第10話
こんなに早い時間に――と言う私の小さな抗議は誰にも聞き入れられず、「ちゃんと休むように!」と、私に向けるにしては珍しい、厳しい表情でそう言ったイルゼちゃんに負け、昼食後にはもう部屋に押し込められてベッドに横になる。眠れないだろうと思っていたはずが、思った以上にすぐ私は眠り落ちた。自分で感じている以上にあの力を使って疲れていたのか、もしくは、無事に終わってほっとしていたのかもしれない。
お陰で、起きた頃には怠さなど残っておらず、すっかり疲れは取れていた。ただ、こういう場合の弊害は、夜に眠れなくなること。案の定この日の夜は、普段通りの就寝時間になっても私には全く眠気が訪れず、しばらくは同室で眠るイルゼちゃんとサリアちゃんを気遣ってベッドの中に閉じ籠っていたが、一時間が経過した辺りで諦めてそっと部屋を出た。
「勇者殿、お出掛けですか」
「あ……」
一階に降りると、通り掛かった宿のご主人から声を掛けられる。
「ちょっと眠れなくて、お散歩に」
深夜であるせいだろう、ご主人はやや心配そうに眉を下げた。けれど引き止めるのではなく、少し迷った顔をした後で、散歩に出るなら広場の方は避けるようにと教えてくれた。昼頃から催されていた魔物討伐を祝う宴で、まだ騒いでいる人達が居るらしい。お祝いの場なので悪いことではないけれど、酔っているから相手にするのは大変だという意味だ。そして西側の草原ならば比較的見通しも利くので安全だということも丁寧に教えてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ、お気を付けて」
強く止められることが無かったのは多分、今夜に限ってはまだ宴がやっていて、人通りもあるからだと思う。宿に面している通りにも、確かにまだちらほら歩いている人が居た。ただ、ほとんどの人からお酒の臭いがする。ご主人が提案してくれた通り、草原の方に行った方が良さそうだ。そそくさと村の西側に移動すると、すぐに広い草原が見えた。元々は家畜を放牧する為の場所なのかもしれない。今日までは魔物が周囲に
少し草原を進むと、視界は夜空と草原以外何も無くなる。遠くには森があって、山があるけど、夜だから全部が黒くって、夜空の一部みたい。静かで、自然豊かで、星いっぱいの夜空は、故郷を思い出させる。
休憩するのにお誂え向きの平たい石があったので、軽く手で払ってから腰掛けた。胸いっぱいに息を吸い込み、吐き出す。こんな穏やかな時間が此処にはあるのに、この世界にはもう魔王が居て、刻一刻と、人間の世界を穢れで侵しているらしい。今まで多くの魔物と遭遇してきたのに、この村へ来て、困っている人々を目の当たりにするまで、まるで他人事のようで実感が無かった。
携えてきた勇者の剣を膝の上に寝かせるように置いて、手の平でそっと撫でる。
「……どうして私だったの?」
問い掛けても、剣は何も答えてはくれない。
私のような者が選ばれてしまった理由は、ヨルさんから聞いた歴代の勇者達の話を反芻するほどに、分からなかった。あんなに立派な人達と自分が並べる点は一つも無い。
魔王を一刻も早く封印しなければならないのは、今回のことで更によく分かった。魔物がこれ以上増えたら、人間が生きていけないこと。そしてきっと弱い人間から順に犠牲になってしまうこと。戦えない私だからこそ、それがよく分かる。戦える人すらも自分の身を守ることが大変になっていったら、戦えない者を守っている余裕なんて残らない。今は戦える者が支え、守っているのだとしても、そんなことは長く続かない。魔王は絶対に、三か月以内に封印するべきだ。分かる、それはもう分かった。
だけど私は、勇者になんてなりたくなかった。特別な力も何も要らない。誰かを助けられるのは嬉しいけれど、結局こんな力があっても、人を助けるのは皆の力だ。私は勇敢になんて絶対になれない。怖くて仕方がない。本当はもう進みたくない。もう嫌だ、帰りたい。
なのに紋はどうしようもなく私の身体にあって、その事実が覆らない。だから私は行かなければいけなくて、逃げ出したら、この村の人達だってまた同じ苦しみを味わうことになる。でも、どうして、私じゃなきゃいけないの。同じ疑問に立ち戻る。私は両手で顔を覆って、深い溜息を吐いた。
「フィオナ」
「……イルゼちゃん?」
どれくらい、そうしていたのだろう。いつの間にか、イルゼちゃんが数歩離れたところで立っていた。
「あー、考え事の邪魔したかな、ごめん」
「ううん」
座る場所を少し移動して隣を空ければ、イルゼちゃんが腰掛ける。そして指先が徐に私の目尻に触れた。「泣いてるのかと思った」と心配そうに囁くから、「泣いてないよ」と、少しだけ強がって笑った。涙が流れていなかっただけで、多分、今、私は泣いていたのだと思う。
「どうして此処が分かったの?」
「宿のおじさんが、教えてくれたから」
先程、親切にこの場所を教えてくれた宿のご主人だ。成程、あの優しい人ならイルゼちゃんにも同じように言った可能性は高いし、私の連れだということを覚えていたのなら、私の行き先も話したかもしれない。そういえば私のことも『勇者殿』と呼んでいた。結局、あの人にも気を遣わせてしまったようだ。
「この間から、何か、考え込んでるのが心配でさ。体調とか、平気?」
「うん、身体は、もう全然」
今なんて眠れないくらい元気がある。やっぱり昼間に寝過ぎたせいだ。そのようなことを伝えれば、イルゼちゃんも笑っていた。眠らず迎える明日の体力については、明日の私に頑張ってもらうしかないだろう。
「じゃあ、元気無いのは、何でだろ。一度倒れちゃったから、勇者の力が怖くなった?」
私は首を振る。もしそうだったとしたら、今回、浄化に力を使う案は言い出さなかったと思う。思い付いても怖かったら言わなかった、というのが、私という臆病で卑怯な人間をよく表していた。
「魔王の封印が、少し、不安なだけ。……私、本当に、臆病だから」
端的に言えばそうだけれど、この言葉が全てではない。でも全てを伝えられなかった。イルゼちゃんを悲しませて、困らせてしまうと思ったから。だけど私が不安でいっぱいになっているのは分かったのか、イルゼちゃんは優しく私の頭を撫でた。
「何で、フィオナだったんだろうね」
私と全く同じ疑問をイルゼちゃんは呟いた。そして勇者の剣を見つめていた。答えてくれたらいいのに。だけど、もしもその答えを本当に剣が教えてくれたとして、私達はそれを納得できるのだろうか。多分、本当に納得が出来ないのは、選ばれた理由なんかじゃない。今此処にある事実。私が勇者の紋を持っているという、その結果なのだ。
「代わってあげたいよ。そしたら私が全部やっちゃうのに。フィオナに怖い思いなんて、少しもさせないでさ」
その声は少しだけ震えていた。この場で思い付いて告げるだけの慰めじゃなく、イルゼちゃんはもしかしたらこの旅が始まった時からずっと、そんな風に思ってくれていたのかもしれない。優しい人だから、私が怖がっていると思うだけで、胸を痛めてしまっていたのだろう。
「もうほとんど、イルゼちゃんがやってくれてるよ」
「そんなことないでしょ、私は戦ってるだけ。それはダンも、サリアも、ヨル爺もしてることだよ。だけどこの剣だけは、その力だけは、フィオナ以外には使えない」
抱き寄せてくれたイルゼちゃんの肩に額を預ける。私がする『怖い思い』は、歴代の勇者達に比べれば『それだけ』だ。更に多くを抱えても尚、歴代の勇者達は自分の足で立ち、迷うことなく魔王に向かって行ったのだろう。それが必要なことで、この世界を守ることで、人々を守ることであるならば厭わないと。
私だって皆のことを、どうでもいいと思うわけじゃない。助けられるなら助けたい。なのに怖い。私は自分の弱さが、途方もなく悲しかった。黙り込んだ私を抱く腕がその悲しみを感じ取ったかのように、少し力を強める。
「逃げても良いんだよ、フィオナ」
その言葉が齎した既視感に、私は目を見開いた。夕陽に染まった部屋の中、まるで懺悔するみたいに告げたヨルさんが脳裏に浮かぶ。
「もし逃げるなら、私も一緒に行く。絶対に私が、守ってあげる」
イルゼちゃんの言うことはヨルさんとはまるで色が違ったけれど、私に与える選択肢は同じものだ。驚きを隠すことが出来ず、慌てて顔を上げた。
「ヨルさんから、何か聞いたの?」
「え、ううん、ヨル爺が何?」
目を丸めているイルゼちゃんには何の含みも無い。彼女は彼女で考えて、ヨルさんが言うようなこととは無関係に、提案してくれたようだ。私が聞いたような、立派な勇者達のことをイルゼちゃんが何も知らないままであることを、少しだけ、ほっとした。
「……ううん、この間、ヨルさんも同じことを言ってたから」
「ヨル爺が?」
私の言葉を聞いて、イルゼちゃんも驚いている。私もあの時は同じように驚いた。ヨルさんは立場上、そんなことを言うのは許されないはずだ。しかし私があまりに弱いから、連れて行くことを辛いと感じてしまったのだろう。そのように話すと、イルゼちゃんは「えー」と、信じ切れていないみたいな戸惑いの相槌を打った。
「いちいち歴代の勇者がどうとかってフィオナにプレッシャー掛けるから『このクソジジイ』としか思ってなかったけど、まるきり悪いジジイでもないんだね」
「イルゼちゃん……」
そこまでヨルさんを悪く思っていたことは逆に知らなかった。ヨルさんの言うことは特に間違っていないし、確かにプレッシャーにはなっていたものの、酷く非難されたことは一度も無い。最初から全く悪い人ではなかったのに。しかしイルゼちゃんは「少なくとも良いジジイではない」と言い切ってしまった。……まあ少し、意地悪だったり、悪戯好きだったりは、するのだけど。
「もしかしたら、ヨルさんが国の騎士を連れて行くことに反対したの、このせいだったのかな」
「……ああ、なるほど」
王様は当初、路銀を出すだけではなく、戦力も支援してくれようとしていた。私がどう見ても戦えなさそうだったせいだとは思うけれど、護衛として王都の騎士達を付けることも提案してくれていたのだ。だけど私達が何かを言うより先にヨルさんが「勇者の力は例外なく絶大ですから、必要ありません」と勝手に断っていた。私達には後で「監視されるようなもんじゃ! 息苦しい!」と言っていたけれど、もしも最初から私にこの選択肢をくれるつもりだったのだとしたら、納得が出来ると思った。
「ヨル爺の『使命』ってのも、しんどいもんだね」
「うん……」
私と違って、ヨルさんやサリアちゃんの『使命』は生まれた時から背負うものだ。本当は、どれだけ名誉なことであろうと勇者が選ばれる代にはなりたくなかったのかもしれない。ただ語り継ぐだけの代であれば、今のような辛さをヨルさんが味わうことも無かったのだから。
「でも、本当にさ。進むにしても逃げるにしても、私はフィオナの決断を否定しない。応援するし、全力で手伝う。これからもずっと」
「……うん、ありがとう」
少し離してしまった身体を再び寄せたら、イルゼちゃんも当たり前みたいに抱き返してくれた。
私は本当に、情けなくしか思えないほどに臆病だ。この旅の中だけじゃなく、物心付いた頃から何度もそう思う。先へ進む勇気なんて到底持てなくて、なのに逃げ出す勇気だって、私には無い。だから最初から選択肢なんて、一つだけだった。
ただせめて、私が最後まで務めることが出来たら、――どうか皆に、『許してほしい』と思った。
戦えなくて怖がりで、何も出来ない、歴史上で最も駄目な勇者として私が選ばれてしまったことを、許してほしい。この旅で私がどんなに頑張ったところで褒めるところなんてきっと一つも無いだろうから、こんな望みすら贅沢だと思われるかもしれないけれど。私はただ一つ、それだけを願うことにした。
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