのに。

「……なんで?」

 思わず零した言葉。その声が深い悲しみに揺れている。

 ずっと一緒に居ようと、何度も約束した。毎日を共に過ごして、そう願う互いの気持ちや言葉を疑わなかった。フィオナが自らの意志で傍を離れてしまう未来なんて、イルゼはただの一度も思い描かなかった。だが、彼女が居ない、傍を離れて行ったという事実は目の前にあって、手が震え、身体が震えていた。

 イルゼの様子を見守った親達は、疑いようも無く、これはイルゼも何も知らなかったことなのだと理解した。

「とにかく、俺達は今から村の皆にも話を聞いてくる。誰か、あの子を見たって人が居るかもしれない。イルゼちゃんも、朝食を終えてからでいいから、出来れば手伝って――」

「いい、すぐ、行く、私も」

 フィオナの父の言葉半ばで、イルゼはそう言った。勢いよく首を振って、手紙を懐に仕舞う。フィオナが居ない。そんな状況で、ゆっくりと朝食を取れるわけがない。心配そうな顔を見せた親達だったが、イルゼが言って聞くと思えなかったのだろう。両親達とイルゼは手分けして、村の皆にフィオナを見なかったかを聞いて回った。何か一つでも彼女の足跡を見付けることは出来ないかと、休むこと無く駆けずり回った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る