楽観飲酒
貴志が口から煙草の煙を出すたびに不思議な感覚になる。
学生服姿しか記憶になかった人が私服姿でお酒のジョッキを片手に煙草を吸っている。本当にこれが現実で起きていることなのか疑ってしまう。
貴志はグレーの長袖に濃い藍色のデニム姿で私の目を見ていた。
お酒で顔が熱くなっていく私に対して彼の顔色は何一つ変わっていない。
「へぇ…水族館、一人で行くんだ。本当に魚が好きなんだね。」
さっきの彼の返答に私は一瞬、戸惑ってしまった。でもそれを取り戻すように笑顔で返す。
ジョッキを掴んで二杯目のグレープフルーツサワーを飲むと私に合わせるように貴志がハイボールを飲んだ。
彼の喉仏が上下に動く。
私は飲みながらその動きから目を逸らした。
「あ、魚っていえばさ、さかなクンっているね!たまにテレビに出てるけどテンション高くて面白いよね〜。」
休日の過ごし方について貴志からの質問を回避するように話を振った。彼がハイボールの入ったジョッキを卓上に置くと、ドンっと音がした。
「さかなクンは…本当にすごい人だよ。」
真面目なトーンで話す貴志に私は思わず息を飲んだ。軽い気持ちで振った話題だったけれど彼の熱くなるスイッチを押してしまったようだ。
「さかなクンって何をした人か里保ちゃんは知ってる?」
急にマジなトーンで私を見つめる貴志の視線は緊迫していてたじろぐ。
「え…?ごめん、よく分からない。魚について詳しい人くらいにしか認識してなかった。」
これがメールだったら文章の末尾に(汗)が入るような表情で眉を下げてみる。
貴志は強い眼差しで私にさかなクンの功績を淡々と語り出した。
「さかなクンは中学生の時に入っていた吹奏楽部の顧問に相談されてカブトガニを飼育することになったんだ。オスとメスの二匹のカブトガニを朝と放課後の二回、散歩させたらそのオスとメスが交尾を始めて卵を産んだんだよ。カブトガニが水槽の中で産卵すること自体が珍しいことで、さかなクンは中学三年の時に民間人で初めてカブトガニの人工孵化を成し遂げた人物になったんだよ!」
熱い眼差しでさかなクンを語る貴志は目が大きく開いていて興奮しているのが分かった。
私はその姿を職場で何度も見ていた。お気に入りの韓国アイドルについて目を血走らせながら熱く語る麻亜矢を思い出しながら彼に頷いてみせる。
「TVチャンピオンの魚通選手権で五連覇しているし、東京海洋大学の客員准教授なんだよ。さかなクンはその大学出身じゃなくて別の専門学校の卒業生なんだけど今は大学の客員准教授をやっているんだ。すごいことだよ…」
「へぇ、それは本当に凄いね。でもさ、何で吹奏楽部だったんだろ?生物部とかはなかったのかな。」
私が疑問を投げかけると貴志の瞳がさらに爛々とした。
まるで彼の瞳の中に雫を一滴溢したように光り輝く玉が黒目の中心に存在している。
「インタビュー記事を読んだんだけど、吹奏楽部を水槽がたくさんあるクラブだと勘違いしちゃったんだってさ。」
「吹奏楽部…水槽学部…確かにそう言われてみるとそんな風にも聞こえるね。魚が大好きでいつも魚のことを考えているからそんなふうに解釈しちゃったんだ。」
私もデビット・ベッカムとデヴィッド・フィンチャーのニュース記事の見出しを見かけるたびに目を見開いて反応してしまう。
デイビッドは私の中でしか存在しない架空の人物なのにとうとう彼が私の前に現れてしまったのかと一瞬、ヒヤリとする。そうなってしまったら私は終わりだ。ついに現実と妄想の境目が分からない人間ということになってしまう。
「里保ちゃんはさ、高校の時と変わってないね。」
突然の貴志の言葉にボーッとしていた私は顔を上げる。貴志は短くなった煙草を灰皿に押し付けて二本目の煙草に火をつけた。指に挟んだ煙草を口から離すと静かに煙を吐き出す。
「高校の時さ、里保ちゃんを見ると友達に囲まれている端で話に参加しないでボーッとしている姿をよく見てたのを思い出したよ。いつも一人で幸せそうに何を考えているんだろうって思ってた。」
昔を懐かしむように貴志が再び煙草を口に咥えて煙を吐き出した。
私はそんな貴志の様子をポッカリと口を開けて見ていた。
いつもって、何を考えているんだろうって…それって私のこと好きだったってことだよね⁉︎
好きだったまではいかないにしても少なからず異性として他の子達よりも気になってたってことだよね⁉︎
意外だ。貴志こそ何を考えているのか分からないタイプだから、今まで私が貴志に興味がなかったってこともあるけれど学生時代に貴志が私を異性として気にかけていたなんて思ってもみなかった。
いや、でも待って!
何を考えているんだろうって思ってたと言っているだけで好きだったとは一言も言ってないよな。
里保ちゃんのことずっと好きだったんだよね。
これくらいのカミングアウトを聞かないとまだ脈ありとは限らない。
くれぐれもセックス目的で上手いこと乗せられないようにしないと!
「里保ちゃんは俺のことなんとも思ってなかったでしょ?」
貴志に話を振られて私は慌てふためく。
まさにその通りです!って答えたくなるような的を射ている言葉だがここでそれは言ってはいけないことくらい恋愛下級生の私にも分かる。
「そんなことないよ!個性的で面白い人だなって思っていたよ。」
個性的と面白いってすごく便利な言葉。
人がいいっていう言葉をかけられない人にはこれをかければなんとかなるのだから。
貴志は無表情で煙草を吸いながら私に、
「里保ちゃんって嘘が苦手そうだなって思うんだけどどう?」と聞いてきた。
今の言葉がその場を凌ぐための嘘だと見抜かれて私はさらに慌てふためく。
落ち着け!慎重に冷静に考えて話そう!
久々の異性との会話にずっと緊張していたこともあって今日はいつも以上に身体に酔いがまわるのが早い気がした。アルコールで私の身体は火照り、眠気に似た心地よいふわふわが襲ってくる。なんだか雲の上にいるみたい。個室居酒屋の店内は暖かくてアルコールと暖房が私の思考機能と体の動きを停滞させる。
「そんなことないよ。私、想像力豊かだし。」
貴志にそう返すと残り少なくなったグレープフルーツサワーを飲み干した。タブレット注文機におかわりをタップする。
「あ、俺もおかわりする。」
お酒を飲む前に比べて顔色一つ変わっていない貴志がタブレットに手を伸ばして画面をタップした。その際、わずかに互いの指と指が触れ合った。
貴志は互いの指が触れたことを何とも思っていないのか何事もなかったかのように離れて煙草を持ち替える。
「なんか酔ってない?大丈夫⁇」
「え?そう見える⁇」
「うん、顔が赤いし、あんまりお酒に強い体質じゃないのかなって。」
貴志に急に心配された私は必死にそれを否定する。
「大丈夫!お酒好きだから好きなだけ飲もう!」
どうしてこんなにもやけになっているのか自分でも分からなかった。
ただ昔から人に心配されると否定をしてなんともないフリをするのが癖みたいになっていた。
私ってそういうの全然気にしないから平気!って感じで明るく振る舞っていれば誰にも面倒くさいって思われないし、周囲の人間が気分良く過ごせるだろうから多少の無理はしてきた。ただ、たまに私が限界を超えた時、周囲の人間が戸惑っているのを見ると胸の奥が痛くなった。まるで期待外れと言われているようで迷惑をかけないように身体はブレーキをほとんどかけずに、心は言葉のブレーキをかけて生きてきた。
その性格が今の仕事に反映している。
毎日、知らない人達によく分からなくても取り敢えず笑って嫌味を言われても文句を言われても笑って、怒っている人間には自分の直接的な問題ではなくても頭を上げる。その時その時に見合った表情を考えて顔に張り付けている。
私は本当は人と関わることなんて向いていないのかもしれない。
だから今まで空想の中でのありえない恋愛しか出来ていなかったのかもしれない。
リアルでもっと傷ついていれば今頃、幸せな恋愛が出来ていたのだろうか。たった一回の失敗をいつまでも永遠の傷だと嘆いている私は幸せになれなくて当然なのかもしれない。
「里保ちゃんはヒオウギガイって知っている?」
「ううん。何それ?」
貴志の言葉に首を横に振る。
「今が旬の貝なんだけどオレンジ、黄色、赤、紫って色んな色がある貝なんだ。」
そう言って貴志が私にヒオウギガイの画像を見せる。
「へぇ、本当にカラフルで色んな色があるんだね。」
鮮やかなオレンジ色の貝を見つめながら目がとろんとしていくのが自分でも分かった。
身体中が温かな海水の中に潜っているような感覚になっている。そのまわりを色とりどりのヒオウギガイがパカパカと貝を開けたり閉めたりして踊っている。心地よいダンスの世界。私はそれを海中で一緒に踊る。
人魚姫になったような気分。
御伽噺の人魚姫は恋が実らずに泡になってしまうけれど私もそうなってしまうのだろうか。
それだったらせめてこの一瞬だけでも楽しみたい。
この一瞬だけでも夢の世界で生きていたい。
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