第20話

 ダンさんが私の前から立ち退けば、隠れていたイルゼちゃんの姿が正面に見える。イルゼちゃんは目が合っても、それを足元に落としてしまって少しも動かなかったから、私の方からイルゼちゃんへと歩み寄った。足取りはやや頼りなく、ふら付いてしまった。光の陣の疲れがまだ残っている。その様子を心配そうに見るイルゼちゃんに向かって、大丈夫と告げるように私は軽く首を振った。

「最後まで、イルゼちゃんが一番、格好良かったね」

 笑顔で見上げると、ぎこちなかったけれどイルゼちゃんも笑みを返してくれた。だけど眉を下げて、私の目を直視しないような彼女は、先程まで魔王をも圧倒して勇敢に戦い抜いた戦士であるとは思えない。

「何も、言うこと、思い浮かばない。一緒に帰るって、思ってたから」

「……うん」

 瞬きをすると共に、また、イルゼちゃんの目からは涙が零れる。この結末で悲しむのは、誰よりもイルゼちゃんなのだと分かっている。私の為に此処まで戦ってくれていたのに、その結果がこれなのだから、私がイルゼちゃんにさせたことは本当に、ただただ残酷だ。なのにイルゼちゃんは今も私を責めようとしていない。剣を納めたイルゼちゃんは、両腕を伸ばして、強く私を抱き締めた。

「後悔は、してないよ。どうせ私が戦わなくたって、フィオナは此処に来ただろうから」

 まるで私の心を読んだかのようにイルゼちゃんはそう言った。剣を振るったこと。魔王を倒したこと。私の決断を『応援』したこと。イルゼちゃんが苦しんでいるのは、悲しんでいるのは、そんな選択のことではないのだと言ってくれた。温かな腕。優しい人。この胸の中にもう二度と戻って来ることは無いのだと知って、私も呼吸が難しくなる。泣いたら駄目だと必死に飲み込む。私が泣いてしまったら、きっと、皆がもっと辛くなる。今だけは、どれだけ臆病でも、泣いちゃいけない。

「何度でも言うけど、私はただの一度もフィオナを迷惑だなんて思ったこと無い。いつもフィオナの傍に居て、大好きで、それが本当に幸せだった」

 私を抱き締めるイルゼちゃんの声は泣いているから、私も溢れてしまいそうになる。力いっぱいに彼女の身体を抱き返した。

「ありがとう、イルゼちゃん、ずっと大好きだよ。どうか、元気で、……幸せでいてね」

 ゆっくりと身体を離して、間近に私を見つめる目を見つめ返す。いつもの優しさも含まれているけれど、悲しいって、それだけが伝わってくる瞳の色。

「フィオナが居ない世界が幸せだと思えるか、今は全然、自信が無いよ」

 手の平でイルゼちゃんの頬を撫で、涙を拭ってみるけれど、イルゼちゃんの眉は垂れ下がって、また新しい涙が沢山零れてしまった。

「みんなが居るから、きっと大丈夫だよ」

 懲りずにもう一度だけイルゼちゃんの涙を拭うと、名残惜しい気持ちを精いっぱいの気力で振り切って、私はイルゼちゃんから離れた。手放した温もり。同時に心臓が冷たくなる心地がしたけれど、一瞬目が合ったヨルさんが頷いたから、私も一つ頷いて、皆に背を向ける。最後まで導き手として務めてくださっているのだから、私も最後まで、いや、この最後の瞬間だけは、『勇者』で居なくちゃ。

 先程までイルゼちゃんと魔王が戦っていた祭壇はこの大神殿の中央、少し階段を上がった先にある。今まで登ったどんな階段よりも足が重く感じる上に、戦いの名残か幾つも足場は崩れている。最後の最後に転んで階段から落ちたと語り継がれてしまいたくはないから、慎重に上がっていく。その場所がもしかしたら損傷が一番酷かったかもしれない。足元には、勇者の紋と同じ模様が大きく描かれていたものの、床そのものが幾重にも傷付けられて欠けてしまっている。

 これでも封印の術が正しく動いてくれるのかと少し不安に思ったのも束の間。私が中央に立てば、床はぼんやりと輝き、勇者の紋がはっきりと浮かび上がった。私は勇者の剣を握り直して、皆を振り返るように正面を向く。後は、この剣を高く掲げて、最後の呪文を唱えるだけだ。

 ただ、それだけなのに。

 私の身体は動かない。自分の腕が冷たくて、自分のものじゃないみたいな感覚で持ち上がらない。

 死ぬのが怖い。死にたくない。唱えてしまったらどんな感じに死ぬのだろう。痛いのかな。苦しいのかな。熱いのかな。冷たいのかな。手が馬鹿みたいに震えていた。

 戦えなくても、この役目を果たす為、ただこの為だけに此処に来た、他には何も出来ない勇者なのに、その一つだけも、私は満足にこなせない。剣を掲げるべき腕が動かない。呪文を唱えるべき口から声が出てこない。

 どうして私はこうなの。

 上手く息が出来なくなってきて、苦しくて顔を上げたらイルゼちゃんと目が合った。イルゼちゃんはまだ泣いていた。まるで何処かに一人で置き去りにされた子供みたいな顔をしている。微かに唇が動いて、「フィオナ」と私の名前を呟いた。

 イルゼちゃん。私も唇だけで彼女の名前を呼ぶ。ぎゅっと強く目を閉じた。

 生まれた時からずっと一緒だった。私、本当に臆病で、あなたが居ないと何も出来ない。大きく息を吸い込んだら、喉が震えた。

「イルゼちゃーーーん!」

「フィオナ?」

「やっぱり怖いから一緒に居てくださーーーい!!」

 とんだ勇者も居たものだと、後世には酷い形で語り継がれてしまうのだろうと思う。もしかしたらあんまりに酷くて、ヨルさんの一族も私の代は無かったことにしてしまうかもしれない。当然、見やった皆は呆気に取られた顔をしていた。だけどイルゼちゃんだけは、驚いた顔をしたのは一瞬で、ぱっと表情を明るくして、笑った。

「あっはは! うん!」

 そして迷う様子なんて微塵も無く、大きく返事をすると、イルゼちゃんは私の方へと駆け出した。

「おい、イルゼ! お前……どういうことか分かってんのか!?」

 ダンさんは驚いた顔をしたままで、イルゼちゃんを呼び止める。その声に応じてイルゼちゃんは足を止めて振り返ったけれど、それは私の元へ来ることの躊躇いなんかじゃなかった。

「分かってるから行くんだよ!」

 声は大神殿に響くほど大きく、そこには、私がついさっき抱いていたような迷いや恐怖は欠片も無い。歴代の勇者はきっとこんな人達だったのだろうと思う。やっぱりイルゼちゃんの方が、ずっとずっと、最初から最後まで、勇者みたいだ。再び駆け出したイルゼちゃんを皆は引き止めない。イルゼちゃんももう足を止めたり、振り返ったりしない。真っ直ぐに駆け上がってくると、そのままの勢いで私を抱き締めた。もう二度と得られないだろうと思った温もりは一瞬前と何も変わらず優しくて、腕の中を覗き込み、間近で私を見つめたイルゼちゃんは、曇りなく微笑んでいた。

 一人きりでは怖くて務められなくて、一緒に死んでほしいなんて、無関係な一人を呼んだ前代未聞に我儘な勇者に向かって、それでもイルゼちゃんは、笑ってくれた。

 赤ん坊の頃の記憶が一つだけある。本当の記憶かは定かじゃないけれど、私はそれを『記憶』と認識している。おそらく私は一歳にも満たなかった。だからイルゼちゃんは二歳か三歳くらい。あの日、あの瞬間。私は初めて、イルゼちゃんの名前を呼んだ。と言っても、ちゃんと呼べたわけじゃない。「いー」とか、「いうー」とか、多分その程度の音だった。だけど私がイルゼちゃんを呼ぼうとして声を発したのは確かで、そしてイルゼちゃんもそれが分かったみたいで、目をきらきらさせて、嬉しくて堪らないって顔で笑っていた。

「――フィオナ」

 今、その時と同じ顔で、私を見つめている。

「ごめんなさい、イルゼちゃん、私やっぱり、一人じゃ何にも出来ない」

「それでいいよ、私が一緒に居るんだから」

 何度考えても少しも良くはない。けれどイルゼちゃんはこの言葉を、いつもと何も変わらない温度で繰り返し、むしろ今が幸せで仕方がないとでも言うように目尻を下げた。

「呼んでくれて、ずっと一緒に居させてくれて、ありがとう」

 それは私の言葉だと思った。視界が歪んでいく。絶対に泣かないと決めていたのに、この腕の中では私なんかのなけなしの強がりなんてすぐに掻き消されてしまう。私の目から涙が溢れ、ぼろぼろと零れ落ちていく。「一緒に居てくれてありがとう」と返したつもりだったけれど、真っ当な言葉になっていたかはもう分からない。イルゼちゃんが眉を下げて笑ったのは、今の言葉がちゃんと届いたからなのか、それとも言葉がめちゃくちゃだったのが可笑しかったからなのかも判断が付かない。でももう、どっちだって構わない。きっとイルゼちゃんには全部伝わっている。

「ほら、あんまり泣いたら、泣き顔の石像で千年残っちゃうよ?」

「そ、それは困る」

 イルゼちゃんの言葉に少し我に返って息を呑む。早く泣き止んで、早く封印もしなくちゃいけないのだった。慌てて涙を拭うと、両手で勇者の剣をしっかりと握り直した。

「持てる? フィオナ」

「うん」

 握った剣を、真っ直ぐ上に掲げる。もう二度と動かせないかもしれないと思ったのに、腕はもう震えていない。イルゼちゃんは私の身体を離さないようにと強く引き寄せて、剣を握る私の手へもう片方の手を伸ばした。

「イルゼちゃん」

「ん?」

「千年間、此処でずっと一緒だけど、それが終わった後、生まれ変わっても」

 私が言おうとしたことを理解したイルゼちゃんが、目尻を下げ、私のこめかみに、こつんと額を押し当てる。

「うん、離れない。必ず一緒に生まれ変わって、またずっと、一緒に居よう」

 私の手より一回り大きいイルゼちゃんの手が、勇者の剣を握っていた頼りない手に添えられる。その温もりを確かに感じながら、大きな声で最後の封印の言葉を叫ぶ。

 視界は真っ白に代わり、私はようやく、勇者の務めを果たした。

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