圧倒的愛
「おはようございます。」
出勤して更衣室に向かうとアルバイトの牧野美里が着替えている最中だった。
「あ、おはようございます!ってか服‼︎昨日と同じじゃないですか⁉︎」
私の服装を見て美里が声を上げる。
美里は近くの大学に通う20歳の大学生だ。
黒髪ロングでナチュラルメイクの美里は一見、大人しげな雰囲気だが、それは第一印象だけで話してみるとシビアな意見を持ったパンクロック好きの酒豪である。
「ついに高宮さんにもそう言う相手が出来たんですね…。」
ほっとしたようにトップスを脱いで制服を身につける美里に私は慌てて否定する。
「違う、違う。…違くないけど違うの!彼氏が出来たとかじゃなくて…」
私は貴志と交際をしているわけではない。ただ酒に流されて体の関係になってしまっただけだ。…ただそれだけだ。
「まあ、大人ですから色々な事情ありますよね…。でもまぁ、私的には妄想彼氏よりも健全でそっちの方がいいと思いますよ。」
美里が淡々と応えて制服に着替える。
彼女には高校生の時から付き合っている彼氏がいて現在、その彼氏と同棲中だ。私がリアルな世界の男に期待出来ず、バーチャル彼氏であるデイビッドに熱をあげている事実に店舗メンバーで唯一、呆れている。私がデイビッドの話をするたびに彼女は淡々とリアルな世界にも望む幸せがあることを説くのであった。私は彼女の言葉を信じたい一方で現実で襲いかかるリアルな人間たちの心ない襲撃に傷つき、怯えて、幸せを見つけるまでの行動をする勇気がなく、現在に至っている。
「牧野さん、今日は働く時間が長いから休憩時間があるね。」
私が話を変えると美里がニコニコし出した。
「そうなんですよ〜いつもより多く煙草が吸える!やっぱり息抜きがないとやっていけないですよね!」
制服に着替え終わった美里が、お先に!と言って更衣室を出た。
美里は清楚に見えるがヘビースモーカーで煙草がないと生きていけない。私にとってデイビッドは美里の煙草と同量のニコチンを含んでいて美里が煙草を吸わないと生きていけないようにデイビッドを考えないと私は生きていけないのだ。
日常を上手く過ごすために美里はニコチンに頼り、私はデイビッドに頼って一日一日を乗り越えている。少しだけ寂しいのは美里には直接手で触れることのできる彼氏がいることだ。私にはデイビッドの熱を実際に触れて感じる手立てはない。
そして美里は今を幸せだと実感して生きている。私はそんな美里が羨ましいと思う時があった。それは美里に限った話ではない。店長だってそうだ。男性アイドルに熱を上げながらも店長にはリアルな世界に生身の愛する旦那がいる。どちらかが死なない限り互いの肌に触れて互いの体温を感じることが出来る。
私にはそれができない。デイビッドが実在していれば私の世界は完璧に動き出すのに…現実は妄想通りにはいかない。
「高宮さんがどんなにデイビッドを好きでもデイビッドと同じように歳を取れない。自分だけ歳を取ってデイビッドだけが若いままかもしれないですよ。高宮さんには年老いたデイビッドを想像する力がちゃんとあるんですか?」
ニコチンを求める美里が今日も私に現実を伝える。
それは鬱陶しい一方で現実逃避癖のある私には有り難いものでもあった。
「私にとってデイビッドは美里ちゃんのニコチンと一緒なの。」
私は美里から現実を突きつけられるたびに逃げ道として彼女にこの言葉を使う。美里はこの言葉を使うと毎回、同じ反応を示す。苦笑して頭を掻く、それから一言。
「それ言われちゃうと敵わないですね。私にとってニコチンは生活の一部でなくてはならないものですから。」
私は美里がそう言うのをわかっていつも返すのだから我ながら狡いと感じる。でもニコチンは体内の命を削るけれどデイビッドは私の命を削ることはない。
私がどんなにデイビッドを想像しても私の寿命は縮まらず、むしろある程度のストレスをなくしてくれるのだから寿命を延ばしてくれているに違いない。
それなのに私が想像上の彼氏を愛していることを批判する人達が沢山いる。私はそれが嫌で心を開いた人間にしかデイビッドの存在を明かさないようにしていた。
みんなデイビッドが自分には見えないから批判するのだ。人間は目で見たものを信じるようにする傾向があるから私の中にしか映らないデイビッドの存在を批判する。
頭がおかしいと言う。イタい女だと言う。
でも私はイタい女になったおかげで死なずにちゃんと仕事をしてお金を稼いで税金を納めて生きているのだ。
イタくない代わりにリアルな人間に牙を向けないと生きていけない人間よりも遥かに健全ではないだろうか。気に入らない相手を攻撃しないと気が済まない人達よりも常識的だと思う。でも世の中の人々はそういった人たちの方が健全だと思っているのだから私はそういった人達には心を開かない。
分かり合えない人々に分かってもらう必要なんてないのだ。
「おはようございます。」
私と美里の背中から聞き慣れた声が聞こえた。
振り返ると午後出勤の早崎野々花が制服に着替えて私達を見ていた。
「あ、おはようございます。」
二人で野々花に挨拶する。
野々花は美里と同い年で同じ大学に通っている。アルバイト先も一緒なわけだが特別仲が良いわけではない。二人は同じ大学でも学部が違っていて美里は文系で野々花は理系らしい。野々花は普段、ドジで天然で仕事のミスも多い。ただ美里から聞いた話によると大学内では成績的にとても優秀な学生のようだ。
コテで巻かれた茶髪のロングヘアをポニーテールにしている野々花は掴みどころがなく、何を考えているのかわかりづらいが一歳上の医学部の彼氏がいることは把握している。私や店長、麻亜矢のように空想上の男や芸能人に熱を上げたことはないらしく、趣味はパズルゲームでそれ以外は友達や彼氏と出かけるか勉強をしているらしい。
「あ、時間になった。お疲れ様でした!」
あがりの時間になり、美里がタッチパネルで退勤ボタンを押す。あと三時間働けば私も仕事を終えることが出来る。退勤する美里を見送りながら私はデイビッドのことを考えていた。
それから三時間、お客さんはそれなりに来たが特別忙しくはなかった。
十二月に入ってからクリスマスケーキの予約をしに来るお客さんはいるがイブまで時間があるためまだそんなに来る時期でなかった。こういった予約はギリギリまで中々来ないし当日に飛び込みで来るお客さんの方が多い。
「よし、閉店まであと二十秒だね。」
私と野々花が閉店する準備に取り掛かる。
自動ドアのスイッチを閉めに向かうと閉店する三秒前に自動ドアが開いた。
ウィンッと開く自動ドアから二十代くらいの若いカップルが入ってきた。
「あぶな〜い。ギリギリ間に合ったね!」
彼女と思われる若い女が男の手を握りながら男に微笑みかける。
私は時計を見た。彼らが店内に入って二十秒が経過していた。本来なら閉店して十七秒が経っている時間だ。
間に合っていませんけど?
思わずそう言ってしまいそうな声を飲み込んで笑顔で、いらっしゃいませ!と言った。
彼らはそう言われるのが当たり前かのように私の顔を見ずにショーケースへと直行する。
「愛美が急にケーキ食べたいとか言うから〜お前のわがままに付き合えるのなんて世界で俺くらいだぞ。」
男が女の髪をくしゃくしゃに撫でた。
「えへへ。だって愛美、気分屋だから!」
女が男の腕に絡みついている。
こんなにも見ていて不要な光景も少ないだろう。
二人だけの世界に入って中々ケーキを決めないカップルに私は苛立ちを隠しながら無理矢理笑顔をつくる。
重しがついているのかと思うほどの重さで下に落ちる口角を無理矢理引き上げる。
彼らはケーキを決めるのに二十分を要した。結局、本来よりも三十分遅く閉店した。
ケーキが一つ入った箱を上機嫌に持った彼女と彼女の手を引く彼氏は頭を下げる私達に見向きもせずに背中を向けたまま消えていった。
その背中を見つめながら今日も私は何故、彼らがこのような残念な生き物になってしまったのか疑問に思う。疑問に思いながら閉店作業をして私服に着替える。
ただ考えても考えてもゴールは見えない。
見えないから別なことを考える。私にとってもっと有益なことを考える、想像する。
「さあ、今日は君の好きな薔薇を散りばめたお風呂だよ。ゆっくり浸かるといい。」
家に帰るとデイビッドが私のためにお風呂を用意してくれていた。
「ありがとう、デイビッド。…私、この間、あんなにあなたを傷つけてしまったのに。」
肩を落とす私にデイビッドが優しくおでこにキスをした。
「これでわかったでしょ?君の心を唯一癒すことが出来るのは僕だけなんだ。リアルな男は僕に勝てないよ。」
自信満々に私の肩を撫でるデイビッドに私はうっとりする。
「えぇ、本当にそうね。」
納得する私にデイビッドも嬉しそうだ。そして畳み掛ける。
「里保、僕はまた君がリアルな男に傷つく姿を見たくないんだ。だからその為にも…」
「わかっているわ、デイビッド。」
わかっている。十分わかっている。
その為にも私は貴志と関係を終える必要がある。
私がデイビッドの目を見て何度も頷くとデイビッドは満足気に私を見つめた。
その瞬間は私達二人だけの世界だった。
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