過去回想
「高宮、何にする?」
貴志がメニューを見つめる私に尋ねた。
私の視線は前に座る貴志に移り、それからその横にいる店員さんを見る。
「えっと…じゃあ、グレープフルーツサワーください。」
店員さんがメモをしてその場を離れた。
「あとはここにあるタブレットで好きなように頼めばいいから。高宮、なんか食べる?」
貴志に言われて取り敢えず唐揚げを頼んだ。
個室居酒屋だから店内のお客さんの顔は誰も見えない。話し声が聞こえるだけだ。
居酒屋なんて久々に来た。
最後に行ったのはいつだったか。
嗚呼、はっきりと覚えている。
ヤリ捨てされた日だ。
今でも思い出すと子宮が不快に感じる。
久しぶりだね、高校以来じゃん。今度、ご飯行こうよ。
再会したあの日、貴志はそう言って店を出て行った。あの後、同窓会の時につくられたグループラインを辿って貴志から連絡が来た。
そして今、始まったこの二人での飲み会。
彼と共有した学生時代の思い出なんて皆無だ。
正直、誘われた意図も理解出来ていない。
お気軽な遊び目的なら御免だ。もうあんな過ちは犯したくない。
「グレープフルーツ好きなの?」
目の前に置かれたグレープフルーツサワーの入ったジョッキを持つと貴志が尋ねてきた。
「うん、好き。匂いが好きだから。」
「へぇ、そうなんだ。柑橘系の匂い、俺も好きだな。」
そう言って貴志はビールの入ったジョッキを掴んで口に入れる。
生身の男がお酒を呑む瞬間を眺めると喉の奥が痒くなっていく。
躍動する喉仏と首の皺があまりにもリアルな人間の男で私の馬鹿みたいにふわふわでキラキラした脳内のお花畑が崩れていく。この感じ、紛れもなくリアルなこの感じ、苦手だ。
「あそこでずっと働いているの?」
ジョッキを置いた貴志が私に尋ねた。
「うん、そう。高校を卒業してからずっと働いているの。柏木くんは今なにしているの?」
「俺はスーパーで働いているんだ。プライスレスっていうスーパー知ってる?」
プライスレスとは私が住む地域の最寄駅にある大型スーパーマーケットだ。私が普段、利用しているのは家の近くにある小さなスーパーだが、そこで買えないものは駅まで歩いてプライスレスで買う時がたまにある。
「うん、知ってる。たまに買いに行くよ。」
グレープフルーツサワーを半分しか飲んでいないのに身体がポカポカとしている。
そういえば私、お酒に弱かった。
ヤリ捨てされたあの合コン以来、お酒を飲んでいなかったからすっかり忘れていた。
「そこの鮮魚コーナーで働いているんだ。」
ジョッキのビールが半分になっている貴志は顔色一つ変わっていない。まだまだ序の口のようだ。
「鮮魚?へぇ…じゃあ、魚捌いたりするの?」
「するよ。魚好きなんだ。」
無表情だった貴志が笑顔を見せる。
「仕事、楽しい?」
思わず聞かずにいられなかった。
「うーん…五分五分かな。楽しいけど面倒臭いなって思うこともあるし。でも楽しいもあるよ。」
貴志の言葉がアルコールで熱った私の身体に染み渡る。
自分が今まで一度も感じたことがない仕事への愛を貴志の話ぶりで感じ取ることが出来る。
私は貴志をまるで異星人のように思う反面、羨ましいとも感じた。
「私はケーキよりメイクの方が好き。」
そう言って口に入れたグレープフルーツサワーは苦味が強くて身体に染みた。
私の話を聞く貴志が煙草に火をつける。
煙草とか吸うんだ。
「別にいいんじゃない。好きなことを仕事にする必要なんてないよ。趣味として楽しむ方が良いこともあるしさ。」
煙草の白い煙が個室居酒屋の天井に昇っていく。まるで雲のようだ。
「そうだよね⁉︎私、好きなことを仕事になんて絶対できない!だって嫌いになっちゃうもん!」
好きなものに関わる仕事をしている人間に私は身を乗り出して熱く話す。
貴志はそれを煙草を吸いながら寛容に頷く。
嗚呼、この感じ、なんだか落ち着く。
私はグレープフルーツサワーを一気に飲み干しておかわりを頼んだ。貴志も同じようにビールを飲み干しておかわりする。
顔が赤くなっている私に対して貴志の顔色は何一つ変わっていない。
薄れていた高校時代の記憶が少しずつ蘇っていく。
色褪せた思い出がだんだんと色づいていく。
高校二年生、教室の隅で友達と楽しく話す私の視線の先には貴志がいた。
貴志は教室の中央でみんなに囲まれながら談笑する笑顔が眩しい人気者の隣の隣の席で一人消しゴム落としをしていて友人に白い目で見られているような生徒だった。
消しゴムを弾く時の真剣な眼差しと自ら創り上げた無人の敵の消しゴムが上手く床に落ちた時の喜びの表情。その横にいる友人の白けた表情を僅かな記憶から鮮明に思い出した。
「消しゴム落とし…」
学生時代の記憶が思わず口から出る。
「え?何?」
貴志が聞き返した。
「あ、いや。消しゴム落としとかする?」
なんだ、その質問は。
我ながら意味不明過ぎて頭を抱えそうになる。
「消しゴム落とし?昔はやっていたけど今はしないな。…懐かしいな。学生時代はよくやってたよ。」
「あぁ、そうなんだ。」
「うん。で、なんで今、消しゴム落としのこと聞いたの?」
間抜けな私の質問を貴志が鋭く聞き返したため私は慌てふためいた。別に正直に話したってなんてことないけれど話したらまるで私が彼を意識しているみたいで気に入らないから不自然に話をつくる。
「いや、職場に消しゴム落としが趣味の人がいてさ、急に気になっちゃったの!私は消しゴム落とししたことないから。」
我ながら陳腐な嘘をついた。
別に嘘をつく必要なんてないのに慌てて出た謎の嘘。
だって今の記憶をそのまま話したらまるで高校時代、私が貴志を目で追っていたみたいになるじゃないか。違う、違う。全然そんなんじゃないから!
そんな些細な誤解がきっかけで私のプライドが砕け散ってしまうことだってあり得る。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
もう三年前の合コンの過ちは繰り返さない!
グレープフルーツサワーが入ったジョッキを持ち上げて一気に飲み干した。貴志はそれを煙草を吸いながら大人しく眺めている。
私は嫌な過去の記憶を消し去りたい気持ちでタブレット注文機にお酒のおかわりをタップした。
思い出したくないことを思い出さないためにアルコールの力を借りる。
みんなそうやって現実から逃げているんだ。
私にもそれが必要だ。
目の前に貴志がいる今、デイビッドの力を借りることは出来ないから。
「あ、俺もおかわりする。」
ポーカーフェイスの貴志がハイボールの写真をタップする。
「お酒、好き?」
貴志が私に尋ねる。
「うーん、別に。柏木くんは?」
「貴志でいいよ。もう社会人だし。」
なんで社会人だと柏木から貴志になるのか理解出来なかったけれど言い直すことにした。それを彼が望んでいるのがわかったからだ。
「貴志くんは?」
「俺も普段はそんなに飲まないよ。」
せっかく言い直しても貴志の表情はさっきとさほど変わっていなくて突っ込みたくなる衝動を抑えた。
「そうなんだ。休みの日とか何してるの?」
嗚呼、なんでそんなお見合いみたいな質問したんだ、私。
いや、でもこれって初見の人なら誰でもする質問だよな。じゃあ、大丈夫だ。不自然じゃない!
自分の口から出る言葉が一個一個、間違っていないか不安になる。それを貴志の表情を見ながら私は答え合わせをする。
私はいつもそうやってきた。
私が答え合わせをせずに自由でいられるのはデイビッドの前だけだ。デイビッドの前では言葉を発する必要がない。
ただ無心で愛し合うことが出来る。
ただ自分の好きなタイミングで言葉を発して飽きたら空想を止めればいいだけだ。
生身の人間にそれは通用しないけれどデイビッドには通用するから私はリアルな世界の誰よりもデイビッドを愛している。
私がわがままになっても許される世界をデイビッドが用意してくれているのだ。
「休みの日か〜。」
貴志が煙草を灰皿の上に置いて記憶を巡らす表情になった。休日のことを思い出しているのだろう。
「テレビ観たり、寿司屋に行ったりするかな。あとたまに水族館にも行く。」
「へぇ。友達と出掛けたりするんだね。」
私の休日はほとんど寝ているか、デイビッドとの甘い日々を妄想しているかで一日終わる為、感心した。
実際の休日の過ごし方なんて絶対に言えない。
自分でした質問なのにブーメランになって墓穴を掘らないように嘘を考える。
えーと、テレビ…はほとんど見ないからやめよう。貴志はテレビを見るのが趣味だから本当に趣味にしている人の前で同じ趣味を言うのは避けたほうがいい。
へえ、テレビ見るんだ!なんの番組が好き?あー、あの番組面白いよね!俺、この間、見逃しちゃったんだ!どんな内容だった?…って質問された時に何も答えられなくなる。
趣味はテレビ…却下‼︎‼︎
思い切ってアウトドアにした方がいいかな。
散歩とか?登山は嘘だってすぐにバレるからやめよう。えーと…うーん…
「一人だよ。」
嘘の趣味で悩む私の目の前に声が飛ぶ。
私は思わず、え?と聞き返した。
「水族館、一人で行ってるんだよ。」
聞き返した私の目の前で答えた貴志は優雅に煙草を吸っている。
彼の口から出た白い煙が生き生きと天井に舞い上がって行った。
あ、もしかしてこの人って私と同じくらいイタいのかもしれない。
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