現実相対
私の片耳は貴志を繋ぐコール音が聞こえて反対側の耳から聞こえる浴室のお湯を溜める音と合唱している。
コールして十数秒、スマホ画面に映る貴志の二文字を凝視しながらベッドに座る私はまるで試験結果を待つ受験生のような気持ちだ。
十秒間は心臓の鼓動がうるさかった。
二十秒目から見開いていた目がゆっくりと閉じていき、三十秒経つとため息を漏らした。そのまま静かに電話を閉じるマークをタップする。
鳴り響いていたコール音は一瞬で音を失い、お風呂場のお湯の音だけが取り残された。
そのまま事務的にスマホのホームボタンを押して戻ると激しく落ち込んで再びベッドに寝転がった。
嗚呼、馬鹿だな。
こんな夜中に電話したって貴志も寝ているのに迷惑なだけじゃないか。
朝、私の着信履歴を見たら、貴志はただでさえ仕事で疲れているのに面倒くさい女だって思うかもしれない。それからもう二度と関わりたくないって思うかもしれない。
それともなんとも思わないのだろうか。
朝、私の着信履歴を確認した貴志は事務的に戻るボタンを押して私のことなんて忘れて仕事に就くのだろうか。
もう私のことなんて何とも思っていない貴志を想像すると目から涙が溜まってきた。
泣いたって意味ないのに…
敷布団に両目を擦り付けて涙を消す。
私の顔に残ったのは真っ赤な鼻とちょっと充血した白目だった。
馬鹿みたい、当たり前なのに。
でも当たり前じゃない。傷つくのが恐かったの。
上手く言葉で伝えられなかっただけなの。察してよ。
私の気持ちを繋げてよ、貴志。
ベッドから起き上がった私はお風呂場に向かってお湯の状態を確かめに行った。
もう十分に満たされているのを確認すると蛇口を捻ってお湯を止める。
ひとまず、明日も早いからお風呂に入らなければならない。
お風呂場の中で私は貴志のことを考えていた。
店で偶然、再会した時の貴志、初めて個人で連絡を取り合った時の貴志、一対一で居酒屋に行った時の貴志、私に告白した貴志、デイビッドを受け入れてくれた貴志…傷つく前の綺麗な思い出たちを美しく盛って思い出すと寂しさが紛れた気になった。
お湯に浸かりながら楽しかった記憶を再生すると口元が緩んだ。
楽しかった記憶は思い出しても楽しいのだ。
そのまま熱った体を冷ますために湯船から上がるとシャンプーをして体を洗った。
一通り終えて浴室を出るとバスタオルで髪と体を順番に拭いていく。
パジャマに袖を通してズボンを履いていると奥の部屋から音が聞こえた。
体の動きを止めて静かに耳を澄ます。
私を呼び出すコール音がこんな夜中に…
これって…
「ちょっと待って!」
声を上げた私はパジャマのズボンに半分脚を入れた状態のままスマホが置かれたベッドに直行する。
ベッドの上で機械的なコール音を鳴らしているスマホは画面を鮮やかに照らしていた。慌てて近寄る私の視界に貴志の二文字が見えた。
貴志だ!
私の瞳はこれ以上、開かないってくらい大きく開いていた。
貴志の二文字が表示されたスマホを奪うと通話ボタンを押す。
「もしもし!」
勢いよく声を上げたが向こうは数秒間、何も応えることなく沈黙だった。
その数秒間で私は思い出す。
あ、やばい…貴志は私から電話が来ていたから折り返しただけなんだ…ってことは、私から先に電話した理由を言うのが通話マナーなのではないか…?
いや、待てよ。いきなり理由を話すなんてコミニケーションの入り口としておかしい気が…そこはまず貴志の仕事の様子とかを聞いてから、ゆっくりと本題に入るのが恋愛上手のお決まりスタイルなのではないか…
「もしもし、俺。」
目まぐるしく稼働する脳みその片隅で貴志の言葉が伝達された。
私の脳みそは激しく動揺して数秒間で考えていた内容は全て吹っ飛び、返せた内容は、「あ、うん。」の二言だった。
「久しぶり。仕事、忙しい?」
挙動不審な私と相反するように貴志の声は落ち着いている。
「うん。貴志の方は?」
「俺も忙しいよ。でもこれから来る年末年始の方が忙しいかな。」
「あ、そっか…帰りとか結構、遅いの?」
「うん。年末年始は帰れない日もあるかな。」
帰れない日⁉︎
貴志の言葉に目玉が飛び出そうになる。
私の仕事もクリスマス前後は激務だけど帰れない日は流石に存在しない。
毎日、家に帰って自宅のお風呂に入ることが出来ている。
貴志はこれからそんな忙しい日々が待っているというのに呑気に電話している自分が急に恥ずかしく思えてきた。
こんな忙しい日々を前にして私のためにあれこれと働いて、それを拒絶されて、そのまま激務についた貴志を思うと胸が痛くなる。
それはきっと相手が貴志だからであって、貴志じゃなければこんな気持ちは芽生えていなかった。
「あのさ。」
私の言葉に貴志が素早く、うん。と返した。
言いたいことは言った方がいい。
当たり前のそれが私には恐かった。だってそれは時には自分を傷つけるから。
相手の言葉は予測不能でコントロール不可能だ。それは痛くて痛くて仕方がない。
痛くて痛くて、でもそれでも言いたいの。恋愛感情が勝っている証だ。
私の脳みそは麻痺して貴志を求めている。
イタみをチャージしたい。貴志をチャージしたい。
「会いたい。貴志が休みの日、会いたい。」
イッテシマッタ……
貴志に想いを告げる私の瞳は意味もなく涙とは思えない謎の膜で覆われていた。涙にしては薄くて、でも私の瞳はそれでさらに潤っている。
人間は好きな人に告白すると生理現象でこうなるのかもしれない。
私が頭の中で何度も勇気づけて放った言葉を貴志は情緒を微塵も感じさせないスピードで、うん。と即答した。
早い…返答を待つ緊張感は一秒たりとも与えられなかった。
その割にそのあとに続ける言葉は中々もらえず、ちょっとした沈黙が生まれた。
貴志の表情はいつも読めないけれど電話越しの貴志もいつも通り心が読めない。ようやく貴志が言葉を発した時、私は飼い主に待てをされている犬の気持ちが理解できた。犬は毎日こんな気持ちなのか…
「俺も会いたいよ。ずっとそう思っていたよ。」
私の瞳を覆った膜が貴志の言葉でさらに分厚くなる。さっきまで痛がっていた私の胸は熱いものでずっしりと重くなっていて同時に頭の中は軽くなっていた。
「うん。今度、会おう。」
お風呂上がりの濡れた髪とか半分しか脚が入っていないパジャマのズボンとか全てがどうでもよくなっていて、今、私の後ろには無数のピンク色のハート形風船が飛んでいる。
飛んでいるの。頭の中では貴志がくれた薔薇の花がキラキラと輝いている。
私は無事に貴志をチャージ出来た。
私は今、貴志で満たされている。
嗚呼、何なんだ。どうしてだろう。
私の目には涙が溢れていた。
涙がポロポロと溢れてわんわん泣いている。
どうしてだろう。どうして私は泣いているのだろう。
ただ好きな気持ちが伝わっただけのことなのにどうしてこんなにも涙が止まらないのだろう。
ただ、貴志に気持ちを伝えるまでの間は苦しかったの。
貴志を好きになりたくなかった時の私はすごく苦しかった。
認めないようにすればするほど苦しかった。
心と体が正反対に走っていて痛かった。
貴志と会うたびに昔の古傷がえぐられたように痛かった。
痛かった。
痛かったよ、貴志ぃ…
「貴志、いっぱい傷つけてごめんねぇ…」
鼻をずびずび啜りながら涙声で話す私を貴志は静かに聞いていた。
何故、泣いているのか。
例え、それが分からなくても聞かないあなたが好き。
聞かないのに聞いているあなたが好き。
そんな私に貴志は明朗に、
「恋愛に傷はつきものさ!痛みがあるほど幸せになれるんだ。」と笑う。
「里保ちゃんだっていっぱい傷ついたことあるでしょう?…俺と一緒に幸せになろうよ。イタいカップルになろうよ。イタいぐらい二人だけ幸せになって痛みなんて無かったことにしよう。」
貴志の声は真剣だった。
彼は今、真剣にバカップルへの道を誘っていた。
私は彼が歩いている道について行くしかない。
ついて行くしかない!
過去なんて馬鹿馬鹿しいくらい振り切って愛し合うしかないの!
貴志は私の愚痴を聞いて、私は貴志の魚への情熱を聞いて、永遠に消えない愛の弱火は美味しい出汁を作り上げる。
それで二人だけで美味しいねなんて言っていたらきっと誰かが集まってくる。
愉快な幸せを痛みがあってもチャージし続ける。
だって今までだってずっとそうしてきた!
ただ、唯一変わらないことは今の方が幸せだってことだ。
今が私にとって最上の幸せだ。
この幸せは脳内で創り上げることは不可能だ。
「貴志とイタみチャージする!」
私は泣き笑いしていた。
涙の跡を残しながら目を真っ赤に充血させながら幸福に満ちた顔で笑っていただろう。
貴志も笑っていることは電話越しでも分かった。何故か分かった。
私達が今、同じ幸福の中にいることが何故か分かった。
「ところでさ…」
幸福に満ちた中で貴志が申し訳なさそうに口を開く。
「なに?」
私が尋ねると貴志は遠慮がちに言った。
「俺、デイビッドみたいのは毎回できないや。」
デイビッド…
貴志の口から出た言葉で彼を思い出した。
完全に忘れていた訳ではない。
デイビッドと過ごした日々も私にとっては素敵な思い出の一つだ。
ありがとう、デイビッド。
ありがとう、貴志。
大好きでした、デイビッド。
今はあなたが好きだ。
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