凌駕宣言

 貴志から連絡が来たのは翌日のことだった。

三日振りにスマホ画面に表示された貴志の名前を職場のバックヤードで見る私はその文章を凝視して固まっていた。

 里保ちゃん、久しぶり。連絡遅くなってごめんね。この三日間、考えていたことがありました。今度、そのことについて里保ちゃんと話がしたいと思っています。いつなら予定空いてる?


貴志のメッセージを読み終えると電源ボタンを押してスマホ画面を暗くした私は頭を抱えた。

話って…何⁇

もう今更、話すことなんて何もないでしょう⁉︎

イタい私を知った貴志が何を口走るのか不安で恐怖に怯える。わざわざ会ってまで自分が傷つく必要などあるのだろうか?そんなはずがない。

私の人生、これ以上、誰かに踏み込まれて傷つく必要などないのだ。

私はスマホの電源ボタンを押して明るくすると慌てて文字を打ち込んだ。素早い指先のフリック入力は文字を描いているかのようだ。

 水曜日の夜なら空いてる!

馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ‼︎

送信を押した後に再び頭を抱える。

自ら傷つく選択をした馬鹿さ加減に眩暈がする。

デイビッドの大切さ、リアルな世界の苦しさ、総合的に判断して断るべき誘いを自ら手にとった。

私は傷つくのが恐いのと同時に、もう一度、貴志といる時の居心地の良さを味わいたかったのだ。


 迎えた水曜日の夜。

待ち合わせ場所は寿司告白の時と同じ駅前だった。

同じ駅の利用者でも私と貴志は反対方向に住んでいるから駅で待ち合わせるのは好都合だった。

車を持っていない私達に駅は交通機関から待ち合わせ場所にと最適な場所だ。

私達は十九時に待ち合わせを予定している。

仕事を終えて駅近くの道を歩いていると前回と同じ場所で立っている貴志がいた。

黒のアウターとマフラーをした貴志が鼻を赤くして待っていた。

「お待たせ。」

貴志に近づいて声を発すると彼と目が合う。

落ち着いた色の瞳。デイビッドとかけ離れた黒い瞳が私を見つめる。

彼は落ち着いた口調で、「あ、うん。」とだけ返すとそのまま私に、「行こうか。」と言った。

「うん。でもどこに行くの?」

私が尋ねると足を進めようとしていた貴志が止まって、

「個室居酒屋でいい?ゆっくり話したいから。」と返した。

ゆっくり話すって…一体何を⁉︎

私の脳内はムンクの叫び状態。

これから起こる出来事が予想できなくて怯えていた。

先が読めないって本当に恐い。

自分の好きなように相手を操れないのだから。

「分かった。」

私が頷くと貴志は歩き出して私も横に並んで歩いた。

嗚呼、恐い恐い恐い恐い。

人生って恐い。恋愛って恐い。人間って恐い‼︎

貴志の横で呪文のように脳内でそれを唱える。そうでもしないとこの先の予測不可能な未来に不安が勝って逃げてしまいそうな気がした。今日も私の防衛本能は元気に稼働中だ。

そのまま歩いていると前々回行った個室居酒屋に辿り着いて店の中に入った。

店員に案内された席は前々回と同じ場所だった。私が貴志と久しぶりに再開して初めて二人でお酒を飲んだ場所、そのまま酔っ払って取り返しのつかない展開になってしまった呪いの席だ。

「何、飲む?」

席に着いて貴志に問われた私は即答した。

「オレンジジュース!」

酒厳禁也。酒は我が身を滅ぼす悪魔也。

仏の顔となった私が脳内で呟いた。

「じゃあ、俺はハイボール。」

ハイボール好きだなぁ!

確か前々回も貴志はハイボールを飲んでいた。

「早速、本題に入りたいんだけど…」

おしぼりで手を拭きながら貴志が話し出した。

私は緊張で唾を飲み込む。

何と言われるのだろうか。

手を拭いたおしぼりを丁寧に畳んだ貴志はそれを右横に置いて私の顔を見る。真っ直ぐと曇りなき眼だ。

「いきなりだけど里保ちゃんが付き合っているデイビッドについて教えて欲しいんだ。」

私と貴志の瞳がぶつかり合う。

貴志の言葉が脳内に反芻する。

デイビッドについて?

「お待たせいたしました。生ビールとオレンジジュースです!」

個室居酒屋の扉が開け放たれ、ジョッキとグラスを持った店員さんが現れた。

ビールをチラつかせる店員さんに貴志が手を上げて自分が頼んだものであるとアピールする。ビールとオレンジジュースが卓上に交互に置かれて颯爽と消えていく店員さんを見届けると一瞬、反芻していた言葉を忘れた。

「えっと…デイビッドについてだっけ?」

貴志が何を言っていたのか思い出して慌てて聞き返した。貴志がはっきりと頷いてみせる。

「うん、わかった。知っている範囲で話すね。」

自分の妄想彼氏なのに知っている範囲とはなんだ。

我ながらアホさが際立つ。

本当は異性には知られたくないイタい秘密だったのだが自ら墓穴を掘った咎だ。堪忍して全てを話そう。

脳内で冷静になった私が正座して呼吸を整える。

「デイビッドと初めて出会ったのは中学二年生の時、京都で修学旅行に来ていた私と海外スターであるデイビッドがお忍びで来日したタイミングが重なって運命的な出会いをしたの。それから私達はすぐにお互いの愛を感じていつか結婚しようって誓った。あれから十年以上経った今でも私達は真剣に愛し合っているの。」

淡々と事実を述べる私を貴志は黙って聞いていた。特に驚きもせずに私と同じくらい冷静だった。

ハイボールとオレンジジュース。

卓上に向かい合う二つの飲み物はどちらも同じ嵩のままだ。私も貴志もグラスとジョッキに触れることも食べ物を注文するためのタッチパネルに触れることもしない。

私達は今、食べて飲むこと以上にデイビッドについて向き合っていたいのだ。

「なるほどね。」

貴志が呟いた。視線は下を向いていてどんな表情なのか読み取れなかった。それが余計に私の不安を煽る。

「一つ、確認させて。それって…頭の中の話だよね?」

顔を上げた貴志が私の目を見た。

それはまるで何かを懇願しているかのような目だった。

私は首を縦に振る。

すると貴志はデイビッドについてもっと詳しく知りたいと言い出した。

「デイビッドと過ごした日々で思い出に残っている出来事とか、デイビッドの好きなところとか…思いつく限りでいいから俺に教えてほしい。」

デイビッドの好きなところ…思い出…そんなのあげていたらキリがないほどある。だけど貴志が知りたいというのなら話せるだけ話そう。

「デイビッドはね、すごくロマンチストなの。だから愛情表現がストレートで…ほら!貴志くんも外国人が話している姿とか見たことあるでしょう?向こうの国の人って日本人と違って恥ずかしさがないっていうか…すごくオーバーな反応をするの!その代わり愛してるっていっぱい言ってくれてプレゼントとかスキンシップでたくさん愛を伝えてくれるんだよ!この間も仕事でミスして落ち込んでいたらサプライズで大きな薔薇の花束をくれたの‼︎誕生日にタキシード姿で跪いて手の甲にキスしてくれたこともあったな…誕生日になると豪華なホテルでディナーをするの。フォアグラとかキャビアとか食べちゃって…夜は街の夜景を一望しながらワインを乾杯するの。お互いの目とか見つめ合っちゃって…最高にロマンチック。それから彼はいつも薔薇の匂いがするの!あれは絶対、香水だわ。薔薇の香りを纏った彼の胸の上に耳を当てて心臓の鼓動を感じる瞬間は落ち着くの。」

夢中になって話していた。

頭の中は私とデイビッドの甘い日々が蘇って溶けてしまいそうなほど、きっとトロンとした目をしているのだろう。

だ、け、ど!現実‼︎

ハッと現実世界に戻る。うっとりとしていた私は眠りから覚めたように貴志の方を見る。

貴志は夢の世界へ飛んでいる私を冷静に見ていた。

恥ずかしさが込み上げる。

ハエのように羽を広げて笑いながら頭の中をブンブン飛び回っている姿を冷静に見られることの恥ずかしさを初めて知った。穴があったら入りたい。

「まあ…全部、妄想の話なんだけどね。」

込み上げる恥ずかしさを誤魔化すように、私だって冷静なところありますよアピール。最後の言葉はイタみを最小限に止めるためのイタみ止めみたいなものだ。

「里保ちゃんがどれだけデイビッドを好きでどれだけデイビッドと濃くて長い時間を過ごしてきたのかすごく伝わったよ。」

貴志が優しく冷静にリアルな感想を述べるからさらに小っ恥ずかしくなってオレンジジュースを一気に口に入れた。甘酸っぱいオレンジジュースが脳を刺激して胃の奥へと落ちていく。

「でもまあ、今日はデイビッドのことを知れて良かったよ。」

知れて良かったって何が⁉︎

私が辱めを受けただけの話じゃないか!

ただ私がイタい女だってことを私に好意を寄せる男に自ら知らせてしまっただけじゃないか…

こんな無意味な時間を割いて、ただただ引かれるための材料を自ら差し出した。

イタい…イタい…

「里保ちゃん、俺は決めたよ。」

何かを決心した貴志が決意を込めた目を向けてジョッキを握る。そのままジョッキを持ち上げてハイボールを一気に飲み出した。

貴志の喉仏が上下する。

私は思わずその動きに視線を逸らした。

ジョッキの中のハイボールを半分以上、飲み入れた貴志がジョッキを卓上に置く。それから私を真っ直ぐ見つめて宣言した。

「俺、デイビッド超えを目指す‼︎」

高らかに響く貴志の威勢のいい声。

爽やかな笑顔で明るくキラキラと目を輝かせていた。

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