第7話
呑気な紆余曲折を経て辿り着いた三つ目の祠は、少し標高の高い山を登った先にあった。イルゼちゃんは素直にダンさんの提案を聞き入れ、私の守りを他の仲間に任せることが増えたし、道中は前よりもいいペースで進んでいたと思う。ただ、山を登るという、私のようなひ弱な人間にとっては過酷な道程であったことと、標高によってほんの少しであれ空気が薄かったことも、負担だったのかもしれない。
皆は平気そうな顔のままで、滞りなく今回も魔物を制圧して私を祭壇まで連れて行ってくれたのに、封印を施すと同時に私は酷い眩暈を起こして、そのまま倒れてしまった。
「フィオナ!」
くるくる落ちていく意識の中で何度もイルゼちゃんが私を呼んでいる声が聞こえた。返事をしなきゃと思うのに、声にならない。泣いているみたいに聞こえる。イルゼちゃん。心配させてごめんね、大丈夫だよ。根拠も無くそう思いながら、だけど結局それを口に出すことは出来ないままに、私は意識を手放した。
目覚めたら、見覚えの無い部屋の中でベッドに横たわっていた。壁は夕陽の色に染まっている。倒れた時はまだ午後に差し掛かったばかりだったはずだから、随分と時間が経ってしまったようだ。
「……おお、フィオナ殿、お目覚めかな」
ぼんやりしているとヨルさんの声が聞こえて、視線を動かす。ヨルさんはベッド脇の椅子に腰掛けていた。他には誰も居ないみたい。ずっと付いていてくれたのだろうか。
「気分はどうかね?」
「大丈夫、です。此処は……?」
声を出してみればやや掠れてしまって、私は何度か咳をした。ヨルさんはそれが落ち着くのをじっと待ってからゆっくりと頷く。
「祠から一番近い街の宿じゃよ。皆は今、買い物に出ておる」
私が倒れてしまった後、ダンさんとイルゼちゃんが交代で私を背負いながら山を下りて、街まで連れてきてくれたらしい。ただでさえお荷物なのに、本当の荷物になってしまったようだ。戻ってきたら二人にも誠心誠意、謝罪しよう。
ヨルさんが言うには、私は勇者の力の影響で倒れてしまったらしい。今まで私の中に全く無かった力であるせいで、身体がまだその扱いに慣れておらず、少なからず私の精神力や体力を変に奪ってしまっている状態なのだとか。例えるなら、新しい靴を履くと慣れるまでの間、足が疲れやすいのと似たようなものだと説明された。分かるような、分からないような。元々身体を動かす活発な人向けの例えだと思ったものの、重ねて呆れさせてしまう気がして飲み込んだ。
「皆が戻るまでもう少し眠るかね」
「いいえ、もう、大丈夫、です」
起き上がろうとしたら身体はいつもよりずっと重く感じた。けれど、ヨルさんにも、これから戻る仲間にも、これ以上の迷惑は掛けたくない。しかし苦戦したところをヨルさんに見止められ、彼は優しく私の肩に手を添えて、その動きを止めた。
「無理に起きなさんな、そのままで良い」
「でも」
「……じっとしとることが心苦しいのなら、そうじゃな、少し、じじいの話でも聞いてくれるかね」
だから寝たままで良いのだと改めてヨルさんが促すから、私は大人しく身体を横たえた。優しくて静かなヨルさんの声をこの体勢で聞くことは、結局は眠りに誘うつもりではないかと思ったけれど、ヨルさんには何か話したいことがあるようにも思えた。
「祠はあと二つ、順調じゃな」
「順調、ですか」
「そうは思えんか?」
可笑しそうにヨルさんはそう言うが、比較対象の無い私には何とも判断が出来ない。戦えない私のせいで皆の負担は大きい。イルゼちゃんのお陰で前には進んでいるものの、それが完全に私という負債を相殺できているのかは、やはり分からない。柔らかい表現でそれを伝えると、ヨルさんは「なるほど」と言ってのんびりと頷く。
「わしの知る歴史の中では順調じゃ、心配ない」
その言葉は私を安心させてくれたけれど、窓から差し込む夕陽に目を細めているヨルさんは、眩しいだけじゃない感情をその瞳に込めたように見えた。順調であることはヨルさんにとって嬉しいことだろうと思うのに、どちらかと言えば、悲しいような、寂しいような表情だった。
「ヨルさん、何か、心配事がありますか?」
「……ふむ」
私の言葉に少しヨルさんは意外そうな顔をする。身体と同じく心まで鈍そうに見えていたのだと知って小さくショックを受けた。自慢じゃないが人の顔色を窺って怯えながら生きてきたので、そういうことはきちんと読み取れる方だと思っている。本当に自慢じゃないけれど。
ヨルさんはしばらく俯き加減で沈黙したものの、ゆっくりとした瞬きの後で、徐に語り始めた。
「『使命』というものははっきりしておるのに、『善』というものはいつでも曖昧なものじゃ」
感情の薄い声だったのに、部屋の中がしっとりと重くなったように感じる。ヨルさんの心の状態が外に漏れ出し、顕現したみたいだと思った。真っ白の眉が、悲しげに垂れ下がる。
「お主のようなか弱い少女を勇者として導くこと、それがわしには『悪』に思えてくる」
「ヨルさん……」
優しい人だ。私が今回倒れてしまったから余計に、こんな風に思わせてしまったのかもしれない。だけどこの旅を根本から『悪』とまで言うのは私には分からない。この旅は、どうしようもなくて、逃れられないものであるはずだ。
「……でもこれは、紋を持った人の」
「そうじゃ、それが勇者として選ばれた者の『使命』。わしがそれを導くこともまた『使命』じゃ。……しかし、使命を務めることは本当に全て『善』なのじゃろうか」
ヨルさんが私を勇者であるようにと選んだわけでもないのに、彼は大きな罪悪感を胸に抱えてしまっていた。私は掛ける言葉が何も思い浮かばない。もしも私がもっと、心も身体も強くて、何も心配要らない、使命なんて重くないと言い切れるような人だったら、ヨルさんの心をもっと軽くしてあげられたのだと思う。
でも、とてもじゃないけれど私にはそんな風に思えないし、強がりでも言えると思えなかった。
「わしはもうこんな歳じゃ。自らの使命に抗うほどの胆力は持っておらぬ。じゃが、フィオナ殿、もしも使命を心から恐れ、憂えるのなら」
ヨルさんは一度そこで言葉を止めて沈黙を落とすと、少し迷ってから、私の目を見つめた。
「逃げることもまた、一つの選択肢なんじゃと知っておいてほしい」
彼の言葉に、私は目を見開く。そんな選択肢を、他でもないヨルさんが私の前に出すとは思わなかった。
「だけど、そうしたら」
ヨルさんは他の誰よりも、魔王を放置することによる悪影響は知っているはずだ。魔物が世界を覆ってしまう。人間が生きていけない世界に変わってしまう。私が続けようとしたことなど、当然、ヨルさんは分かっている。何度も頷いていた。
「それでも選択肢として、最後まで持っておいておくれ。これはじじいが罪悪感から逃げる為の、ずるい言葉なんじゃよ」
頷くことは出来なかったけれど、そんな選択肢は必要ないと振り払う強さも、私には無い。
「勇者とはいつの時代も、『勇敢』である者を称え、そう呼んできた。フィオナ殿も、例外ではない。もし今がそうでないのだとしても、そうならなければ最後まで務めることは難しい」
ヨルさんがこの選択肢を与えてくれようとした理由が、この言葉なのだと思った。私が臆病で、弱いから。誤魔化しながら進んだって、もしかしたらやり遂げられない。その懸念が、彼の中にはあるのだ。
「……勇敢なる者達の話をしよう。皆が戻るまではまだ、少し時間があるようじゃから」
夕陽の赤を眺めながら、ヨルさんは歴代の勇者達の話をしてくれた。私とはまるで違い、紋を受けたその時から既に勇敢だった人達。自らの運命を嘆くことなく、前を向いて歩き、戦い抜いた人達の話を。
ヨルさんが全てを話し終える頃には、彼が私に『逃げる』という選択肢を与えようとしてくれた理由が、聞く前以上に、よく分かった。本当に、勇敢な人達だったんだ。私に同じことが本当に出来るかな。最低限だけでもと思っていたけれど、その最低限すらも、私には届かない気がしていた。もしこの時、もうすぐイルゼちゃん達が帰ってくるのだという意識が無ければ、不安に圧し潰されて泣いてしまっていたかもしれない。
静かになった部屋に、ざわざわとした三人の話し声が近付き、扉が開かれる音がした。ようやく無理なく身体を起こせて、座ったところだった。
「あ、フィオナちゃん起きてるー」
「え!?」
最初に聞こえたのはサリアちゃんの声で、次に、驚いた様子のイルゼちゃんの声が響く。同時に何かどさどさと物が落ちる音も聞こえてきた。
「おいおい、イルゼ、荷物を放るなよ」
まだ廊下の奥に居るらしいダンさんの呆れた声が続いて、先程の物音の正体を知った。
「フィオナ!」
先に入って扉付近に居たサリアちゃんを押し退けるようにイルゼちゃんが飛び込んでくる。ヨルさんはベッド脇に居ると危ないと察知していたのか、皆の気配がしてすぐにそこを離れていた。案の定、ヨルさんがまだそこに居たら突き飛ばすだろう位置へとイルゼちゃんが滑り込んだ。
「何処か痛い? 苦しい?」
「だ、大丈夫だよ、ごめんね、運ばせちゃったみたいで」
思った以上の勢いで心配されて少し仰け反る。私の返答に、ようやくほっとした顔をしたイルゼちゃんは、優しく私を抱き締めた。
「いいよそんなこと。フィオナが無事で、本当に良かった……」
少し声が震えていて、本当に心配を掛けてしまったのだと実感する。抱き締めてくれているイルゼちゃんの背を、私も慰めるみたいに撫でた。
「でも少し顔色、悪いかな。食欲は?」
「うーん、あんまり……」
心配は掛けたくなかったものの、正直に答えた。無理に食べて具合が悪くなったら尚更、大騒ぎになると思ったから。でもこの言葉だけでも、イルゼちゃんは眉で綺麗なハの字を描いた。
「とりあえず何か飲もう、きっと喉は渇いてるよ。それから、少し落ち着いてからでもいいから、フィオナの好きな果物も見付けてきたんだ、それだけでもさ」
私を案じて一生懸命にそう語り掛けてくれるイルゼちゃんを、何だか今は直視するのが苦しい。思わず落としてしまった視線がイルゼちゃんに見付かって、彼女は息を呑むように一瞬黙った。
「フィオナ……」
悲しそうなイルゼちゃんの声に、視線を落としてしまったことを自覚してはっとした。心配をさせたいわけじゃなかったはずだと、改めて自分を心の中で叱咤してから、私は笑顔で顔を上げる。
「ごめん、そうだね、少しでも食べなくちゃね」
目が合うと、イルゼちゃんは嬉しそうに何度か頷く。けれど彼女がくるりと振り返ってダンさんに向けた声は、急にトーンが下がった。
「ダン、ちょっと水持ってきて」
「俺は今お前の分の荷物も持ってるんだが!?」
ダンさんは先程イルゼちゃんが廊下に放り投げたらしい荷物もまとめて運び入れていたのに、人使いの荒さに抗議の声を上げている。隣で荷物を整理してくれていたサリアちゃんが、お腹を抱えて笑っていた。そんなに笑うところかな。ちょっと可哀想だったと思うけれど。
「ううん、大丈夫だよイルゼちゃん。私、自分で」
「いやいや、わしが持って来よう、フィオナ殿はもう少しゆっくりしていなさい」
ベッドから出ようとした私をイルゼちゃんが慌てて制止すると同時に、ヨルさんはそう言って部屋を出て行った。その背中はいつもより幾らか小さく見えたけれど、他の誰も、それに気付く様子は無かった。
その日の夜、結局あまり食欲は無かったものの、イルゼちゃんが見付けてきてくれた果物と、少しだけのお野菜、それからイルゼちゃんにどうしてもと言われて差し出されたお肉を、何とか一口分だけ食べた。
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