さよなら風たちの日々 第11章ー10 (連載41)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第41話


               【19】


 男が浮気されたとき、男は女を恨む。女が浮気されたとき、女はやはり

女を恨む。

 ぼくは、ぼくとヒロミのあいだに、男が入ってきたと思った。しかし現実はヒロミとあの男のあいだに、ぼくが割り込んだのだ。

「このお腹の中に、あの人の赤ちゃんがいるんです」

 この言葉がぼくの耳を直撃したとき、ぼくの思考回路は真っ白になった。音のない世界で何かが炸裂し、その閃光で何も見えなくなった状態と言っていい。目はいたずらに宙を泳いでいる。しかし何も見てはいない。いや、何も見えさえしないのだ。

 ヒロミ。おまえが眩しいよ。眩しすぎて、おまえが見えないよ。

 これはおまえの復讐なのかい。おまえの気持ちに何ひとつ応えようとしないぼくに対する、当てつけなにかい。

 ぼくは後悔している。たくさん失敗をしたけれど、その中でも、ぼくの家でおまえに「もう来るな」と言ってしまったことが、ぼくの最大の失敗だったよ。

 ぼくはあのとき、どんなに落ち込んでいても、おまえを優しく抱き寄せればよかったんだ。おまえの長い髪を指ですいて、おまえの心の準備を確かめてから、ぼくはおまえの唇に自分のの唇を重ねるべきだったんだ。

 心を落ち着かせようとコップの水を飲んだ。すると左脚が小刻みに震え出した。それを押さえようと力を込めると、今度はその脚は、細かく床を鳴らし続けた。

テーブルに置いたコップから水がこぼれた。その水はテーブルの上で散華する。


 ぼくが一番知りたくないこと。そしてヒロミが一番答えたくないこと。

 ぼくはついに、その言葉を口にした。

「愛しているのか。あの男のことを」

 するとヒロミの顔が、体育館で見せた、あのときの顔になった。

 目をうるませ、絶対負けまいとしてぼくを見据え、下唇を突き出して涙と格闘する、あの顔を見せていた。

 言ってほしかった。あんな男、何とも思ってませんって。愛してなんか、いません。あの男に幸せにしてほしいなんて、これっぽっちも思ってませんって。すべてはポールに対する当てつけで、ほんとうはポールを困らせるための作戦なんだって。ヤキモチを焼かせて振り向かせるための、恋愛テクニックなんだって。


 沈黙があった。長い沈黙だった。ぼくたちのあいだに、また沈黙が続いたのだ。けれど今回のの沈黙は、ぼくの目の前で唇を噛みしめているヒロミの心のすべてだった。

 愛してるか、という質問。うつむいたまま、それを否定しないことが、ヒロミの心のすべてなのだ。

 ぼくはこの恋に負けたのだ。最後の最後で、ぼくはこの恋に破れてしまったのだ。

 でも、結婚おめでとうなんて、言えなかった。いつまでもお幸せになんて、口が裂けても言えやしないのだ。


 ふと脳裏によみがえってきた言葉がある。あの晩秋の上野公園。

 ヒロミは最後に、大粒の涙をあふれさせながら、こうは言わなかっただろうか。

「先輩殿。わたし、待ってますからね。ずうっと待ってますからね」

 ヒロミ。あの日あのときの言葉は、ウソだったのかい。その場限りの、その場を取り繕うだけの、思いつきの言葉だったのかい。

 ヒロミ。ぼくはあの日のまがまがしいまでの夕陽と、おまえの涙を忘れることはなかったよ。夕陽を見ているふりをしてぼくは、視線の横でおまえの涙を見ていたんだ。だけど今、あのときの涙や言葉がウソだったんだろうって、おまえを責めるつもりはない。人の心はうつろいやすいものだし、だいいちそれはぼくが「待っててくれ」って言ったわけじゃなかったんだから。

 ぼくはヒロミに、幸せにするからとか、大事にするから、愛してるからなんて、一度たりとも言ったことはなかった。

 だからそれを言葉で伝えた、あの男に負けたんだ。

 それがぼくの痛恨の極みだった。


               【20】

 ぼくはみずから、この恋にピリオドを打たねばならないと思った。

 その決心を伝えるため、ぼくはそれを声にしてヒロミに伝えた。

 「分かった。おれ、もう、ここに来ないから」

 ぼくはそれだけ言うと、ヘルメットを手にして外に出た。

 店の横に、愛車が停まっていた。ぼくの相棒、400cc単気筒のオートバイだ    エンジンをかけた。ヘルメットをかぶった。するとヒロミが店から出てきた。

 ぼくは静かに手のひらを上にして、右手を出した。

 ひろみはうつむいたまま、その手に自分の手を重ねてきた。ぼくはその手に、もう片方の手を重ねてた。するとヒロミも、ぼくと同じようにもう片方の手を重ねてくる。小さい手だった。柔らかい手だった。そして愛しくて、愛しくてたまらない手だった。

 涙がこみあげてきた。不覚の涙だ。

 さんざんヒロミを泣かせ続けていたぼくが、ヒロミに初めて見せた涙だ。

「好きだったよ。初めて会った、あのときから」

 それだけ言おうと思った。たったそれだけの言葉なのに、それを口に出そうとすると、それは嗚咽になった。それは決して言葉にならなくて、おう、おう、おう、と声に出す犬の悲しそうな鳴き声に近かった。

 何度も声がしゃくり上がってくる。でもこれだけは言いたかった。

「初めて会ったときから、好きだったよ」。

 でもそれを言おうとすればするほど、それは犬の鳴き声のような嗚咽になった。

 ヒロミは目をうるませたまま、静かに首を横に振り続けている。この仕草は、今さら遅いです、手遅れです。とでもいう意味なのだろうか。それとも、分かってます、だからそれ以上言わないで、という意味なのだろうか。


 ヒロミ。ぼくたちはずうっと、ボタンの掛け違いをしてきたよね。あの日、校門の前で信二の手紙を渡したときから、ぼくたちはいつもすれ違ってばかりいたよね。

晩秋の上野公園のときも、ぼくの家でふたりきりでいたときも、ぼくたちはいつだって、ボタンの掛け違いばかりしていたんだ。そしてそのボタンの掛け違いは最後の最まで、元に戻ることはなかった。その結果が、この現実だ。


 ぼくはヒロミと手と重ね合い、しばしそうしたあと、

「ダメになったら、おれんとこ来いや」

「おまえがどこにいても、迎えに行くから」とだけ言って静かに手を離した。

これが最後の最後まで、高みでいたかったぼくの強がりだった。捨て台詞だった。

 ヘルメットのシールドを下ろし、エンジンを空ぶかしする。そのあとクラッチを握り、ギアを入れて静かにアクセルを開く。するとオートバイがゆっくり動きだす。

 夜空を見上げた。空は一面、厚い雲に覆われていた。

 雨になれ。雨になって、すべてを洗い流してしまえ。ヒロミの思い出も記憶も、出来事も。そしてぼくの涙も。

 走り出したオートバイのミラーに、ヒロミの姿が小さく映っていた。偏頭痛を抑えるような敬礼をして、ヒロミが遠ざかっていた。そしてやがてその姿は夜のとばりに吸い込まれてしまって見えなくなった。

 ぼくはオートバイを走らせた。そしてオートバイという相棒に語りかけた。

 おい、相棒よ。ヒロミとの関係は終わったけれど、おれたちの『風たちの日々』はまだまだ続くんだ。これからも、ずうっと、ずうっと続くんだよ。





                           《この物語 続きます》





 

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